冷酷な王の花嫁になった夜
愛ではなく契約から始まった二人ですが、
アリシアはかなり早い段階で恋に落ち始めています。
祝宴に集った貴族たちは、皆満足そうだった。
引出物として北部都市群から届けられた交易品が配られたからだ。
サンドランドとブリュードの婚姻は、
砂漠国家へ莫大な利益をもたらす。
誰もが黄金に彩られた未来を疑っていなかった。
だが、離宮へ向かう回廊を歩くジギスムントの胸中に、
祝福の熱など一欠片もない。
(北部都市群の動きは鈍い)
ネリィが先行して送ってきた交易品だけでは、
貴族たちの欲望を満たし切れない。
静かな石廊には規則正しい足音だけが響く。
合理だけを考えれば、北部都市群はサンドランドへ寄るはずだ。
しかし、主席ペトラは合理だけで動く男ではない。
ネリィが押し切れなければ、この先の交渉は面倒になる。
そこまで考えた時だった。
「……陛下」
後ろから遠慮がちな声が届く。
ジギスムントが振り返ると、そこにはアリシアが立っていた。
婚礼衣装から着替え、薄い砂色の寝衣をまとっている。
豪奢な装飾を外した彼女は、昼間よりも年相応に幼く見えた。
「どうした」
「……まだ、お仕事を?」
恐る恐る尋ねる声に、ジギスムントは数秒だけ彼女を見つめる。
「癖のようなものだ」
「……そう、ですか」
アリシアは小さく頷き、視線を伏せた。
婚礼の夜くらいは、自分だけを見てくれるのではないか。
そんな淡い期待があったのだろう。
その落胆は、隠しきれていなかった。
だからこそ、ジギスムントは静かに歩み寄る。
「不満か」
「……っ」
距離が縮まるだけで、アリシアの肩が小さく震えた。
怯えと憧れ。
二つの感情が素直に表れている。
「い、いえ……」
「嘘だな」
責める口調ではない。
むしろ穏やかだからこそ、逃げ道を失わせる。
ジギスムントは冷たい指先で、そっと彼女の頬へ触れた。
「お前は特別を望む人間だ」
アリシアは息を呑む。
見透かされていた。
自分でも気付いていなかった願いを、あまりにも簡単に。
「……私は」
「安心しろ」
ジギスムントは静かに言葉を重ねる。
「お前は、もう手放さない」
その一言が胸の奥へ静かに染み込んでいく。
自分がどれほど単純なのか、アリシアは思い知らされた。
たったそれだけの言葉で嬉しくなり、
救われたような気持ちになってしまう。
(この人は、ずるい)
優しく甘やかしているわけではない。
愛を囁いているわけでもない。
それでも、この人は自分が一番欲しい言葉だけを、迷いなく与えてくる。
まるで心の奥底まで見透かしているかのように。
ジギスムントは婚礼でヴェールを外した時と同じ手つきで、
アリシアの髪を優しく撫でた。
「怖いか」
「……少し」
「なら、それでいい」
そう言って一歩だけ距離を詰める。
「恐怖は、人を正直にする」
アリシアは喉が鳴るのを止められなかった。
冷たく危険な男だと分かっている。
それでも、その瞳に見つめられるほど胸の奥は熱を帯びていく。
「アリシア」
静かに名前を呼ばれただけで、心臓が大きく跳ねた。
「はい……」
「お前は賢い」
ジギスムントは穏やかな口調のまま続ける。
「だから、この婚姻が愛ではなく契約だということも理解しているはずだ」
その言葉に、空気が少しだけ冷えた気がした。
胸は痛んだ。
それでも涙は浮かばない。
最初から、この人はそういう人だと知っていたからだ。
「……はい」
小さく震えながらも、アリシアは頷く。
「分かっています」
その返事に満足したように、
ジギスムントは彼女の唇を親指で静かになぞった。
「お前は良い王妃になる」
たった一言褒められただけなのに、胸が苦しいほど嬉しかった。
(ああ……駄目だ)
アリシアは悟る。
もう自分は、この人に囚われ始めている。
優しくされたからではない。
愛されたからでもない。
自分でも気付かなかった願いを、
誰よりも正確に見抜かれてしまったからだ。
ジギスムントは彼女の左手を取り、黄金の指輪へ静かに目を落とした。
月明かりを受けて、鈍い光が指先に宿る。
「冷たいでしょう」
アリシアは小さく呟く。
「黄金は熱を持たない」
「……でも」
アリシアは指輪をそっと撫でた。
「嬉しいです」
ジギスムントはわずかに沈黙する。
その返答は予想外だった。
怯えや不安を見せると思っていた。
だが彼女は違う。
契約だと理解した上で、この婚姻そのものを受け入れている。
(……面倒だな)
心の奥で微かにそう思う。
恐怖も欲望も計算できる。
だが、見返りを求めない純粋な好意だけは、人の読みを狂わせる。
それでもアリシアの指を包む自分の手には、
わずかに力がこもっていた。
その変化に、ジギスムント自身はまだ気付いていなかった。
◆
翌朝。
砂漠の朝陽が白く寝室へ差し込む。
アリシアは静かに目を覚ました。
隣には、もう誰もいない。
王がいつまでも隣にいるはずがない。
それは最初から分かっていた。
広い寝台に残っているのは、かすかな温もりだけだ。
アリシアは左手を胸元へ引き寄せる。
黄金の指輪。
冷たい契約の証。
愛ではないと理解している。
それでも指輪へ触れるたび、胸の奥は少しだけ温かくなった。
(……私は、馬鹿だ)
小さく笑みを浮かべる。
それでも、この冷たさを大切にしてしまうのだろう。
窓の外では砂漠の風が静かに吹いていた。
サンドランドの朝は、どこまでも白く。
そして残酷なほど美しかった。
婚礼の夜のお話です。
ジギスムントは、まだ自分の感情を認識していません。




