隣にいたいと願えた日
静かな夜。
けれど、傷ついた心ほど眠れないものなのかもしれません。
北部都市群・中央医療院。
石造りの病室に、静かな月光が差し込んでいる。
窓の外では、遠く波の音が響いていた。
薬草の匂いと、微かな潮風。
「面会は短めでお願いします。
私は少し離れたところにおりますので」
ノリスが目覚めたときに声を掛けてくれた看護師が
病室の端まで歩いていく。
その足音が響く中、
ノリスはベッド脇に座っていた。
月光に照らされたアレクシスの横顔は、
地下牢よりさらに痩せて見えた。
その姿を見るたびに、ノリスの胸は痛む。
あの日の選択が、この傷へ繋がっている気がしてならなかった。
(地下牢の言葉を確かめたかったけど――)
アレクシスの容体を先に心配すべきだった。
ここにいる資格なんてない。
なのに、足が動かなかった。
どうしても、あの時の気持ちを確かめたい。
(最低……)
壊した側なのに。
まだ期待しているなんて。
「……ここは?」
かすれた声に、ノリスの肩が跳ねた。
顔を上げる。
ベッドの上で、アレクシスが薄く目を開けていた。
「北部都市の医療室よ。
異界で足を踏み外してしまって――」
「……地下牢からは、脱出できたわけだ」
弱く笑う。
けれど、すぐせき込んだ。
「ごめんなさい、気が付かなくて」
ノリスは立ち上がり、水差しへ手を伸ばした。
「喉かわいていたのね」
「目が覚めたばかりで……」
震える左手ではうまく持てない。
ノリスが支えると、アレクシスは静かに礼を言った。
「ありがとう」
その一言が、妙に苦しい。
「……体、痛む?」
「すごく」
また、冗談みたいに答える。
でも、その後に続く沈黙が重かった。
やがて、アレクシスは静かに天井を見上げる。
「地下牢で目が覚めた時さ」
左手が、失われた肩へ触れた。
「腕がなくて、夢じゃないんだと思って」
少し笑おうとして、失敗する。
「……ジギスムントから母の死を伝えられた」
ノリスの呼吸が止まる。
この人は強い。
そう思っていた。
でも、強い人ほど、壊れる時は静かだ。
「私を憎んだ?」
気づけば聞いていた。
アレクシスは少しだけ黙って、首を振る。
「どうしても、そう言わせたいみたいだね」
「だって、そうじゃないとおかしいよ」
声が、少しだけ震えていた。
「では、君を憎もう」
胸が締め付けられる。
覚悟していたのは自分なのに。
その時だった。
アレクシスが、ゆっくり青い瞳を向ける。
「そして、君を許そう」
残った左目が、柔らかく細まった。
「本当に?」
呼吸が止まる。
「君が助けてくれたんだ。感謝ぐらいさせて欲しい」
やめて、と思った。
簡単に許さないで欲しい。
私はあなたを壊した側なのに。
「……助かってないわ。
北部都市群の主席にあなたのことがバレてしまった」
視線を落としたまま続ける。
「私も、勉強しているけど、
政治のことがわからなくて――どうしたらいいのか」
「足手まといの公子を置いて、助けを求めに行く手もある」
「そんな――」
アレクシスは体を起こそうとして、顔をしかめた。
「でも、へたに動かない方がいい。
商人は何でも天秤に掛ける――人の生死さえも」
ノリスが息を吞む。
「じゃあ、サンドランドに売り渡されるってこと?」
「あるだろうね、そういう商人もいる」
「絶対にそんなことさせない」
アレクシスが、震える左手を持ち上げる。
うまく力が入らない。
それでも、必死に、ノリスの袖を掴んだ。
「……ありがとう」
弱い声だった。
「君のそういうところだ」
ノリスの瞳が揺れる。
「本当にヒマリさんにそっくりだ」
少しだけ笑う。
「でも、不思議だね。
同じ顔なのに、ちゃんと君だって分かる」
世界が止まった。
胸の奥が、ぐしゃぐしゃになる。
「……ダメ」
震える声。
「それ、間違ってる」
「分かってる」
「私も……」
喉が詰まる。
「……隣にいたいって思ってる」
初めて口にした本音だった。
「最低でしょ……」
長い沈黙。
そして、アレクシスはゆっくり首を振った。
「違う」
かすれた声。
それでも、迷いはなかった。
「君は壊れた僕の隣にいてくれた」
少しだけ笑う。
袖を掴む指に、少し力が入る。
「怖がって、迷って。
今も泣いているようだ」
「それでも、来てくれた」
そして、静かに言った。
「だから――君がいい。
今、僕の隣にいてほしいのは君なんだ」
その言葉が。
ノリスの中にあった影を壊した。
自分は代わりだと思っていた。
ヒマリが来れば消える存在でしかない。
ずっとそう信じていた。
でも今、初めてノリスとして見られている。
「……私」
声が震える。
「消えたくない」
言った瞬間、自分で驚いた。
初めて出た本音だった。
「ノリスのままで……
あなたの隣にいたい」
怖かった。
誰かの隣を望んでしまった自分が。
そして、その願いを拒絶されることが。
でも。
アレクシスは、弱々しく笑った。
「……それでいい」
その肯定が。
ノリスの世界を、初めて許した。
指先が、そっと重なる。
冷たい病室。
月光だけの夜。
それでも――
もう少しだけ、ここにいてもいい気がした。
だが、その静かな時間は長く続かなかった。
重なっていた指先が、ふっと軽くなる。
「……アレクシス?」
呼吸が浅い。
意識が落ちていく。
慌てて身体を支える。
その瞬間、
様子を見ていた看護師が、慌ただしく近寄ってくる。
「ここまでよ!容態が悪化してる」
ノリスの顔から血の気が引いた。
――ようやく掴んだ温もりが。
また、消えようとしていた。
ノリスも、少しずつ前に進み始めました。




