私か、公子か
三人が同じ場所に揃った時、
隠してきた想いも、嘘も、弱さも、
すべてが露わになる。
北部都市群の医療院。
白い石壁に潮風の匂いが混じる廊下を、ヒマリは足早に進んでいた。
胸の奥が、ずっと痛む。
ノリス。
アレクシス。
二人の名前が胸を締めつける。
角を曲がった、その瞬間だった。
ヒマリの足が止まる。
廊下の先、窓から差し込む光の中に、
一人の黒髪の少女が立っていた。
ノリスだった。
触れれば消えてしまいそうなほど儚く、細い肩が小さく震えている。
「ヒマリ……?」
その声には、ほんの一瞬だけ安堵が滲んだ。
来てくれた。
その事実だけで張り詰めていた心がほどけそうになる。
だが次の瞬間、その安堵は苦い現実へと変わった。
(これで……終わるのね)
ヒマリはゆっくりと歩き出す。
一歩、また一歩。
逃げ場のない距離まで近づくと、
ノリスは無意識に半歩だけ後ずさった。
「無理し過ぎよ……本当に山脈を越えて……?」
「うん」
ヒマリは微笑んだ。
「迎えに来たよ」
その一言だけで十分だった。
ノリスの膝から力が抜ける。
「どうして……」
「王都もロンデルも置いて……私なんかを……」
ヒマリはその前に立つ。
「私なんかじゃない」
静かだが、揺るがない声だった。
「言ったでしょ。
ノリスは――もう一人の私だって」
ノリスの瞳が揺れる。
一瞬だけ救われた気がした。
それでも胸を締め付ける思いは消えない。
(でも私は……)
(アレクシス公子を連れて帰れなかった)
(この町の優しさに甘えてしまった)
「私は……アレクシス公子を連れて帰れなくて
……ここで……その……」
言葉が続かない。
ヒマリは、その表情だけですべてを察した。
「……優しくされた?」
ノリスは否定できなかった。
静かに涙が頬を伝う。
「……揺れたの」
「今も揺れてる」
「ヒマリが来てくれて嬉しい。
でも……来なければよかったって思ってしまう私もいる」
短い沈黙が流れる。
ヒマリは手を伸ばした。
しかし抱き締める代わりに、
そっとノリスの顎へ触れ、視線を合わせる。
「じゃあ、選んで」
ノリスの呼吸が止まる。
「……え?」
「私か、アレクシス公子か」
逃げ道のない問いだった。
ノリスの瞳が大きく揺れる。
「そんなの……選べない!」
涙が溢れる。
「どっちも離れたくない!」
「だから……あなたが裁いて!」
ヒマリは小さく息を吐いた。
そして今度こそ、優しくノリスを抱き締める。
「今じゃなくていい」
耳元で静かに囁く。
「揺れていい」
「でも――」
抱き締める腕に少しだけ力を込める。
「帰ってきて」
ノリスの身体が震えた。
「でも私は、アレクシスと……」
言いかけて、止まる。
(今決めなくてもいい)
その言葉だけが胸に残っていた。
ノリスは堪えきれず、ヒマリへしがみつく。
「……ヒマリ」
ヒマリはゆっくりと身体を離し、穏やかに微笑んだ。
「一緒に行こう」
「アレクシス公子のところへ」
ノリスは涙を拭き、小さく頷く。
一度だけ胸へ手を当てる。
(私は、どこにいても揺れる)
(でも、それでもいいのかもしれない)
差し出されたヒマリの手を、迷いながらもしっかりと握った。
光と影は並んで歩き出す。
その距離はまだ少しぎこちない。
それでも、もう背を向けることはなかった。
◇
病室に港の潮風と柔らかな陽光が窓から差し込み、
白い床を静かに照らしている。
アレクシスは椅子に腰掛けていた。
まだ本調子ではない。
それでも以前より呼吸は穏やかだった。
扉が開く。
先にノリスが入り、その後ろからヒマリが姿を見せる。
静寂が部屋を包んだ。
ヒマリは肩の力を少し抜き、穏やかに笑う。
「……思ったより元気そうね」
「ええ。歩くには、まだ時間がかかりますが」
その時だった。
ノリスが自然な動きで近寄り、包帯を整える。
水差しを手元へ寄せ、椅子の向きまで直す。
どれも考えてした行動ではない。
身体が覚えている世話だった。
ヒマリは黙って見つめる。
(……なるほど)
医療院で過ごした日々。
看病し、支え合い、積み重ねてきた時間。
二人の間には、もう自分の知らない時間が流れていた。
少しだけ胸が痛む。
だが、不思議と嫌ではなかった。
ヒマリは自然に歩み寄り、ノリスの隣へ並ぶ。
二人は驚くほどよく似ていた。
違うのは、ノリスの方が少し背が高く、
癖のある髪をしていることくらいだ。
アレクシスは小さく息を呑む。
(『浄化支配』とは……ここまで似せられるものなのか)
「本当は私が迎えに行くつもりだったんだけどね」
その言葉にノリスは視線を落とした。
(やっぱり怒ってる……)
ヒマリは気付かないふりをする。
「どうやってここまで?」
「山脈を越えてきたの。港はサンドランドに押さえられていたから」
アレクシスは苦笑した。
「無茶をしますね」
「そっちこそ。勝手に死にかけて」
昔と変わらないやり取りに、部屋の空気が少しだけ和らぐ。
ヒマリは肩をすくめた。
「で、公子様。助けられてどう?
借りでも作った気分?」
冗談のつもりだった。
だがアレクシスは静かに首を横へ振る。
「借りではありません」
「僕は、あなたに選ばれた側です」
ヒマリの表情がこわばる。
「……何それ」
「助けられる側として」
笑おうとして、笑えなかった。
「相変わらず重いわね」
「そうでしょうか」
「そうよ」
少しの沈黙が流れる。
「あなたがどんな選択をしても、僕は正しいと思っています」
「……今も?」
「今もです」
迷いのない即答だった。
ヒマリは静かに息を吐く。
「……ロンデルは落ちたのに」
空気が変わる。
アレクシスは静かに頷いた。
「分かっています」
「約束を、守れなかった」
「いいえ」
アレクシスは姿勢を正した。
「あなたは正しい選択をした。
そして――これからのロンデルも」
「外交の話?」
「はい」
少し間を置き、アレクシスは真っ直ぐヒマリを見る。
「北部都市群は、あなたにつく」
「ええ」
「それだけでは足りません」
一度目を閉じ、静かに息を整える。
「ロンデルも、あなたに預けます」
一瞬、部屋が静まり返る。
「……本気?」
「はい」
「公子なのに?」
「僕はこの状態です。
とてもロンデル復興の陣頭には立てない」
アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「それでも――いつか、あなたの隣に立つ王になりたい」
ヒマリは思わず苦笑した。
(ずるい)
「……それ、口説いてる?」
アレクシスは少し考える。
「そのつもりはありません」
迷って、その視線が宙に浮く。
「ですが、そう聞こえるなら
……そうなのかもしれません」
ヒマリは今度こそ自然に笑った。
「ちょっと、優柔不断じゃない?」
「あなたもノリスを許したでしょう」
心地よい沈黙が流れる。
ヒマリは頷いた。
その瞬間、黒い瞳に光彩が走る。
一瞬の沈黙。
ロンデルのこれからを。
そして、ヒマリ自身が国を預かることを。
クルスと、電子よりも速く確認し合う。
やがて、ヒマリは静かに息を吐いた。
「分かった。ロンデルは預かる。
でも民には、あなた自身の言葉で説明して」
「はい」
力強い返事だったが、
ヒマリの瞳にちらりと影が差した。
三人の関係は、
もう元には戻らない。
でも、壊れたわけでもない。




