秘密の契約
アレクシスの優しさが、
一時の嘘をいっそう苦しくしていく。
廊下の空気が、少しだけ冷えた。
ノリスは何も言えなかった。
ネリィの言葉は図星だったからだ。
ヒマリが来れば、すべて終わる。
自分は王都へ戻され、アレクシスの傍を離れ、
再び影としての役目へ戻る。
それが正しいことは分かっていた。
それでも――。
(……嫌だ)
考えるほど、感情が抑えきれなくなる。
ネリィは静かに青い魔石を指先で転がしながら言う。
「女王があなたを見れば、髪も魔力もすぐに気付くでしょう」
淡々とした口調だった。
「そうなれば、公子とあなたは二度と交わらない」
ノリスの肩が小さく震える。
「……そんなこと」
否定しかけて、言葉が止まった。
ヒマリがどう判断するかは分からない。
だが、フェルマーなら迷わない。
相手は、王都を破壊した魔王だ。
魔力が戻れば放っておく理由などない。
「……もう一つの条件は?」
話題を変えるようにノリスが尋ねた。
ネリィは小さく笑う。
もう半分、この取引を受け入れている。
そう確信した。
「異界魔力が必要なの」
「異界魔力?」
「海路用よ」
ネリィは壁へ軽く肩を預けた。
「北方航路では、魔物領域がある。
その対策として、異界魔力を封じた魔石を使っているの」
「魔除け……?」
「ええ、何も知らないサンドランド船団は
先行した私達に付いて来るでしょう」
ネリィは小さく笑った。
「この魔石へ異界魔力を溜めてほしい」
「どれくらい?」
「商船三隻分」
商人らしい単位だった。
ノリスは魔石へ目を落とした。
「……今の私に、それができるの?」
「だからこその取引よ」
ネリィは魔石を差し出す。
「その石があれば普段の魔力漏れも抑えられる」
「でも異界へ入れば……」
「危険ね」
迷いなく答えた。
「今のあなたは異界の匂いが戻り始めている。
魔物にも気付かれやすいかもね」
ノリスは黙った。
青い魔石は、どこか異界の空を思わせる色をしていた。
「……命懸けじゃない」
思わず漏れた言葉に、ネリィは首を横へ振る。
「命懸けよ」
その一言には迷いがなかった。
「でも、公正な取引でしょう?」
ノリスが顔を上げる。
「あなたは今までだって、命を懸けてきた」
その言葉が胸へ深く刺さる。
ノリスは自嘲気味に笑う。
「……嫌な言い方」
「よく言われる」
ネリィは肩をすくめる。
「それが私のやり方。
人の欲も、弱みも全部見る」
少しだけ目を細めた。
「あなたの弱みもね」
ノリスの胸が大きく脈打った。
「……何の話?」
「公子との距離、以前よりずっと近づいてる」
耳が熱くなる。
否定しようとした瞬間、ネリィが軽く手を上げた。
「言い訳はいらない。興味もないわ」
そう言いながらも、その瞳はすべて見抜いているようだった。
「ただ、利用価値があると思っただけ」
冷たい言葉だった。
それなのに、少しだけ救われた気がした。
ネリィは続ける。
「女王にも知られたくない」
「公子にも知られたくない」
そして少し間を置いて、
「正体も、感情も」
ノリスは何も返せなかった。
全部、本当だった。
(最低だ)
ヒマリの影である自分が。
居場所まで与えてもらった自分が。
それなのに、心だけは少しずつアレクシスへ惹かれている。
そんな資格はないはずなのに。
「……どうして、そこまで分かるの?」
かすれた声で尋ねる。
銀色に戻った髪がちりちりと逆立った。
ネリィは小さく笑った。
「今のあなた、とても怖い顔をしてる」
ノリスは視線を逸らした。
異界へ戻るのは怖い。
ヒマリに知られることも怖い。
そして何より――。
(アレクシスと離れるのが怖い)
その続きを考えることだけは、必死に止めた。
考えてしまえば、もう戻れない気がしたからだ。
ネリィは魔石を差し出す。
「どうする?」
「……断ったら?」
「秘密は守る」
即答だった。
「でも時間の問題ね。あと数日、長くても一週間。
女王が来る前に誰かが気付くでしょう」
優しくはない。
だが、それが現実だった。
長い沈黙の末、ノリスはゆっくりと手を伸ばし、
青い魔石を受け取る。
ひやりとした冷たさが掌へ伝わった。
「私からも……一つだけ条件」
ネリィが眉を上げる。
「言ってみて」
「アレクシス公子には言わないで」
一拍置いて、真っ直ぐ見つめる。
「絶対に」
ネリィは少しだけ目を細めた。
(そこまでなのね)
まだ恋ではない。
だが、確かに始まっている。
しばらく黙っていたネリィは、小さく息を吐いた。
「……さっきも言ったでしょう。
色恋沙汰に興味はないわ」
ノリスの肩から力が抜ける。
「ただ、一つだけ忠告しておく」
ネリィは踵を返しながら続けた。
「魔石があれば、あなたはいつでも魔王へ戻れる」
「やめて」
「もしもの話よ。でも万が一の時は、私は匿う用意がある」
ノリスは首を振った。
「違う。私は影のままでいるために、この魔石を使う」
その答えに、ネリィは心の中で苦笑する。
(……本当に厄介)
こんな顔をする人間ほど、最後には無茶をする。
「場所は港湾区画第三倉庫」
「夜半過ぎ、人が減ってから来て」
「……今夜?」
「ええ。女王が来る前に終わらせたいでしょう?」
ノリスは答えなかった。
答えなくても、その沈黙が答えだった。
「異界で危なくなったら、すぐ逃げなさい」
「未完成でも?」
「無茶をしろとは言ってない」
少しだけ間を置いて、
ノリスの銀色に戻った髪の房をかき上げる。
「あなたが死んだら、取引が成立しないもの」
最後まで取引の話。
だが、それだけではないことを、ノリスは少しだけ感じ取っていた。
ネリィの足音が遠ざかる。
一人残された廊下で、ノリスは掌の魔石をそっと握り締めた。
異界へ戻るのは怖い。
それでも、病室の扉の向こうにはアレクシスがいる。
呼べば笑い、何も疑わず、自分を信じてくれる人が。
(もう少しだけ……)
出来れば、このまま時がとまって欲しい。
ノリスは魔石を懐へしまい、静かに病室の扉を開ける。
「……お待たせ」
アレクシスは安心したように顔を上げた。
「長かったね」
「ごめん」
ノリスが椅子へ腰掛けると、
アレクシスの視線が一瞬だけ懐へ落ちた。
何かを隠している。
そう感じても、彼は何も聞かなかった。
ただ穏やかに尋ねる。
「……嫌なことはされなかったかい?」
その一言が、胸を締め付ける。
何一つ話せない。
それでも彼は疑わず、ただ自分を心配してくれている。
その優しさが、何より苦しかった。
「北部都市での生活について相談されただけ」
小さな嘘だった。
アレクシスは少しだけ考えるように目を伏せ、それでも静かに頷く。
「……そっか、いい街だとは思うよ」
信じてしまう。
その信頼が、胸に痛い。
ノリスは誰にも気付かれないよう、
椅子をほんの少しだけアレクシスへ寄せた。
少しでも近くにいたかった。
もう誤魔化せない感情。
窓の外では北の海風が静かに鳴いている。
今夜、ノリスは異界へ向かう。
誰にも言えない秘密と、小さな嘘を胸に抱えたまま。
次話、ヒマリはついに北部都市群へ到着します。




