ノリス、影として動き出す
影となったノリスが、
初めて自分の意思で動き出します。
王城、謁見の間。
高い天井から差し込む光が、磨き上げられた床へ静かに落ちていた。
玉座に座るのは――ヒマリ。
否。
ヒマリの姿をした、ノリスだった。
背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる姿は、
誰が見ても女王そのものだ。
ほんの少しだけ声が低いことも、
瞳に以前より冷たい灰色が宿っていることも、気づく者はいない。
「――本日の議題を」
静かな声が響く。
その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
女王は健在。
王国は終わっていない。
貴族たちは、そう信じたかった。
玉座の上で、ノリスはゆっくり呼吸を整える。
(私はヒマリ)
(私は女王)
フェルマーに教育されながら、何度も繰り返した言葉だった。
そう思わなければ、自分が崩れそうだった。
ヒマリは眠っている。
だから、自分が立たなければならない。
そのはずなのに――。
(……本当に?)
一瞬だけ、胸の奥がざわついた。
自分は誰なのか。
ノリスなのか。
ヒマリなのか。
生き延びて、何をしたかったのか。
だが微笑は崩さない。
「続けて」
低く告げた時だった。
慌ただしい足音が響く。
文官が青ざめた顔で膝をついた。
「サンドランド王国より、全国家へ向けた公式声明が届きました!」
ざわり、と空気が揺れる。
読み上げられた内容に、場の温度が一気に下がった。
ロンデル公国正統継承者、アレクシス公子の保護。
ロンデル解放要求。
そして、
――魔王ヒマリによる侵略行為への糾弾。
怒号が飛び交った。
「僭王ジギスムントを討つべきです!」
「しかし軍の損耗が大きい!」
「公子が本当に生存しているなら――」
「陛下、ご判断を!」
ヒマリなら、即断していた。
だが、玉座の上だけが静かだった。
アレクシス。
その名が、胸の奥へ鋭く刺さる。
(生きてる……?)
嬉しい。
けれど、同時に恐怖が走った。
もし、生きているなら。
もし、本当に囚われているなら。
――自分のせいだ。
あの時、ジギスムントと手を組まなければ。
もっと別の道を選べていたなら。
「陛下!」
怒号が強くなる。
その時だった。
「静まれ。陛下の御前である」
低い声が響く。
一瞬で空気が止まった。
フェルマーだった。
「ロンデル公子の生存確認を最優先とする。
ジギスムントも、今すぐ全面戦争は望むまい」
冷静な言葉が、荒れていた場を押し戻していく。
文官たちは慌ただしく散り、
謁見の間は少しずつ静けさを取り戻した。
やがて人払いが済む。
広い空間に残ったのは、ノリスとフェルマーだけだった。
ノリスは袖の内で、強く拳を握っていた。
「……生きてると思う?」
掠れた声だった。
フェルマーは短く答える。
「可能性は高い」
その一言だけで、胸が苦しくなる。
「助けたい」
思わず声が漏れた。
「でも……」
視線が落ちる。
何もない。
魔力も。
力も。
肩書きさえ。
ヒマリの代わりとして座っているだけの存在。
「私には、もう何もない」
言葉が、自分へ刺さった。
フェルマーはしばらく黙っていた。
やがて静かに立ち上がる。
「ある」
ローブの隙間から、小さな箱を取り出した。
中には、黒い金属の指輪。
異界の残滓が鈍く揺れている。
「これは……」
「接収した異界の指輪だ」
ノリスの瞳が揺れる。
「お前が行けばいい」
思考が止まった。
「……え?」
「アレクシス救出だ」
あまりにも当然のような口調だった。
「そんなこと……できるの?」
「今なら可能性が高い」
フェルマーは淡々と続ける。
「異界の魔物は魔力を喰う。今お前は魔力を持たない」
小さな吐息が漏れる。
「魔力無き者は、向こうでは餌ですらない」
ノリスは指輪を見つめた。
怖い。
でも、胸の奥がざわついていた。
「あの時、私が選ばなければ――」
言葉が止まる。
もう遅い、後悔したところで失ったものは戻らない。
それでも。
「償いたい」
顔を上げる。
「今度は、逃げたくない」
フェルマーは静かにノリスを見る。
「任務だから行くのでないのか?」
ノリスは首を振った。
「違う」
震える声だった。
それでも、目だけは逸らさない。
「ヒマリの代わりではない」
指輪を強く握る。
「私が決める」
一度、深く息を吸う。
「私自身の意思で――アレクシスを助けたい」
沈黙。
そして、フェルマーは、ほんのわずかに目を細めた。
「……そうか」
背を向ける。
「なら、一つだけ忠告だ」
「なに?」
「異界は願いに敏感だ」
低い声。
「迷えば、輪郭ごと飲まれる」
ノリスは息を呑んだ。
「進むなら、一つだけを想え」
胸へ手を当てる。
思い浮かぶ顔は、もう決まっていた。
「……アレクシス」
「それでいい」
黒い指輪が、静かに光を帯び始める。
闇に食われる感覚。
でも、今度は逃げない。
ノリスは、ゆっくり手を伸ばした。
次回、無力なノリスが異界に入り込みます。




