異界の迷い道――願いの道標
ノリスが掴んだのは、
アレクシスというたった一つの願いでした。
指輪が静かに脈打った。
黒い光が指先を覆い、その輝きが視界を飲み込んだ瞬間、
世界は音もなく反転した。
◆
空には雲がなかった。
なのに紫色の空そのものが脈打つように揺れている。
地面は黒い霧に覆われ、遠くで巨大な何かが蠢く音が響いた。
ノリスはゆっくり息を吐く。
「……異界」
かつて何度も歩いた場所。
魔王だった頃の自分にとって、ここは恐れる場所ではなかった。
異界獣は道を開け、霧は足元に従う。
庭を散歩するようなものだった。
胸の奥がざわつき、足先には力が入らない。
周囲に広がる闇の気配が、ただ純粋に恐ろしかった。
(……私、怖がってる)
そんな感情を自覚したのは初めてだった。
魔王だった自分には必要のなかった感覚。
けれどヒマリは、ずっとこんな世界を歩いていたのだろう。
弱くて、傷ついて、それでも前へ進み続けていた。
(……これが、ヒマリの見ていた世界)
今さら知る。
あの少女が、どれほど強かったのか。
足元の黒霧が、ゆっくり足首へ絡みついた。
冷たい、まるで沈み込ませるような感触だった。
ノリスは反射的に足を引く。
その時、頭上を巨大な影が横切った。
反射的に呼吸が止まる。
アストラルナーガ。
建物ほどの巨体を持つ異界獣だった。
黒い触手が空間を裂くように揺れ、無数の眼が虚空を彷徨っている。
(……っ)
逃げなければ。
そう思った瞬間、触手がゆっくり伸びてきた。
ノリスの肩へ。
指先ほどの距離。
熱い涎が首元に滴り、心臓が凍る。
だが、異界獣は止まった。
何もない場所を見るように首を傾げる。
そして、そのまま霧の向こうへ消えていった。
しばらく動けなかった。
全身から嫌な汗が流れている。
(本当に……見えてない)
フェルマーの言葉が蘇る。
――お前は餌ですらない。
それでも、怖くないわけじゃない。
死なない保証などない。
ここは、異界だ。
ほんの少しの迷いで、人の形さえ失う場所。
歩き出そうとした時だった。
違和感が走る。
「……え?」
自分の手が透けていた。
指先から輪郭がぼやけ、存在そのものが霧へ溶け出している。
慌てて握り締めようとしても感覚が曖昧だった。
(うそ……)
胸が冷える。
フェルマーの忠告が蘇る。
――迷えば、輪郭ごと飲まれる。
何をしに来た。
どこへ向かう。
誰を助ける。
そんな当たり前のことまで薄れていく。
(私は……)
言葉が続かない。
じわりと霧はさらに濃くなり、
世界から色が失われていく。
恐ろしいほど、何もかもが遠ざかっていく
その時、胸の奥に小さな痛みが走った。
浮かんだのは、一人の顔。
広範囲魔法を駆け抜け、最後まで誰かを守ろうとした人。
少し困ったように笑う人。
「……アレクシス」
名前を口にした瞬間だった。
足先に重さが、戻る。
輪郭が繋がり、透けていた手が感触を取り戻す。
霧の向こう。
一本の道だけが、ぼんやり浮かび上がる。
(……こっち)
分かった。
理由はない。
でも、分かる――アレクシスがいる。
ノリスはゆっくり歩き出した。
再びアストラルナーガが近寄ってくる。
でも止まれない。
霧が再び足元に絡まっていた。
これは命令じゃない。
自分の意思だ。
足元の霧を振り払い、異界獣の触手を慎重に躱す。
巨大な影が何度も頭上を通り過ぎる。
立ち止まるたび、輪郭が少しだけ揺らいだ。
口元に手をあて、悲鳴を押し殺す。
ただ一つの願いを抱いて。
やがて、空気が変わった。
湿った冷気。
鉄の匂い。
黒霧が薄れていく。
足裏へ、固い石の感触が返ってきた。
「……ここ」
ゆっくり目を開く。
暗い石壁。
湿った地下。
遠くで水滴の音がする。
そして、かすかな鎖の音。
ノリスの呼吸が止まった。
誰かがいる。
暗闇の向こう。
人影が、わずかに動いた。
「……誰だ」
掠れた男の声。
弱っている。
それでも、どこか優しい響き。
ノリスの心臓が跳ねた。
(……まさか)
一歩。
また一歩。
震える足で近づいていく。
暗闇の中、ゆっくり顔が上がる。
泥で汚れた銀色の髪。
痩せた頬。
それでも、見間違えるはずがない。
ノリスの喉が震えた。
「……アレクシス?」
その名が、地下牢の静寂へ落ちた。
衰弱したアレクシスの元にノリスが辿り着きます。




