影を見抜く商人
海路統括補佐ネリィは、影の少女の正体へ辿り着く。
静かな午後。
二人だけの廊下で、最初の“取引”が始まります。
北部都市群・中央医療院。
午後の柔らかな陽射しが、石造りの廊下へ長く差し込んでいた。
怪我人たちは眠りにつき、看護師たちの足音も遠い。
静寂だけがゆっくりと流れる中、
ネリィは海色の外套を揺らしながら一人歩いていた。
向かう先は中央病棟。
保護中のロンデル公子アレクシスと、
ヒマリ女王によく似た少女――ノリスの病室だ。
部屋の前まで来ると、扉の隙間から淡い光が漏れていた。
その奥から、小さな笑い声と穏やかな話し声が聞こえる。
アレクシスとノリスだった。
ネリィは盗み聞きをする趣味はない。
そのまま通り過ぎようとした、その時だった。
扉の下へ差し込む光の中に、銀色の毛先がほんのわずかだけ映った。
ネリィの足が止まる。
(……やっぱり)
昨日よりも黒髪が薄くなっている。
異界の瘴気に染まっていた黒が、
少しずつ剥がれ落ち、本来の銀色を取り戻し始めていた。
ネリィは静かに目を細める。
(異界の残滓が薄れている)
魔力を持たない人間が異界を越えるなど、本来あり得ない。
だが、最初から魔力を持っていたのなら。
しかも、それを意図的に隠していたのだとしたら――。
記憶の引き出しが静かに開く。
ロンデル崩壊以前。
北方航路では、ある噂が何度も流れていた。
銀髪の魔王。
一夜で守備隊を壊滅させ、忽然と姿を消した存在。
その噂と、目の前の少女が静かに重なる。
(……なるほど)
点だった情報が一本の線になる。
ヒマリの影と呼ばれる少女。
魔力を持たないはずなのに異界を越え、銀色の髪を隠している。
そこまで揃えば答えは一つだった。
(厄介なのを拾ったわね)
そう思いながらも、ネリィの口元には小さな笑みが浮かぶ。
(サンドランドと戦う日が来るなら、この娘は切り札になる)
静かに扉を叩く。
一瞬だけ室内が静まり返り、やがてノリスの声が返ってきた。
「……どうぞ」
扉を開くと、窓辺のベッドではアレクシスが身体を起こしていた。
包帯だらけの身体。
失われた右腕。
それでも、その表情は以前より穏やかだった。
その隣にはノリスが椅子へ腰掛けている。
二人の距離は、昨日より明らかに近づいていた。
(あら……)
予想よりも早い。
ネリィは何事もなかったように微笑む。
「少し、その娘を借りてもいいかしら」
空気がぴたりと止まった。
アレクシスが静かに目を細める。
「……何の用です?」
「少しの時間、商談があるの」
ネリィは即答した。
「北部都市群の内部事情も絡むから、
今の公子には関係のない話」
アレクシスの視線が鋭くなる。
「ノリスに関係があるなら――」
「アレクシス公子」
ネリィは穏やかな口調のまま言葉を遮った。
「あなたは保護対象。
北部都市群の交渉へ口を出す立場ではありません」
病室に静かな緊張が流れる。
だが、その空気を破ったのはノリスだった。
「……大丈夫」
小さく立ち上がる。
「すぐ戻るから」
アレクシスは少しだけ迷ったあと、小さく頷いた。
「……分かった」
止めはしなかった。
だが、その目は最後までネリィを警戒していた。
◆
人気のない廊下の曲がり角まで来ると、ネリィは足を止めた。
ノリスも静かに向き直る。
「それで?」
先に口を開いたのはノリスだった。
「商談って何」
警戒はしている。
それでも怯えてはいない。
逃げる様子もない。
(その強がりがどこまで持つかしら?)
ネリィは壁へ寄りかかると、一言だけ口にする。
「あなたの髪」
ノリスの肩がぴくりと震えた。
反射的に毛先へ触れる。
その反応だけで十分だった。
「……戻り始めてる」
ネリィは淡々と続ける。
「今朝から気付いていたわ。
隠していた魔力が、少しずつ漏れ始めている」
ノリスは何も答えない。
否定も反論もない。
その沈黙が何よりの答えだった。
「銀髪。異界の残滓。そしてヒマリの影」
ネリィは指折り数えるように続ける。
「そこまで揃えば十分よ。――消えた魔王」
その瞬間、ノリスの表情から色が消えた。
驚きでも怒りでもない。
感情そのものが凍りついたような顔だった。
「……何の話?」
「しらばっくれなくていいわ」
ネリィは肩をすくめる。
「誰もがヒマリ女王の到着を待ちわびている中で、
貴方だけは恐れている」
余計な説明は必要ない。
ノリスの反応だけで、確信には十分だった。
長い沈黙のあと、ノリスが疲れ切ったような声で尋ねる。
「……それで?」
「もし、そうだとしても北部都市には関係ないでしょ」
その声には怒りはなく、どこか諦めだけが滲んでいた。
それがネリィには少し意外だった。
「今の関係を続けたくないの?」
「許されるなら――」
途中で言いよどむ。
「でも……どうせ終わる」
ネリィは静かに眉を動かす。
「終わる?」
「ヒマリが来れば」
ノリスは俯いたまま呟く。
「全部、終わるから」
その言葉を聞いて、ネリィはようやく理解した。
この少女は恐れているわけではない。
ヒマリが来た時、自分へ下される裁きを待っているのだ。
そして、諦めている。
それでも、その覚悟を少しずつ揺らし始めている存在がいる。
病室に残してきたアレクシスだった。
ネリィには、それだけで十分だった。
(この取引は成立する)
商人としての勘が、そう告げていた。
ネリィは懐から小さな青い魔石を取り出す。
「取引をしましょう」
ノリスの視線が魔石へ落ちた。
「……魔石?」
「魔力封じよ」
石を指先で転がしながら説明する。
「異界魔力を閉じ込められる特殊品なの。
漏れ始めた魔力をこれへ流せば、髪の色も抑えられる」
ノリスの瞳が小さく揺れる。
「……なんで、そんなものを」
「商人だから」
ネリィは迷わず答えた。
「珍しい物は仕入れる主義なの」
ノリスは魔石を見つめたまま尋ねる。
「条件は?」
その問いに、ネリィはわずかに口元を緩めた。
「条件は二つ」
午後の陽射しが静かに傾いていく。
「まず一つ」
ネリィはノリスを真っ直ぐ見据えた。
「このことは、ヒマリ女王に話さないこと」
ノリスの目が止まる。
静寂が二人を包んだ。
そしてネリィは、もう一歩だけ踏み込む。
「――あなたも、今すぐ終わりたくないでしょう?」
ネリィは青い魔石をそっとノリスの掌へ乗せた。
「返事は急がなくていい」
「でも商機は、いつまでも待ってくれないわ」
ノリスは青い魔石を見つめたまま動かなかった。
その小さな石が、
自分の未来を繋ぎ止める最後の綱のように思えた。
ネリィはついにノリスの本質へ気づき、
魔力封じの魔石という、
商人らしい形での救いを差し出します。




