契約の婚礼、冷たい王
政略婚。
それは愛ではなく、契約のはずだった。
――少なくとも、彼にとっては。
サンドランド王宮・大広間。
砂岩の柱には黄金布が垂れ、
天窓から差し込む朝陽が硝子灯を透かして砕けていた。
眩い光が大広間を満たしている。
豪奢な大広間に満ちているのは歓喜ではない。
貴族たちの視線は、新郎新婦よりも、
この婚姻が生む利益へ向いていた。
祭壇の前に立つ男を見て、アリシアは小さく息を呑む。
ジギスムント・フォン・ブリュード。
黒地に金糸を織り込んだ正装は軍服のように隙がなく、
銀髪は朝日に照らされて白く輝いている。
凪いだ海のような蒼い瞳には、今日も感情が浮かばない。
それでも視線は自然と吸い寄せられてしまう。
(……この人だけは、読めない)
近くに立つだけで空気が張り詰める。
穏やかな表情のまま、必要なら躊躇なく誰かを切り捨てられる。
そんな確信だけが胸に残っていた。
「ジギスムント王」
サンドランド王の声が響く。
「誓いを」
ジギスムントが一歩前へ出る。
迷いのない足取り。
王として完成された歩みだった。
やがて静かな視線がアリシアへ向く。
「手を」
低く落ち着いた声だった。
命令というより、逃げ道を与えない宣告のようでもある。
「……はい」
震える指先を差し出す。
その手に、ジギスムントの手が重なった。
驚くほど冷たい。
まるで磨き上げられた鋼のようだった。
それでも握る力は不思議なほど穏やかで、
壊れ物を扱うような優しさがあった。
ジギスムントは黄金の指輪を手に取る。
装飾は控えめだが、内側には古い王家の紋章が刻まれている。
「我が妻、アリシア」
穏やかな声が静かに響く。
「これより君は、私のものとなる」
支配を告げる言葉。
けれど続く声は静かだった。
「安心しろ」
アリシアが息を止める。
「君が私に背を向けない限り、私は君を守る」
その言葉は胸の奥へ静かに沈んでいった。
心を許してはいけない。
そう分かっているのに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
ジギスムントは指輪を左手にはめる。
冷たい金属が指に馴染んだ。
外せない鎖のようにも思えた。
「君の誓いを」
「私は……ジギスムント王の妻となります」
声は震えていた。
「サンドランドの名において、誓います」
しばらく沈黙が流れる。
やがてジギスムントは小さく頷いた。
「良い返事だ」
そのままアリシアの顎へ静かに手を添える。
驚く間もなく、唇へ柔らかな口づけが落ちた。
ほんの一瞬。
触れるだけの短い口づけだった。
それでもアリシアの思考は真っ白になる。
「……陛下」とアリシアが小さく呟く。
ジギスムントは返事をしない。
ただ、顎に添えた手の平にほんの少し力が込められた。
背後では貴族たちがどよめき、
祝福と羨望の入り混じった声が広がっていた。
「北部都市群の契約も宣言はまだか……」
「すでに始まっているのか
……陶磁器だけでも手に入らぬものか」
「娘を側室に入れたいが、アリシア姫はどう思われるか――」
「サンドランドはさらに――」
祝福ではない。
誰もが利益を計算している。
婚姻と関係のない無数の視線が押し寄せ、
アリシアは息苦しさを覚えた。
胸が締めつけられ、足元がふらつく。
その瞬間だった。
ジギスムントの腕が自然にアリシアの腰へ回る。
誰にも気づかれないほど控えめな動作。
けれど、その支えは確かだった。
「……大丈夫だ」
耳元へ小さく落ちる声。
「余計なものを見る必要はない」
静かな言葉だった。
「私だけを見ていろ」
その言葉だけで、不思議と胸の震えが静まっていく。
いつの間にか、周囲のざわめきは耳に入らなくなっていた。
腰へ添えられていた手が静かに離れる。
ジギスムントは何事もなかったかのように列席者へ向き直った。
「この婚姻により、ブリュードとサンドランドは結ばれる」
冷静な王の声が大広間へ響く。
「新たな交易路は統合され
木材供給も北方航路も、両国で利益を分け合うものとなろう」
婚礼の空気は一瞬で政治へ変わった。
やはり、この人は王なのだ。
愛より盤面を見ている。
それでも――。
アリシアは左手の指輪へそっと触れる。
(……この人の妻になった)
その事実だけが胸に静かに残っていた。
◆
宴が終わる頃には、空は群青へ染まっていた。
楽師の演奏も止み、大広間から人影が消えていく。
長い一日だった。
自室へ続く回廊を歩きながら、アリシアは指輪へ触れる。
冷たい指先。
穏やかな声。
そして唇へ落ちた、短い口づけ。
忘れようとしても、胸が勝手に思い返してしまう。
「王妃殿下」
侍女が恭しく頭を下げた。
「陛下がお呼びです」
一瞬、意味が分からなかった。
そして、すぐに理解する。
(……初夜)
鼓動が一気に速くなる。
引き返したい。
それでも、足は止まらなかった。
侍女が静かに扉を開く。
「こちらでございます」
灯りを落とした王族区画。
その奥には、冷徹な王として世界に恐れられながら、
誰よりも静かに自分を支えてくれた男が待っている。
アリシアは左手の指輪をそっと握り、一歩を踏み出した。
婚礼回でした。
ジギスムントは最後まで合理ですが、少しだけ揺れも見え始めます。
そしてアリシアは、怖がりながらも少しずつ惹かれていく段階。
次回、婚礼の夜です。




