世界を売る夜
ジギスムント視点のお話です。
砂嵐の夜。
サンドランド郊外、砂の神殿跡。
風が唸り、砂が舞う。
だが、石造りの回廊の中だけは、
ジギスムントの周囲に張られた結界が、外界の音を遮断していた。
燭台の炎が、静かに揺れている。
黒い霧が、滲み出した。
音もなく、壁から湧くように。
ノリスが、姿を現した。
魔王城の制御権を失った今、かつての威圧はない。
だが、その眼差しだけは、
なお鋭かった。
「ふふ……ずいぶん早い逃げ足だったわね、王様」
「逃げではない。再編だ」
「同じ言葉を、昔のあなたは撤退と呼んだわ」
沈黙。
ジギスムントは、地図から視線を上げない。
玉座を失っても、背筋だけは崩さなかった。
「……まさか、あなたから呼び出すなんてね」
「お前が応じることは、最初から分かっていた」
二人の間に、かつての婚姻の記憶が沈殿する。
ノリスは、それを踏みにじるように、
一歩前に出た。
「あなた、負けかけてる」
「……」
「第四軍を失い、第二軍も失い、
王都はヒマリに握られた。
ロンデルも、いずれ離反する」
ジギスムントの指がわずかに動いた。
「それで?」
ノリスの唇が、ゆっくりと歪んだ。
「私は――あなたを憎んでいる」
「分かっている」
「捨てられたからじゃない」
ノリスは、ジギスムントをまっすぐに見据えた。
「選ばれなかったからよ」
空気が、張り詰めた。
「ヒマリは、フェルマーを選び、
シュルツを選び、女王の未来を選んだ」
「でも、あなたは、私を道具として使って捨てた」
ジギスムントは、ようやく面を上げた。
「でも、お前はここに来た」
ノリスは、カッと頬を赤らめた。
「お前の言うように、私に以前のような余裕はない」
ジギスムントは、ノリスを見た。
その目に、計算の光があった。
ノリスには分かった。
この男は今、自分の言葉の裏を読んでいる。
(好きに読めばいい――
どうせ、あなたに私のことなど分からない)
「条件を出そう」
「条件?」
「お前は、自分が主役の戦争を望んでいる」
ノリスの眉が、わずかに動いた。
「……何を言っているの」
「どこに行っても、お前は結局、道具として使われる
ヒマリも以前は格下相手の遊びだと思えた。
今は惨めなだけだ――合っているか?」
沈黙。
「お前にもう一度魔王に戻る機会を与えよう」
ジギスムントは静かに立ち上がり
懐から黒い指輪を取り出す。
「《異界の指輪》」
「フェルマーの召喚術式の試作品だ。
異界の魔物を呼べる」
ノリスの瞳が細くなる。
「……随分と高価な贈り物ね」
「贈り物ではない」
ジギスムントは跪いた。
昔と同じ仕草。
王が、かつて王妃にした女の前で膝を折る。
ノリスの呼吸が、一瞬止まった。
「契約だ」
白い指を取り
そして、指輪を嵌める。
ゆっくりと。
逃がさないように。
「……今さら?」
ノリスが笑った。
だが、その声は少しだけ揺れていた。
「昔は、結婚指輪だったのに」
一瞬。
空気が止まる。
ジギスムントは、その手の甲に唇を落とした。
短く。
儀礼のように。
けれど、少しだけ長く。
「今の方が、お前には似合う」
ノリスの胸が熱くなる。
腹立たしいほどに。
――最低。
なのに。
昔より、鼓動が速かった。
「……条件は?」
ノリスは、声を平静に保った。
ジギスムントの指が、地図の一点を叩いた。
「魔王城を取り戻せ」
「ヒマリと魔王城の連結を壊し、本物の魔王として城に帰れ」
ノリスは、目を細めた。
「それで?」
「その時――」
ジギスムントの声が、低くなった。
「私は、お前に従う」
「……は?」
「王国の王としてではない。
世界を奪う側の人間として、だ」
ノリスの呼吸が、わずかに乱れた。
「あなたが……私の下に?」
「そうだ。復讐としては最高だろう?」
ノリスは、しばらく黙り込んだ。
罠だ。
それも、極めて巧妙な。
この男が誰かに従属するはずがない。
かつて、一番近くで見ていたから分かる。
「……本当に、そこまで捨てられるの?」
「ヒマリに世界を渡すくらいなら、
魔王に跪く方がマシだ」
「信じると思う?」
「約束通り婚礼しただろう」
「すべて偽りだった!」
二人は、同時に理解している。
これは信頼ではない。
互いを殺すまで利用し合う契約だ。
「だが――」
ジギスムントは、静かに言った。
「ヒマリを潰せるなら、その賭けに乗る価値はあるのではなか?」
(ヒマリとクルスが作っている世界を、壊したい。
私を過去の魔王として押しやろうとするなら――
思い知らせてやる)
「一つだけ、条件がある」
ノリスは、言った。
「言え」
「ヒマリは、私が終わらせる」
ジギスムントの目が、わずかに動いた。
「……お前が?」
「そう」
ノリスは、静かに言った。
「あの子は、私が終わらせる。
あなたには、させない」
「では、二人で王都を攻めることになるな」
「ええ」
彼女は、口角を上げた。
「あの優しい聖女に、世界が何を差し出すのか――」
「見せてあげましょう」
砂嵐の音が、遠くで唸った。
――ノリスの独白
神殿跡を出て、ノリスは夜空を見上げた。
サンドランドは星が多い。
だが、砂嵐はすべてを覆い隠した。
(ヒマリ)
名前を、思い浮かべた。
やせっぽちの小娘。
だが。
(あの子は、変わった)
ゴミ捨て場に捨てられた少女が、
今は女王として、ロンデルで外交をしている。
フェルマーに認められ、
シュルツに忠誠を誓われ、
アレクシスに信頼され。
常に誰かに、選ばれ続けている。
(ヒマリのどこにそんな魅力が――)
でも。
(私と、どんどん差がついていく)
ノリスは、手のひらを見た。
《異界召喚の指輪》は、暗褐色に濁っていた。
(あなたを終わらせるのは、私よ)
ヒマリに向かって、声には出さずに言った。
(誰にも、渡さない)
それが、憎しみなのか、別の何かなのか。
分からないまま、夜空の中へ消えた。
◆
――ジギスムントの独白
神殿跡に、ジギスムント一人が残った。
砂嵐の音が、結界の外で唸っている。
(使える駒だ)
そう思った。
だが同時に、思った。
(最も危険な駒でもある)
ノリスは、ヒマリを自分が終わらせると言った。
あの目は、本気だった。
羨望と――
それ以外の何かが、混ざった目だった。
(感情を持った駒は、扱いにくい)
だが。
(正しく使えば、最も深く刺さる)
ジギスムントは、地図を見た。
魔王城。
王都。
そして、ヒマリのいるロンデル。
「あの聖女は」
独り言が、砂嵐の音に混じった。
「自分がどれほど周囲に恵まれたか、知っているのだろうか」
答えは、ない。
(それでも――あの女は弱点だらけだ。
ノリスと同様に)
ジギスムントは、静かに燭台を消す。
闇の中で、小さな笑い声が漏れた。
ノリスの複雑な内心が露わになります。




