ヒマリ、山脈を越えて北部都市群へ
山脈の向こうは遠い。
王が動くには重すぎる距離。
それでも――
迎えに行くと決めた者にとって、
その距離はもう障害ではなかった。
ロンデル東部山脈。
北と南を隔てる巨大な岩壁には、なお雪が残り、
強い風が雲を流していく。
だが、空を渡る者にとって、それは越えられない境界ではない。
慎重さを要する空路――それだけだった。
◆
飛行魔物ドラムが、白い雲を裂いて飛ぶ。
大きな翼が風を掴み、一定の高度を保ちながら山脈を越えていく。
背に乗るヒマリは、錫杖を抱くように握り、遥かな先を見つめていた。
眼下には、雪をまとった尾根がどこまでも続く。
飛行魔物で山脈を越えること自体は、不可能ではない。
だが、安定した魔力供給。
人を襲わないほどの高い忠誠心。
長距離飛行に耐える個体。
安全な着地点。
多くの条件が揃わなければ成立しない。
だからこそ、誰も試そうとはしなかった。
ヒマリは、そっとドラムの首筋を撫でる。
「ありがとう、ドラム」
低く穏やかな鳴き声が返る。
胸の奥では、焦りだけが静かに渦巻いていた。
ノリスの消息が途絶えた。
ようやく届いた知らせは、
アレクシス公子と共に北部都市群で保護されているという報告。
本来なら確認すべきことは山ほどある。
フェルマーによる異界残滓の測定。
ジギスムントの脅威。
ロンデル公国の警備。
王が軽々しく城を空ける状況ではなかった。
それでも、待てなかった。
ノリスは助けを求めない。
苦しくても、一人で抱え込む。
だからこそ――迎えに行かなければならない。
『ノリスは無事だと何度も言っている。君が動く必要はどこにもない』
クルスの声が響く。
「あなたは、たまに嘘を付く。大事なことは自分で確かめる」
(直接会って、話さなきゃ)
王として正しい判断なのか。
そう問われれば違うのかもしれない。
もっと個人的で、感情的だ。
それでもいい。
自分は、そういう王でありたい。
『北部都市群がサンドランドと協定を結んだ確率82%
場合によっては、敵地に飛び込むことになる』
「二人が無事なら、それでいい」
ヒマリは顔を上げる。
雪の稜線の向こうで景色が変わる。
白銀は深い緑へ。
やがて、海に面した白い街並みが姿を現した。
(……着く)
北部都市群。
ノリスと、アレクシスが待つ場所。
◆
同じ頃。
北部都市群・議事堂前。
「王都側からの返答は」
ペトラが静かに尋ねる。
「まだ届いておりません」
補佐官が頭を下げた。
「そうか」
短く答えたペトラは、遠くの空を見つめる。
隣で腕を組んだネリィが、小さく肩をすくめた。
「まだ来ないでしょう」
冷静な声だった。
「仮に王都を出発したとしても、ギーレの港で足止め。
山脈越えを選ぶ商人だって滅多にいない」
「普通ならな」
ペトラは即座に返した。
「まだ言うの?」
迷いはない。
「あの王は来る」
ネリィは苦笑する。
「たった二人のために?」
「ああ、だがその言い方は正しくない」
ペトラは静かに頷いた。
「ノリスとアレクシス公子は女王の一部だ、
困難があろうと、山を越える」
「……信頼しすぎよ」
ペトラは穏やかに答えた。
「見誤っていないだけだ」
ネリィが何か言い返そうとした、その時だった。
ふっと、議事堂前に影が落ちる。
「……何だ?」
護衛たちが一斉に空を見上げた。
遥か彼方。
空の一点に、小さな黒い影が見える。
鳥ではない。
ゆっくりと。
だが確実に。
こちらへ近付いてくる。
「飛行魔物だ!」
「総員、警戒!」
次の瞬間。
轟音とともに突風が広場を吹き抜けた。
巨大な翼が空を打つ。
砂塵が舞い、人々は思わず腕で顔を覆う。
ドラムだった。
巨体がゆっくりと議事堂前へ降下する。
翼を広げれば、正門を覆い隠すほどの大きさ。
だが、その飛行は少しの乱れもない。
長距離飛行に慣れた個体だと、一目で分かった。
重い着地音が石畳を震わせる。
誰も言葉を失った。
やがて、一人の少女がその背から降り立つ。
長い黒髪。
旅装束。
だが、手には一目で王とわかる刻印入りの錫杖。
迷いなく一歩を踏み出す。
乾いた靴音だけが広場へ響いた。
風が静まる。
ヒマリは顔を上げ、まっすぐペトラとネリィを見つめた。
二人とも飛行魔物の着地に微動だにしていなかった。
ネリィは眉をひそめる。
女王が、本当に山脈を越えて来た。
型破りな手段で。
しかも単身で。
ペトラだけが、小さく笑う。
「言っただろう」
ネリィは何も言えなかった。
計算外だった。
しかし、それは無謀ではない。
実現可能な手段を見つけ、実際に成し遂げてみせた。
その行動力こそが、彼女の衝撃だった。
ヒマリは護衛たちの間をゆっくり歩き、議事堂の前で立ち止まる。
そして、深く頭を下げた。
異国の地で。
王である自分から礼を示す。
誰もが息を呑む。
「北部都市群の皆さま」
静かで、よく通る声が広場に響く。
ヒマリは顔を上げた。
迷いなく。
「影と、公子を迎えに来ました」
沈黙が広場を包む。
取引でもない。
同盟でもない。
王が最初に口にしたのは、たった二人を迎えに来たという言葉だった。
ネリィは静かに息を呑む。
(……信じられない)
利益ではなく。
ただ、人を迎えに来た。
そのためだけに山脈を越えてきた。
だからこそ――
誰よりも王らしかった。
ペトラが静かに微笑む。
「ようこそ、ヒマリ女王」
ヒマリは静かに微笑み、もう一度だけ深く頭を下げた。
朝風が広場を吹き抜け、旗を揺らす。
ネリィは、衛兵にドラムを預けようと話し出すヒマリの背中を、
しばらく見つめていた。
(私より十歳は若い娘が、こんな決断を下すのか)
小さく溜息が漏れた。
ヒマリは合理ではなく、
ただ迎えに行くという感情で山脈を越える。
それは王としては愚かかもしれない。
だが、誰よりも王らしい行動だった。




