フェルマーが密かに仕込んでいた保険の開示
フェルマーの話です。
彼はずっと、黙って準備していました。
参謀って、こういう人のことを言うんだと思います。
魔王城・最下層会議室。
結界が幾重にも重ねられた円卓の間で、
沈黙が張りついていた。
ヒマリにだってわかっていた。
王都でジギスムントと交渉しても、
そのまま決戦に至るだろう。
クルスの言うように王都を火の海にするなんて
出来ない。
ヒマリは腕を組み、フェルマーに弁明する。
「見てたでしょ……途中までは、完璧だったの」
その声は静かだが、年相応の強がりにも見えた。
「恐怖も疑念も、ちゃんと育っていた。
ジギスムントが踏み出す前に、内部から崩れるはずだったのに」
フェルマーは答えない。
代わりに、ゆっくりと指を鳴らした。
――パチン。
手に持った魔道具スクロールが宙に浮き、展開する。
それは魔法陣というより、「契約文書」に近い構造をしていた。
「……君達に話しておきたいのはこれだ」
ノリスが眉をひそめる。
「それは何?、フェルマー」
フェルマーは視線を上げず、淡々と言った。
「保険だ。君たちが失敗した時のための」
ヒマリの目が細くなる。
「……聞いてないわね」
「言えば、君は止めただろう」
空気がわずかに冷える。
フェルマーは続けた。
「結論から言う。
もしジギスムントが軍を率いて
魔王城へ侵攻した場合――」
彼は指を一本立てる。
「ロンデル公国で構成された第四軍は、
戦場に到達する前に構造的に瓦解する」
シュルツが息を呑む。
「瓦解……?」
「兵が逃げるとか、そういう生温い話じゃない」
フェルマーは初めて顔を上げた。
その瞳には、冷たい計算だけが宿っている。
「編成そのものが軍として成立しなくなる」
フェルマーが魔法陣に魔力を流すと、像が浮かび上がる。
・補給路、伝令網
・指揮階層、軍法
・信仰系統
それぞれに、微細な黒い楔が打ち込まれている。
「元々、ジギスムント王に忠誠などない第四軍を
人為的に崩壊させる手筈だ」
ヒマリが小さく舌打ちした。
自分の失敗が見通されていたような気がしたのだ。
「もったいぶらないでよ」
フェルマーは、表情を変えなかった。
「戦場に出た瞬間、第四軍はこうなる」
フェルマーは一つずつ指を折る。
「命令が通らず、補給が噛み合わない。
部隊番号が食い違う。
そして誰も原因を特定できない」
沈黙。
「結果として――」
フェルマーは静かに告げた。
「戦わずして壊れる」
シュルツが思わず声を上げる。
「それは……大量の死者が出るぞ!」
「出ない」
即答だった。
「全滅ではない。解体だ。
逃げる者、投降する者、動けなくなる者が出る。
最終的に王都から離反させ、魔王陣営に引き込む」
ヒマリはゆっくりと息を吐いた。
「……だから、籠城を捨てなかったのね」
「そうだ」
フェルマーはヒマリを見る。
「君の計画は美しかった。心理誘導としても完成度が高い。
だが一点だけ致命的だった」
間を置く。
「ジギスムント個人に、執着し過ぎた。
教科書通りに型に嵌めようとして、彼の本質を見誤った」
ヒマリの眉がわずかに動く。
「彼は恐怖を突破する人間だ」
一拍、置く。
「――私が教育したのだから」
誰も、何も言えなかった。
「一度覚悟を決めたら、合理性も損得も捨てる。
それが彼の強さであり、弱点だ」
フェルマーは淡く笑った。
「だから私は、彼が踏み出した後の世界を用意した」
沈黙の中で、ノリスが低く笑った。
「それが……第四軍の瓦解と裏切りってこと?」
「そういうことだ」
ヒマリはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「あなたも……えぐいわね、フェルマー」
「かもしれない」
彼は否定しなかった。
「だが、これは魔王軍の保険だった。
君が感情で踏み外したときの、な」
言葉がちくちくと刺さり、ヒマリの視線が鋭くなる。
「私が?」
「そうだ。君は観測に夢中になって、勝敗を忘れた」
一瞬、空気が張り詰める。
「整理しよう」
フェルマーは指を折る。
「王都軍は四万。
対して我々の実働戦力は三千だ」
誰も、異議を唱えなかった。
数字が、残酷なほど明確だったから。
「だが王は、王都防衛に一万を残す。
前線に出せるのは三万だ」
「第四軍が寝返れば――」
一拍。
「三万から一万を引く。
残り二万対、我々の一万三千」
「……戦える数字ね」
ヒマリが、静かに言った。
フェルマーが続ける。
「魔王城のコア供給で結界範囲を全軍に広げ、
十分引き付けてから、ノリスの広範囲魔法で
右翼または左翼に壊滅的損傷を与える」
「行けそうな気がしてきたわ……あなたがいて良かった」
ヒマリは、顔を上げた。
「すべて机上の空論だ。
ひとつでも狂えば壊滅は我々の方になる」
そのとき、外から伝令の気配が走る。
「第一軍、二軍、四軍、進軍準備完了。
ジギスムント、自ら先頭に立つとのことです」
部屋の空気が一段、重くなる。
「フェルマー」
「なんだ?」
「第三軍を防衛に残したなら、前線は三万。読み通りね」
フェルマーは一拍置いた。
「ああ。だが――」
静かな声で。
「計算通りに進む戦争など、存在しない」
そして、付け加える。
「君が望んだ復讐は、
血を持って為されることになる」
ヒマリは、わずかに目を細めた。
「……それは、興味深いわね」
魔王城の奥で、歯車が静かに噛み合う音がした。
「君が感情で踏み外した時の保険」という言葉、
ヒマリへの信頼なのか、それとも不信なのか。
フェルマーもまた、ヒマリを見定めています。




