優しい王の隠し事
ジギスムントは盤面の綻びに気づき、
アリシアは知らなくていいはずの真実を垣間見てしまう。
資料はすぐに運び込まれた。
地下牢の警備記録。
北部都市群との交易通信。
ネリィからの定期報告。
隠密による監視記録。
執務机は紙束で埋まり、砂時計だけが静かに時を刻んでいる。
ジギスムントは、最初から一枚ずつ目を通していった。
胸の奥で、氷のような熱が静かに膨らんでいく。
だが、感情は判断を鈍らせる。
それを誰より理解している。
だからこそ、冷やす。
思考を。
呼吸を。
(崩れてはいない)
まだだ。
アレクシスは失った。
だが、完全に盤面から消えたわけではない。
通信記録を開く。
昨日のネリィの報告。
文字面だけ見れば自然だ。
だが今なら分かる。
やはり、浅い。
ネリィにしては観察が足りない。
港湾状況も、議会内の温度差も、反対派の動きも書かれていない。
まるで――
(書けない何かがある)
隠している、とは少し違う。
利益を理解した上で、動けなくなっている。
(油田採掘権を新たに提示してもいい)
だが、利をを提示してなお足踏みしているのなら、理由は一つだ。
(アレクシス)
北部都市群に公子がいる。
ペトラはそれを隠している。
ネリィも、おそらく知っている。
だから契約を止めた。
いや、止めざるを得なくなった。
だが、まだ足りない。
「申し上げます」
隠密魔導士が再び現れた。
「公子関連の保管物は、全て無事です」
ジギスムントの視線が上がる。
「持て」
黒布に包まれた箱が運ばれた。
慎重に布が外される。
現れたのは、小さなガラスケースだった。
薄い保存液が静かに揺れる。
その中に沈むものを見て、室内の空気が僅かに張り詰めた。
潰れた眼球。
砕けた腕の骨。
アレクシスのものだ。
衛兵が、わずかに視線を逸らす。
だがジギスムントは、ただ静かに眺めた。
嫌悪もない。
愉悦もない。
価値を測る目だけがあった。
「……失ってはいないな」
「はっ」
「義眼と義腕の適合に必要な核です」
静かな返答。
ジギスムントはケースを閉じた。
(ならば、まだ負けていない)
北部都市群が保護しようと。
ヒマリが介入しようと。
アレクシスが完全に元へ戻るためには、これが必要になる。
必要とは、交渉材料だ。
「北部都市群には悟らせるな」
「御意」
「ネリィに新たな条件を提示しつつ身辺を洗え。
接触者、出入り、港湾記録。全てだ」
「……裏切りを疑いますか?」
「違う」
即答だった。
「有能な商人は利益で動く」
蒼い瞳が、静かに細まる。
「利益を変えた何かがある」
「それを探れ」
「はっ」
魔導士の姿が影へ溶ける。
再び静寂。
窓の外では、月が高く砂漠を照らしていた。
(いつから後手を踏んだ?)
婚礼の前か。
ロンデル崩壊の後か。
それとも、もっと前から。
見落としていた駒。
その存在が、僅かな苛立ちを生む。
だが怒りでは勝てない。
勝つのは、情報だ。
◆
同じ頃。
離宮の廊下。
侍女ネイは、湯浴みの準備を終え、急ぎ足で戻っていた。
その途中。
執務室の前を通りかかる。
扉が、少しだけ開いていた。
本来なら気にしない。
王の執務だ。
自分には関係ない。
だが、灯りが見えた。
机の上。
ガラスが月光を反射している。
そして――中に、何かが沈んでいた。
「これに、どれほどの価値を付けるかだな」
ジギスムントの声。
冷静で、静かで。
だからこそ、怖かった。
「アレクシスに適合する義眼と義腕には欠かせない」
その言葉が、耳に刺さる。
ネイの目が、ケースの中を捉えた。
液体に沈む。
白い球体。
潰れた目。
傍らに浮かぶ、砕けた骨。
「ひっ……」
悲鳴を押し殺し、口を押さえる。
心臓が壊れそうなほど鳴っていた。
何を見た。
何を聞いた。
分からない。
ただ、一つだけ分かる。
怖い。
優しく笑っていた王が、急に知らない人に見えた。
(アリシア様……!)
ネイは駆け出した。
◆
離宮・寝室。
アリシアは鏡の前に座っていた。
夜着姿のまま、左手を見つめている。
黄金の指輪。
昨夜は、少しだけ温かく感じた。
冷たいはずなのに。
この人に見てもらえている気がしたから。
「アリシア様……!」
扉が勢いよく開いた。
ネイだった。
顔色が悪い。
呼吸も乱れている。
「どうしたの?」
「申し上げにくいのですが……!」
ネイの声が震えていた。
「王様の執務室で……聞いてしまって……!」
アリシアの表情が、わずかに止まる。
「聞いた?」
「ガラスのケースが……!」
言葉がまとまらない。
「目が……骨が……公子様の義眼と義腕がどうとか……!」
静寂。
窓の外で、砂漠の風が低く鳴った。
アリシアはネイを見つめる。
震える肩。
青ざめた顔。
冗談ではない。
そう分かった。
それでも。
「……ネイ」
アリシアは小さく微笑んだ。
「今日はもう遅いわ」
「でも……!」
「湯浴みの準備、ありがとう」
優しい声だった。
いつもの王女の顔。
ネイは口を閉ざし、小さく頭を下げた。
「……はい」
扉が閉まる。
一人になった部屋に、静寂が落ちる。
アリシアは、もう一度左手を見る。
黄金の指輪。
昨夜は、温かかった。
でも今は。
ひどく、冷たい。
(……あの人は、何を隠しているの?)
胸の奥に、小さな不安が落ちる。
まだ信じたい。
でも、私にはきっと話してくれない。
窓の外で、砂漠の風が静かに鳴っていた。
アリシアはそっと指輪を握る。
冷たさだけが、確かだった。
アリシアは愚かではありません。
ただ、ジギスムントを信じたいだけです。




