王が越える一線
ジギスムントが築き上げた盤面は静かに崩れ始め
禁断の決断へ踏み出します。
戦略室には、重苦しい空気が漂っていた。
巨大な机の上には海路図が広げられ、
新造船団の模型がいくつも並べられている。
本来なら、それらはサンドランドの繁栄を象徴するはずだった。
だが今は、いくつもの模型が倒れたまま放置され、
誰一人として直そうとはしない。
そんな空気ではなかった。
参謀の一人が緊張した面持ちで口を開く。
「……王よ」
震える声だった。
「北部都市群は、ヒマリ女王との協力を正式に決定しました」
「あれを女王などと認めてはいない」
低い声が返る。
「ですが、飛行魔物による空路の開拓を――」
その先は続かなかった。
ジギスムントは窓辺に立ったまま、地図から目を離さない。
微動だにしない王の背中を前に、参謀たちは息を潜める。
静寂だけが戦略室を満たしていく。
やがて、ジギスムントはゆっくりと目を閉じた。
頭の中で、飛行輸送という新たな盤面を計算する。
空路開拓の航続距離と速度。
北部都市群との運用による利益の分配。
そして――海路独占の崩壊。
計算は、一瞬だった。
(……終わった)
盤面を読み切った者だけが抱く静かな確信だった。
「ギーレ港を飛び越え交易が始まり、三か月もすれば……詰みか」
独り言のように漏れた声に、参謀たちは顔を見合わせる。
誰も言葉を返せない。
「なぜ、共同管理に……」
ジギスムントはゆっくり歩み寄り、山脈を示す線へ指を置いた。
「権益を、自ら手放すと言うのか」
「……はい」
参謀は深く頭を下げる。
「ペトラ主席は即断し、
ヒマリ女王との同盟および貿易協定を締結したとの報告です」
再び沈黙が落ちた。
指先が北部都市群を静かになぞる。
「切り札の魔物を共同管理にしてまで、北部都市群に肩入れするとは」
驚くほど穏やかな声だった。
棋士が投了を悟る、その瞬間の静けさに似ていた。
海路に価値があったのは、誰も山脈を越えられなかったからだ。
その前提が崩れた今、独占は崩れ、利益は分散する。
長い年月をかけて築き上げた盤面が、音もなく崩れ始めていた。
ジギスムントは静かに椅子へ腰を下ろす。
「戦場で二度敗れ……」
低く呟く。
「交易でも敗れ……」
そして、小さく息を吐いた。
「アレクシス公子まで奪還された」
拳がゆっくりと握られる。
(……フェルマーがいれば)
一瞬だけ、その名が脳裏をよぎる。
異界への結界対策。
アレクシスの監視。
あの男なら、北部都市群へ直接揺さぶりをかけることもできただろう。
しかし、すぐにその考えを切り捨てる。
(違う)
(あの男は、もう私の駒ではない)
それ自体が敗北だった。
知らぬ間に、駒は盤上から消えている。
アレクシスも。
フェルマーも。
そして今、北部都市群までも。
指の隙間から、静かに零れ落ちていく。
「今頃、ブリュード連合国が誕生していたはずだった」
ぽつりと漏れた言葉は、誰へ向けたものでもない。
「軍でも、交易でも、外交でも……私は勝ってきた」
蒼い瞳が、わずかに揺れる。
「召喚されたばかりのあの女は、何の力も持っていなかった。
そうだろう?」
参謀たちは初めて目にした。
常に最適解だけを示してきた王が、迷う姿を。
ジギスムントはもう一度だけ盤面を読み直した。
ギーレ港で建造中の新造船を前面に出し、北部都市群へ圧力をかける。
それと同時にブリュードにも進軍を開始する。
王都では旧派閥へ働きかける。
考え得る限りの逆転策を並べていく。
だが、そのどれも決定打にはならない。
(戦力分散の愚を私が犯すわけにはいかない)
静かに首を振ると、ゆっくり立ち上がった。
乾いた音を立てて指を鳴らす。
床の影が揺れ、一人の男が姿を現した。
長年、王の影として仕えてきた隠密魔導士である。
ジギスムントは王都ブリュードを示す地図を見つめたまま、
しばらく黙っていた。
(……殺すか)
残された結論は、それだけだった。
ヒマリが死ねば魔物は制御を失い、空路は崩れる。
北部都市群は混乱するだろう。
アレクシスにはこちらに切り札がある。
交渉の主導権を取り戻せる。
理屈だけを見れば、最適解だった。
それでも、指先はわずかに止まる。
(なぜ、躊躇う)
王が敵国の王を暗殺する。
盤上で勝つことを捨て、自ら盤を壊す行為でもある。
(このような状況で、苦し紛れの暗殺が成功するとは思えません)
教師だった頃のフェルマーの声が蘇る。
「やれるか」
僅かに声が震えた。
隠密魔導士は静かに頭を垂れる。
「やるなら、王都へ戻る前でしょう」
一拍置き、続けた。
「北部都市群は魔導への備えが薄うございます」
参謀の一人が顔色を失う。
「……陛下。それは王の道を外れます。
サムール王、アリシア姫に何とご説明されますか?」
ジギスムントはゆっくり頭を振った。
「私のすることは正しい」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、誰にも分からなかった。
参謀か。
去っていったフェルマーか。
それとも、自分自身にか。
「これまで、間違えたことなどない」
一拍置き、静かに続ける。
「これからも……正しいのだ」
その声に、もはや確信はなかった。
自らへ言い聞かせる呪文だった。
そう唱え続けなければ、自分が積み上げてきたすべてが崩れてしまう。
戦略室は静まり返る。
誰一人、王を止めることはできなかった。
その夜、ジギスムントは初めて、
自らが守り続けてきた「王の一線」を踏み越えようとしていた。
ジギスムントはこれまで「常に正しい選択」を積み重ねてきました。
だからこそ、自分の正しさが揺らいだ瞬間、
それを認めることができません。




