信仰という名の愛
庭での二人の話です。
アレクシスという人間の輪郭が、少し見えてくる回になっています。
クルスも、います。
三日後。
アレクシス公子から、使いが来た。
「公子から呼び出し?」
ヒマリは、紙片を見つめた。
――王宮の庭で、お話しできませんか。
短い文だった。
アレクシス・フォン・ロンデル
庭は、静かだった。
エルドラ王宮の中庭。
砂岩の回廊に囲まれた、小さな庭園。
乾いた空気の中に、白い花が咲いていた。
ヒマリは、一歩、庭に入って――
止まった。
銀髪だった。
朝の光の中で、白に近く見える。
肩に落ちるほどの長さで、
風に、わずかに揺れている。
背が高い。
だが、威圧感がない。
肩幅があるのに、どこか内側に折れているような、
自分の大きさを持て余しているような立ち方。
噴水のそばに立っていたアレクシスが、
ヒマリを見た瞬間、
微笑んだ。
その笑顔が――
(……あ)
ヒマリは、一瞬だけ、
思考が止まった。
柔らかい笑顔だった。
喜びを、そのまま顔に出した笑顔。
警戒もなく、計算もなく。
青い目が、ヒマリをまっすぐに見ていた。
ジギスムントの蒼瞳とは違う。
あちらは、感情を排した氷の色だ。
アレクシスの目は――
透き通った空の色で、
その中に、確かに感情が揺れていた。
(整っている)
そう思った。
そしてすぐに、そう思ったことに気づいて、
ヒマリは視線を逸らした。
「来てくださった」
「……呼ばれたから」
ヒマリは、少し離れた場所に立った。
距離を、測るように。
近い。
昨日は騒然とした状況で、
ゆっくり見ていなかったが。
近くで見ると、肌が白い。
ロンデルの日差しの中にいるのに、
北方の冬のような白さだ。
睫毛が、長い。
(なんで今、そこを見てるの)
ヒマリは、内心で自分に突っ込んだ。
アレクシスは、それに気づいていないように、
静かに話し始めた。
「先日は、失礼しました」
「いいえ」
ヒマリは、首を振った。
「公妃の反応は、正しい。
私が、そう言われる立場にある」
アレクシスは、しばらくヒマリを見ていた。
「あなたは」
「何?」
「自分を、責めることに慣れているんですね」
ヒマリは、答えなかった。
「責めているのではなく、
事実を言っているだけよ」
「同じことだと思います」
アレクシスは、静かに言った。
「事実として受け入れることと、
責め続けることは、違う」
ヒマリは、その言葉を聞いた。
反論しようとして、できなかった。
「フェルマーさんから、話を聞きました」
アレクシスは、噴水を見ながら言った。
「婚姻の件」
「……速いわね、あの人」
「昨夜、お母様のところへ来たようです。
今朝、私にも」
「それで」
ヒマリは、アレクシスを見た。
「どう思った」
アレクシスは、少し考えた。
「政治的には、理解できます」
「政治的には、ね」
「はい」
アレクシスは、ヒマリを見た。
「政治的でない部分も、あります」
ヒマリは、黙って続きを待った。
「ヒマリさんに、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたの中に、
別の存在がいることは、知っています」
ヒマリは、わずかに目を細めた。
「……フェルマーが話したの」
「いいえ」
アレクシスは、首を振った。
「昨日、お母様との会談の後、
あなたの目が、一瞬だけ変わる瞬間がありました」
「……気づいていたの」
「はい」
アレクシスは、静かに言った。
「その時、あなたの中の誰かが、こちらを見ていた」
ヒマリは、答えなかった。
(クルス)
内側に問いかける。
(あなた、見ていたの)
『……観測は、常時行っている』
(それは肯定ね)
「怖くないの」
ヒマリは、正直に聞いた。
「怖い、とは」
「私の中に、別の存在がいる。
それが怖くないの」
アレクシスは、少し考えた。
「怖いかどうか、で言えば――」
彼は、ヒマリを見た。
「怖くないです」
「なぜ」
「あなたが、ここにいるから」
ヒマリは、その言葉を聞いた。
単純な言葉だった。
説明もなく、根拠もなく。
ただ、そう言った。
(気持ち悪い)
ヒマリは、思った。
正確には、
気持ち悪い、という言葉が最初に浮かんだ。
だって、この人とは
先日、初めて会った。
名前と、大まかな状況しか知らない。
それなのに。
「あなたが、ここにいるから」
そんな言葉を、迷いなく言える。
(気持ち悪い……でも、嫌じゃないって何なの。
私、どうしたいの……?)
「一つだけ、正直に話すわ」
ヒマリは、言った。
「はい」
「私は、政略としてこの婚姻を考えている」
「知っています」
「ロンデルをジギスムントの包囲から守るために。
あなたの国を、私の陣営に引き込むために」
「はい、それでも――」
アレクシスは、頷いた。
「構いません」
「……なぜ」
「政略と、感情は、別物だと思っているので」
アレクシスは、静かに言った。
「政略として始まっても、
あなたがここにいることは変わらない」
「それは、楽観的すぎるよ」
「そうかもしれません」
アレクシスは、微笑んだ。
「でも、私はそう思っています」
「あなたは」
ヒマリは、少し考えてから、言った。
「私の、何が好きなの?」
奇妙な質問だと、自分でも思った。
でも、聞かずにいられなかった。
アレクシスは、少し考えた。
「……うまく、言えないんですが」
「言ってみて」
「あなたが、ここにいてくれること。
もしあなたが変わっても、それも含めて好きでいられると思います」
ヒマリは、眉をひそめた。
「それは、答えになっていない」
「なっていないかもしれません」
アレクシスは、噴水を見た。
横顔だった。
整った鼻筋。
伏し目がちになった睫毛。
光の加減で、銀髪が白く輝く。
(反則だ)
ヒマリは、思った。
そんな顔で、そんなことを言うな、と思った。
「でも、正確に言えばそうなんです。
あなたの何かが好き、ではなく。
あなたが存在していることが、
何か……安心するというか」
「……それは」
「変ですよね」
アレクシスが、ヒマリを見た。
目が合った。
ヒマリは、一拍、間を置いてから答えた。
「変ね」
声が、わずかに平板になった。
感情を乗せないようにした結果だった。
「でも」
アレクシスは、ヒマリを見た。
「嘘ではないです」
ヒマリは、しばらく黙っていた。
内側で、クルスが静かに言った。
『これは、危険だ』
(どういう意味?)
『彼は、実体を愛していない。
概念を愛している』
(概念?)
『「ヒマリ」という存在への信仰だ。
実際のヒマリが何をしても、それは揺らがない』
(それの、何が危険なの)
『変わらない愛は、
変わる相手を縛る』
ヒマリは、その言葉をしばらく、考えた。
(でも)
胸の奥の緩んだ場所が、まだある。
(この人は、私を染めようとしていない。
駒にしようとしていない。
ただ、ここにいていいと言っている)
『……気に入らないな。だから、危険だと言っている』
クルスの声は、冷静だった。
だが、わずかに、
いつもと違う温度があった気がした。
「アレクシス」
「はい」
「もう一つだけ、正直に話す」
「どうぞ」
「私は、完全に自由ではない。
クルスという存在が、私の中にいる。
それは、これからも変わらない」
「はい」
「彼は、時々、私の判断に干渉する。
私が気づかない間に、動くこともある」
「……それでも」
アレクシスは、迷わなかった。
「あなたがヒマリであることは、変わらないと思います」
「なぜ、そう言い切れるの」
「言い切れるかどうかは、分かりません」
アレクシスは、静かに言った。
「でも、私はそう思っている」
ヒマリは、その言葉を聞いた。
(気持ち悪い)
また、思った。
この人は、根拠がない。
論理がない。
ただ、信じている。
それはきっと――信仰に近い。
(気持ち悪い)
そのはずなのに。
胸の奥の、緩んだ場所が、
もう少し、広がった気がした。
「……分かった」
ヒマリは、言った。
「婚姻の話を、進める」
「ありがとうございます」
「感謝しないでいい。政略だから」
「はい」
アレクシスは、微笑んだ。
また、あの笑顔だった。
朝の庭で最初に見た、計算のない、ただ嬉しいだけの笑顔。
(やめて)
ヒマリは、思った。
具体的に何をやめてほしいのか、
自分でも分からなかった。
年下の公子の笑顔。
口を開いたら、何を言うか分からなかったから、
反論するのをやめた。
王宮の庭を出ながら、ヒマリは空を見た。
乾いた青空。
北方とは違う色。
(クルス)
『何だ』
(アレクシスは、私のすべてを許してくれる)
『そうではないと言っている』
(それって恋だと思う?)
クルスは、しばらく答えなかった。
珍しいことだった。
その間、ヒマリの心拍数が、
スクリーンに映し出されていた。
平時より12上がっている。
クルスは、その数値を三度、確認した。
やがて、静かに言った。
『……それは、君が決めることだ』
まるで、答えを選んだような間だった。
ヒマリは、その答えを聞いた。
クルスらしくない、と思った。
でも、それ以上は聞かなかった。
本格的なデートは次々回ですかね。
よろしくお願いいたします。




