あなたと私は、守りたいものが違う
同時に二つの報が届きました。
ヒマリは、一つの決断をします。
でも、切り捨てたわけではありません。
朝の光が、エルドラに差し込んでいた。
ヒマリは、ロンデル公宮の客室にいた。
フェルマーから届いた婚姻関連の確認書類。
各都市への通達。
王族間の署名手順。
まだ正式な婚姻ではない。
けれど。
少しずつ、形になり始めていた。
アレクシスとの散策から、一週間。
ロナ公妃の態度も、どこか柔らかくなってきた。
(もう少し、時間があれば)
ヒマリはそう思っていた。
魔導通信が、鳴った。
緊急の波長だった。
ヒマリは、即座に受信する。
フェルマーの声が、届いた。
「陛下」
声が、いつもと違った。
抑制されているが、その下に何かある。
「何?」
「王都に、異界魔物が現れた」
ヒマリは、手を止めた。
「……数は」
「現在確認できているだけで、十二体。
規模は、第一波と見ている」
「あなたの結界が破られるなんて……侵入経路は?」
「北門。
結界は破られた訳ではない――内側から突如現れた」
内側から。
ヒマリの胸が、冷えた。
「まさか、ノリス?」
「恐らく。
魔王城の旧魔物とは、魔力の質が違う。
《異界召喚の指輪》を使ったに違いない」
「どこからそんなもの……」
「以前、私がジギスムントに護身用として渡したものだ」
フェルマーが苦々しく応じる。
(クルス)
内側に語りかける。
『分かっている』
魔導スクリーンが、ヒマリの視界に展開された。
王都ブリュードの各地点。
北門から、黒い影が広がっている。
異界魔物。
前回、ロンデルに現れた四つ足とも違う。
だが、魔王城の魔物とは、根本的に違い
制御の糸が、どこにも見えない点は一緒だ。
ただ、破壊するために動いている。
「フェルマー、シュルツは?」
「第二軍を展開中だが、並の騎士では太刀打ちできん。
浄化の光が必要だ。今すぐ戻れるか」
ヒマリは、地図を見た。
ロンデルから王都まで通常騎行なら六日。
飛行魔物なら、強行で一日。
ヒマリが立ち上がった、その瞬間。
二つ目の魔導通信が、鳴った。
別回線。
シュルツの声だった。
「ヒマリ殿、サンドランドの国境から、
斥候の報告が入りました」
「……ジギスムント?」
「はい。
サンドランド軍と合流した
ジギスムント王の部隊が、北方向へ進軍を開始しました」
「規模は」
「推定、二万。
目標は、王都で間違いないでしょう」
ヒマリは、立ったまま、動けなかった。
一秒。
二秒。
頭の中で、
地図が広がる。
王都、北門から異界魔物。
南から、ジギスムント。
ヒマリは、今、ロンデルにいる。
(クルス、これは……)
『ああ、二正面作戦だ。
完璧なタイミングで仕掛けてきた』
ヒマリは、歯を噛みしめた。
(ノリスが、ジギスムントと組んでいた)
『そうだ』
(いつから)
『サンドランドへ撤退した直後から、準備していたと見ていい』
ヒマリは、フェルマーへの通信に戻る。
「フェルマー、聞こえてる?」
「聞こえている」
「ジギスムントが来る。
南から二万」
一拍の沈黙。
「やはりか……想定より、速い」
「私は今すぐ王都に戻る」
「ロンデル側は?」
「アレクシスに任せるしかない」
「ロナ公妃が、不信を抱くぞ」
「でも、納得してもらう時間が……」
クルスが、静かに言った。
『ヒマリ』
(なに?)
短い沈黙。
『……こんな小国、もういい』
ヒマリは、固まった。
『ロンデルの婚姻交渉は、後回しにしろ。
ノリスなら魔王城を攻めてくると思ったが、
こうなった以上、王都でノリスとジギスムントを同時に潰す』
(小国、って)
『ロンデルに割く戦力と時間が惜しい。
今この瞬間、王都が燃えている』
クルスの声が遠くに聞こえた。
でも。
(ロンデルの人たちは)
『守るべき優先順位がある。
王都に戻る君の決断は正しい』
冷たい声だった。
いつもの、クルスの声だった。
なのに、今朝はぞっとした。
(クルス)
『何だ』
(あなたは、さっき何と言った)
『こんな小国、もういい、と言った』
(ロンデルの人たちは、私たちを受け入れてくれた。
公妃は条件を出しながらも、扉を開けてくれた。
アレクシスは――)
『感傷だ』
(感傷でいい)
ヒマリは、はっきりと言った。
「あなたと私は、守りたいものが違う」
声に出していた。
静まり返った部屋に、その言葉が落ちた。
クルスは、しばらく黙っていた。
珍しいことだった。
『……続けろ』
「ロンデルは、切り捨てない。
でも、このままじゃいけない」
「フェルマー」
「聞いている」
「ロンデルの守備を、一度公国軍に委ねる。
アレクシスに状況を説明して、私が戻るまで持ちこたえてもらう」
「……最善だが、まだ、正式に婚姻となったわけではない。
これまでの外交が無に帰す恐れもある」
「分かってる」
ヒマリは、立ち上がった。
「それでも、戻る。
ノリスとジギスムントを、王都で迎え撃つ」
執務室の扉を開けると、
アレクシスが廊下に立っていた。
静かな顔。
けれど。
少しだけ、強張っている。
気配で聞いていたのだろう。
「行くんですね」
「……ごめんなさい」
ヒマリは、正直に言った。
「ロンデルを守ると言いながら、今すぐは守れない」
「分かっています」
アレクシスは、静かに言った。
「ヒマリさんが戻らなければ、王都が落ちる。
そうなれば、ロンデルも終わる」
「……そういう計算をしてるの」
「計算じゃないです」
アレクシスは、微笑んだ。
「あなたが必要な場所に行くのが、正しいと思っているだけです」
ヒマリは黙って、その言葉を聞いた。
「本当は、行ってほしくありません」
「でも」
アレクシスは続ける。
「ここで止めたら、あなたは後悔する」
「……」
「だから、送り出します」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「必ず戻る」
「待っています」
アレクシスの目が、わずかに揺れた。
王宮の中庭へ出ると、
既に待機命令を受けていた飛行魔物ドラムが翼を広げていた。
ヒマリは、一瞬だけ躊躇した。
(これまで、魔物は人前で使ってこなかった)
(アレクシス公子に見られている。――でも、今は)
翼の上に乗った。
ドラムは王宮の屋根を覆うほどの翼を羽ばたかせる。
「ヒマリ様。魔王城へお連れしましょう。
我らの力が最も発揮できる場所です」
「王都に運んでちょうだい。
王都を捨てれば、私は王でなくなってしまう」
ロンデルの空を、ヒマリは飛んでいた。
王都へ向かう。
内側で、クルスが静かにいる。
何も言わない。
(クルス)
『何だ』
(さっきの「こんな小国」という言葉)
『……』
(あなたが、そういうことを言う人だと、分かっていた。
でも、実際に聞くと怖いよ)
クルスは、答えなかった。
(あなたのことが必要だと思ってる。
それは変わらない。
でも、怖い、とも思った。両方、本当のこと)
『……』
(それでも、保留のまま?)
長い沈黙があった。
やがて、クルスは言った。
『……保留で、構わない』
それだけだった。
ヒマリは、空を見た。
王都の方角に、黒い煙が立ち昇っていた。
クルスの「こんな小国、もういい」という言葉を書きながら、
ヒマリがおそらく最も恐れていた反応だと思いました。




