魔王ノリス来訪 ――決裂の間
交渉決裂の話です。
ジギスムントは策略後も何も変わっていません。
それが、一番残酷なところだと思います。
王陣中央の天幕は、異様な静けさに包まれていた。
進軍を目前に控えた夜。
本来なら将校の往来と命令の声で満ちているはずの空間に、
今は張り詰めた沈黙だけが落ちている。
空気が、歪んだ。
黒い霧が床に滲み、音もなく渦を巻く。
次の瞬間、空間が裂けるようにして二つの影が現れた。
ひとりは、かつて王の傍らに座していた女――
魔王ノリス。
そして、その半歩後ろに立つ、小さな少女。
場にいた近衛たちが一斉に武器を構えたが、
ジギスムントは片手を上げて制した。
「……ノリスか。今さら何の用だ?」
声には苛立ちよりも、倦みが滲んでいる。
すでに終わった存在を見るような調子だった。
だが次の瞬間、彼の視線が少女に留まる。
背は低く、痩せている。
だが、周囲の魔力の流れが、異様なほど彼女へ収束していた。
「……誰だ?」
その問いに、少女は一瞬だけ表情を強張らせた。
怒りではない。
憎悪でもない。
もっと生々しい、感情の引きつり。
「久しぶりね、王様」
静かな声だった。
それでも、空気が微かに震えた。
「……?」
ジギスムントは眉をひそめる。
記憶を探るように少女を見つめるが、どこにも繋がらない。
目の前の存在と、かつての何かが結びつかない。
「誰だ、お前は」
その言葉に、ヒマリの口元がわずかに歪んだ。
彼に悪意はない。
それが、なおさら残酷だった。
ただ、覚えていないだけだ。
ゴミ捨て場に投げ捨てた存在と、
目の前に立つ、力を持つ者が同一だとは思いもしない。
「あなた……」
言葉を継ごうとして、ヒマリは一瞬だけ黙る。
そして、低く吐き捨てるように言った。
「これから攻め込もうとしてる敵の正体すら、
分かってなかったの?」
ざわ、と側近の一人が顔色を変え、
ジギスムントの耳元に身を寄せる。
「……陛下。ひょっとして、召喚された聖女では……」
その瞬間、ジギスムントの表情がわずかに固まった。
記憶の底に沈めていた単語が、泥を割って浮かび上がる。
聖女。
失敗作。
不要と判断し、処分を命じた存在。
「……ああ」
短く、息を吐いた。
思い出した、という顔ではなかった。
引き出しの奥から、どうでもいい書類を
取り出したような顔だった。
「そうか。お前だったか……」
それだけだった。
謝罪も、動揺も、なかった。
「なら話は早い。ゴミ捨て場に捨てた虫けらが――」
その言葉に、空気が凍る。
ヒマリの表情から、最後の温度が消えた。
ノリスが一歩前に出る。
その全身から、かつての魔王の威圧が溢れ出した。
「……随分と、変わらないのね。あなた」
だが、ヒマリが手を上げて制した。
「待って、ノリス」
声は低く、冷えている。
「今日はそれをしに来たわけじゃない」
その視線が、ジギスムントを射抜く。
「条件提示よ」
場の空気が張り詰める。
ここで初めて、フェルマーが前に出た。
「ジギスムント王。我々の軍は魔王城を掌握し、
一万を超えています」
静かな口調だったが、言葉は鋭い。
「魔王ノリスの力は王も良くご存じでしょう。
これ以上の流血を避けるため、降伏を勧告します」
天幕内がざわめいた。
だが、ジギスムントは肩をすくめるだけだった。
「……わが軍は総勢四万だ。知らぬわけではあるまい」
彼は興味を失ったように、フェルマーを見る。
「お前こそ戻ってこい。フェルマー。
こんな茶番、そろそろ飽きただろう」
嘲るような笑み。
「おもちゃ遊びも、潮時だ」
ヒマリが、思わず舌打ちする。
「だめね。こいつ、本当に話が通じない」
彼女は一歩前に出た。
その瞬間、周囲の魔力密度が跳ね上がる。
「今の私なら――ここで、あなたの首を落とすこともできる」
声は静かで、事実だけを述べている。
フェルマーは首を振る。
「よせ、ヒマリ。
ジギスムント王には影と呼ばれる隠密が付いている
力だけなら私と同格だ」
沈黙。
「お前がいるとやりにくい」
やがて、ジギスムントは――笑った。
穏やかに。
まるで、ようやく退屈な茶番が終わったかのように。
「お前達には大望がない。個人の恨みだけだろう」
彼は背筋を伸ばし、堂々と宣言する。
「あなただって私利私欲で戦争しているじゃない!」
「ヒマリ、やめろ」
フェルマーが低く制する。
「これでは子供の喧嘩だ」
だが、ヒマリは止まらなかった。
「あなたは忘れたでしょうね。
処分命令の書類に、名前なんて書かなかったもの」
一歩、前に出る。
「でも私は覚えてる。
泣きながら縋ってきた人たちの顔を」
「それは私の役目ではない」
ジギスムントは、僅かに苛立ちを見せた。
その言葉に、ノリスが静かに口を開く。
「……あなたはね。
踏み潰したものが、覚えていることを
理解していない」
かつての伴侶を、寂しげに見つめながら。
「お前たちが何者であろうと構わない。
王である俺が、敵と認めた以上――叩き潰すだけだ」
その声には、もはや迷いも恐怖もなかった。
静寂が落ちる。
ヒマリは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(……やっぱり、こうなる)
そして顔を上げ、冷たい笑みを浮かべる。
「そう。じゃあ――後悔させてあげる」
ノリスの瞳が、妖しく光った。
フェルマーは小さく息を吐いた。
「……最悪の分岐だ」
だが、その目は静かだった。
最悪の分岐も、
計算の内だったから。
次回、いよいよ決戦です。




