ヒマリだけが知らない夜
前回の「世界を売る夜」の、魔王城側とロンデル側から見た同じ夜の話です。
ヒマリは、まだ何も知りません。
クルスは、知っています。
魔王城・コアルーム。
制御室の空気が、わずかに震えた。
クルスは、演算を止めた。
外界の魔力流が、
いつもと違う揺れを帯びている。
「……ノリス」
名を呼ぶ声は、誰にも届かない。
だが、魔王城のコアで同期していたことのある
クルスには分かった。
ノリスが、何かを決め
守るべきものを、捨てた。
代わりに、別の何かを掴んだ。
その波が、魔王城の深層まで届いていた。
(ヒマリに、知らせるべきか)
クルスは、指を止めた。
演算は、答えを出している。
――知らせるべきではない。
ヒマリは今、ロンデルとの婚姻交渉の渦中にある。
心拍は安定している。
判断も、揺らいでいない。
だが。
(……揺らぐ要因は、増えた)
スクリーンに映るヒマリの心拍が、
ほんのわずかに跳ねた。
クルスは、目を細めた。
「……ノリス。
君は、また選ばれなかったと感じたのか」
その感情の揺れは、
魔王城のコアにとってはノイズだ。
だが、クルスにとっては――
(利用できる)
そう、演算は告げていた。
だが、クルス自身は、
その結論をすぐには採用しなかった。
ヒマリの心拍が、
ロンデルの夜空の下で、静かに上下している。
(……ヒマリ)
クルスは、スクリーンに触れた。
ノリスが動いた。
ジギスムントが動いた。
世界が、またヒマリを中心に回り始めた。
だが――
(君は、まだ知らない)
世界が、
君を奪い合うために動いていることを。
君を壊すために、
君を守るために、
君を利用するために。
それぞれが、勝手に動き始めている。
「……知らせるのは、まだ早い」
クルスは、演算を再開した。
ノリスの魔力波形を追跡し、
ジギスムントの動きを予測し、
ロンデルの感情曲線を解析する。
そのすべての中心に、ヒマリの心拍がある。
◆同じ頃 ロンデル公宮・客室
ヒマリは、眠れなかった。
窓の外、エルドラの夜は静かで、
星が多くて、風の音すら優しい。
なのに、胸の奥がざわついていた。
(……何か、変だ)
理由は分からない。
アレクシスと話したせいかもしれない。
クルスの投影を見たせいかもしれない。
ロナ王妃の目が、まだ胸に残っているせいかもしれない。
でも――
(違う)
もっと大きな何かが、
世界のどこかで動いた気がした。
ヒマリは、胸に手を当てた。
心臓が、いつもより少しだけ速い。
痛くはない。
でも、知らない鼓動だった。
「……クルス」
『起きている』
「胸がざわざわするの、何かあった?」
短い沈黙。
クルスは、嘘をつかない。
だが、すべてを言うわけでもない。
『……世界は、常に動いている』
「そういう言い方、嫌い」
クルスは目の前に姿を現した。
そっと、ヒマリの手を重ねてくる。
温かさも鼓動も無い。
だけど、心が少し落ち着いた。
クルスは、ヒマリの心拍が下がったことを確認し
そのまま、一歩、近づいた。
『……念のため、魔王城の守りを強化しておきたい』
「浄化が間に合わないから、今は魔物を増やせないわよ」
ヒマリが顔を上げると、
クルスの端正な顔が思ったより近くにある。
『違う、砲門だ。外壁に魔導砲を設置したい』
ヒマリは、息を呑んだ。
「そんなこと、出来るの?」
『君の知識と私の魔道技術があれば、短期間で可能だ』
「でも、軍事のことはフェルマーとシュルツに相談しないと……」
『必要ない。資材も人員も、魔王城内で完結する』
「……あなたが、そこまで言うの」
『ヒマリの判断を仰ぐ。それで十分だ』
クルスは、ヒマリの手に触れたまま、一瞬だけ目を伏せた。
その仕草は、演算では説明できない熱を帯びていた。
「わかった。あなたを信じる。
でも、最終決定は私にしてよ」
『承知している』
「フェルマーにも先に王都に戻って貰いましょう」
『君にしては、随分と慎重だ』
「……嫌な予感がするの」
その予感は、
ヒマリの中で、まだ言葉にならなかった。
だが、確かにあった。
世界のどこかで、均衡が崩れた。
そんな気がした。
次回から戦乱パートが始まります。




