異界封印
クルスを失ったヒマリが、最後に選ぶ答えとは。
痛みを抱えたベル・ブリュードを前に、ヒマリは王錫を掲げる。
最終決戦、その結末へ。
城全体が、軋んでいた。
魔王城心臓部。
ベル・ブリュードからむき出しになった黒いコアが脈打ち、
天井から砂のような闇が降り続ける。
◆
切り裂かれた――魔神ベル・ブリュード。
美しい顔は乱れ、その下に蠢く昆虫のおびただしい数の複眼が
ヒマリを見つめる。
幾千もの感情を孕んだ異形。
割れた空間からベル・ゲラーテの亡骸が蠢き
ベル・ブリュードに取り込まれていく。
「こんなことがっ……!」
続いてベル・プルートの亡骸が現れ、本体へ吸収されていく。
分体を取り込むたびに、ベルの輪郭が濃くなっていく。
『私を否定しても何も変わらない』
ベルの声だろうか、上辺だけの優しい音色が重なり合って響く。
彼女自身が意思の統制を失い始めていた。
『切り捨てた痛みは、私が引き受ける。
苦しみと痛み。絶望を与えよ』
全身から生えた腕が広がる。
その中にはベル・ゲラーテ、ベル・プルートの腕も混じっていた。
ヒマリの膝が揺れる。
(私は――何と戦っているの?)
◆
異界門は、そのまま開いていた。
空間そのものが裂けたような黒い穴。
光を飲み込み、音が歪む。
世界の法則そのものを拒絶している。
その前に――ヒマリは立っていた。
王錫を支えに、肩で息をしながら。
ノリスの剣は、ベル・ブリュードを拘束し続けていた。
黒い触手のような影を出し、その四肢を縫い止めている。
「……まだ、分体を吸収しきれていない」
ノリス自身が徐々に蟻に食われていく。
密着した左半身が侵食され血が滲む。
「このまま、異界に封じて!
ベル・ブリュードの身体が崩れている今しかない」
白い肌の下から黒い外骨格が露出し、
顔の輪郭が虫の複眼へと崩れ始めていた。
壊れてなお、目を離せない完璧な美しさだった。
「ノリス、いつも私の邪魔ばかりするね」
フェルマーが魔法陣の中央で叫ぶ。
「確かに、クルス。これはむしろチャンスだ。
重ね掛けで異界に封印する!」
『演算補助中。あと十二秒』
クルスの声が響く。
少し無機質ないつもの声。
ヒマリは息を吸った。
異界門がベル・ブリュードに焦点を合わせ、強烈な磁場を発生させた。
終わる。
ようやく、終われる。
ヒマリは王錫を掲げた。
「ベル・ブリュード。あなたの痛みは否定しない。
これで――終わらせる」
ベル・ブリュードが、ゆっくり顔を上げた。
その口元に変わらない笑みが浮かぶ。
ぞくり、とした。
「……だから」
幾つもの人間の感情が混ざった声。
「君は甘い」
ベル・ブリュードの胸が――割れた。
黒いコアが弾け、吸収されかけた分体も笑っている。
黒い光が魔王城全体へ伸びる。
『異界固定点消失、防御結界を構築』
「もう、遅い」
低い声。
『ヒマリ!!』
ぶつり、と。
何かが切れた。
胸の奥でずっとあったものが、消える。
「……え?」
頭の中に声が聞こえない。
いつも、そこにいた。
皮肉を言って。支えて、導いて、笑って。
当たり前にいた。
なのに。
――いない。
「……クルス?」
返事がない。
◆
その瞬間。黒い魔力が逆流した。
「っ――!!」
胸が焼ける。
ノリスが弾き飛ばされ、ヒマリと激しく衝突した。
王錫が手を離れる。
《クルス》と《王錫杖》。
二つの強力な加護を失い、痛みが吹き出す。
吐血が始まる。
「ヒマリ!!」
フェルマーの声。
術式が揺らぐ。
ここで自分まで離れれば、異界門が暴走する。
ベル・ブリュードが笑う。
「君は、もう一人だ」
再び分体が形を作り始める。
「異界固定点を再取得しなければ……」
「ははっ、今度はお前たちをコアに封じてやる」
ヒマリの前に黒い霧が溢れる。
奥に潜むアリ型魔物。ハエ型魔物。
苦しみを標準化した世界が始まってしまう。
でも、何も考えられない。
ヒマリの胸に、ぽっかりと穴が空いたみたいだった。
(……やらなくちゃいけないのに)
今。いなくなって分かった。
ただの演算体じゃない。
クルスはずっと、自分の隣にいてくれた。
孤独だった夜。泣けなかった時。
女王になった日、誰にも弱さを見せられなかった時。
「……クルス」
声が震える。返事はない。
「クルス……!」
涙が滲む。
「嫌……戻って……お願いだから……」
震える指を王錫杖に伸ばす。
「クルス!!」
世界が止まったようだった。
そして、ノイズ混じりの声が聞こえた。
『……そうだ』
弱い声。
でも、間違えようがない。
『呼べ』
ヒマリの目が見開かれる。
「……クルス!やっぱりいたのね」
涙が落ちた。
『いつでも僕の名を呼ぶがいい』
少しだけ笑う気配。
『僕はもう――君の一部なんだ』
演算リンク。魔力回路。鼓動みたいに、ぴたりと重なる。
ヒマリの魔力が安定する。
「……戻った?」
クルスの声が響く。今度は、はっきり。
『第二ラウンドだ』
ベル・ブリュードが、初めて目を細めた。
「……羨ましいな」
静かな声だった。
「そんなふうに――誰かと一つになれるなんて」
その顔が、一瞬だけ揺れた。
「私は、ずっと一人だったから」
ヒマリは涙を拭き、杖を握って立ち上がる。
◆
『ヒマリ』
クルスの声。静かで、強い。
『痛みはなくならない。僕たちが一つであるように』
その言葉が、胸に落ちる。
「そう、私はすべてを救えない」
王錫杖に光を灯す。震える足を踏みしめる。
「でも――だからって、苦しみが当たり前でいいわけがない!」
光が走る。
ベルに刺さったままの剣が輝く。
浄化の抱擁が始まり、ベルの翼が裂けた。
「剣が、抜けぬっ!」
魔神が初めて後退する。
『殺すか』
クルスが静かに問う。
『封じるか』
ヒマリはベルを見た。
苦しみの総体。
痛みの怪物。世界を壊す存在。
でも、否定できない存在。人間の一部。
「封じる」
ベルが少しだけ笑った。
『優しいね』
「違う」
ヒマリは首を振る。
「あなたを封じるのは、救えなかった私の罪」
光が爆ぜた。
異界門が開く。
アストラル・ナーガの咆哮が響き、ベルが飲み込まれていく。
閉じ切っていなかった異界の亀裂から、
なおも群青の瞳が覗いた。
指先ほどの裂け目。
半分だけ崩れた顔。複眼。黒い外骨格。
それでも。どこか寂しそうに笑っている。
『ヒマリ』
静かな声。
『答えを、楽しみにしている』
クルスの声が、重なって聞こえた気がした。
亀裂が閉じた。完全に。
◆
黒い霧が晴れていく。魔王城の空に、星が戻った。
ヒマリの膝が崩れる。
「終わっ……た……」
口元の血を拭うと、小さくむせ返る。
だが、砂塵の向こう。
一頭の馬が、近づいてくる。
真っ直ぐ、こちらへ向かってくる。
ヒマリは、顔を上げた。
(……来たのね)
その背筋だけで、誰なのか分かった。
ヒマリが選んだ答えが、この戦いの決着です。




