魔王城心臓部 人間の完成形
魔王城心臓部で、ベル・ブリュードが語る。
「私は、人間を完成させた」
その思想に、ヒマリはどう答えるのか。
ベル・ブリュードのローブが裂け始める。
「私の名を騙った魔王城システム」
顔がひび割れながら、なお静かな微笑みを崩さない。
「だが、私はすでに魔神となった」
群青の瞳が、ヒマリの奥にいるクルスを見た。
「目の前で跪くなら、もう一度使ってやってもよい」
その言葉に、空気が冷えた。
『僕はただ奪ったわけではない』
低い響くクルスの声。
『僕はヒマリの知識を最適化演算した。
あなたは魔王城に流れ込んだ人間の感情を最適化した』
『つまり、方向性は同じ』
ベルは静かに首を振る。
「違う」
群青の瞳が、ゆっくり揺れた。
「私は、人間を完成させたのだ」
ベルが一歩踏み出すと、その足元から黒い砂が零れ落ちた。
床が侵食されていく。
「人間は痛みを抱えながら傷を知り、依存し――
そこに愛を見出す」
口元が少しだけ歪み、唾液が滴る。
「なんて非効率で――」
頬が、さらに裂けた。
バキリ、と嫌な音が響く。
皮膚の下から、蟻の複眼が零れる。
「なんて美しい生き物だろう」
ヒマリは錫杖を握り直した。
震える手に、あえて力を込める。
「……あなたを止める」
「何故?」
ベルは不思議そうに首を傾げた。
「世界を壊すから」
「それも違う」
ベルの口元は動いていない。
それなのに、声だけが響いた。
「私は魔物も人間も救う」
両腕が、ゆっくり広がる。
その瞬間だった。
コアルームに声が一斉に反響し始めた。
『助けて』
『寂しい』
『死にたくない』
『愛して』
気付くとヒマリに細いチューブが突き刺さり、
感情がそのまま脳へ流れ込んでくる。
救ったはずの人々の叫び。
返らぬ家族への懇願。
すべてを失った絶望。
「っ……!」
ヒマリの膝が揺れた。
重い。
心が押し潰される。
でも、全部、知っている感情だった。
医療院で、戦場で、何度も浄化してきた。
「苦しみは消えない――」
ベルの群青の瞳が妖しく光った。
「それを異常と定義するから苦しいのだよ。
苦しみそのものを平常にすればいい」
ベルの魔力が爆発した。
轟音と共に床が砕け、空間そのものが裂ける。
黒い砂嵐がコア制御室を飲み込み、魔王城全体が悲鳴を上げた。
そして――羽音が響く。
ブブブブブブブブッ――。
白いローブが裂けた。
背中から巨大な黒翅が広がり、
人の形を保った美しい上半身の下から、
昆虫じみた巨大な脚が何本も生え出していく。
彼女は全長五メートルは超える、巨大な昆虫と変じつつあった。
「刮目せよ。私は――」
空間が震える。
「人間の完成形」
その宣言と同時に、黒い影が走った。
ザンッ――!!
ヒマリに刺さったチューブが切られ
ベルの突き出した触覚が折れる。
群青の瞳が、わずかに細められた。
「喋り過ぎ……少し黙れ」
ノリスだった。
赤い瞳が燃えている。
影が膨れ上がり、もう一度ノリスに収束していく。
一歩。
また一歩。
ベルへ近づく。
「あなた」
低い声。
「その姿になるのに、浄化で奪われた私の痛みも使った」
ベルは微笑んだ。
「美しかったよ」
静かな声だった。
「選ばれなかった怒りも。魔王の孤独も――」
ノリスの殺気が、一気に膨れ上がる。
「勝手に語るな」
影の刃が、ゆらりと剣に絡みつく。
赤い瞳が歪む。
「それは――私のものよ」
ヒマリは大きく息を吐く。
「いくよ……クルス。
呼び名は変えないから」
『ああ』
「フェルマー」
「もう少し回復したかったが――」
ヒマリはベルを見据えた。
浄化はするべきではなかったかも知れない。
それでも。
「人は、傷ついた時、優しいぬくもりを求める。
誰かに抱きしめて欲しい夜だってある」
ベルが、初めて深く笑った。
「綺麗ごとばかり」
群青の瞳が細められる。
「人の感情を切り捨て、処分場へ捨ててきた女王様が」
ヒマリの瞳が揺れた。
処分場。
その言葉だけで、魔王城の地下が脳裏をよぎる。
人々が抱えきれなくなった苦しみ。
自分は救っているつもりだった。
けれど、その先で何が起きていたのかを知ったのは、
ベル・ブリュードの壊れた思想を見てからだ。
「……自分で神だと名乗るのね」
ヒマリは静かに言った。
ベルが笑う。
「女王が崇めれば、民衆もそうなる」
「あなたは救われない」
ヒマリの声が憐憫を帯びた。
「救われたいと願っていない」
ベルの複眼が、わずかに細まる。
だがヒマリは視線を逸らさなかった。
胸の奥に手を当てる。
そこには、ずっと声があった。
「私が救えなかったものがあったことは認める。
でも、その先に生まれたものまで否定しない」
「何?」
ベルの声が低くなる。
「あなたは、ただの魔王城システムと呼ぶのかもしれない」
ヒマリは小さく笑った。
「でも、私は何度も救われた」
クルスの沈黙が、胸の奥で揺れた気がした。
「捨てられた感情だって、全部が間違いだったとは思わない」
錫杖を握る手に力が入る。
「だって――」
ヒマリは真っ直ぐベルを見た。
「クルスが、その証明だから」
初めて。
ベルの笑みが止まった。
「その誰かがいない者は?」
「……」
「愛されなかった者は?」
「救われなかった者は?」
「それでも生きろと言うのかい?」
ベルの複眼が、一斉に開いた。
空間が歪む。
『右、一秒後!』
ヒマリが反射的に跳ぶ。
直後。黒い触腕が、彼女がいた場所を貫く。
床が融解する。
「酸……!」
床が――消える。
ただの融解ではない。
崩壊して、別の空間に溶け出していくような――。
『触れるな!』
クルスの声が響く。
『異界と接続している!』
ベルが笑う。
「人は脆い」
無数の腕が開き、黒い羽虫が空間を埋め尽くした。
「だから、美しい」
次の瞬間。
虫が一斉に羽ばたく。
黒い雨のように。
「っ……!」
ヒマリが王錫を振るう。
白い浄化光が溢れる。
だが、虫が消えない。
正確には、切った場所から、また湧く。
「ヒマリ!」
フェルマーの声。
だが、その直後。
「……おかしい」
珍しく焦った声だった。
「結界は解除したはず……!」
魔導眼鏡に術式が奔流のように流れている。
フェルマーの顔が青ざめる。
「これは羽虫ではない!」
視線がベルへ向く。
「虫の形をした、魔力そのものです!」
遅かった。
ヒマリの肩に、一匹が触れる。
「――っ!」
聖衣が崩れた。
白布が、砂のように崩壊する。
皮膚が裂ける寸前。
ヒマリの顔から血の気が引いた。
『下がれ!!』
クルスの演算式が展開される。
光の障壁。
ギリギリで侵食が止まる。
だが、ベルは、まだ微笑んでいた。
「ほら」
静かな声。
「人は、こんなにも壊れやすい」
ノリスが再び踏み込む。
闇に溶け込み、一瞬でベルの懐へ踏み込む。
死角からの斬撃。
呼吸すらさせない連撃。
黒い刃が暴風のように走る。
肩を裂き。
脇腹を裂き。
翅を削る。
抵抗を許さぬまま外骨格が剥がれていく。
だが、その下から、すぐに新しい甲殻が生えてくる。
「……再生?」
ベルの笑みが深くなった。
「心地いいよ」
その背後で、コアが脈打った。
ドクン。
ドクン。
極彩色の管がベルへ繋がっている。
赤が脈動し。
黄色が供給。
青が融合。
フェルマーの瞳が、大きく開かれた。
「これは……」
初めて、天才を自負する男が青ざめた。
「ベルはコアを使ってない……」
震える声。
「器官化してる……!」
床が割れた。
チューブが、生き物のように蠢き
フェルマーへ殺到していく。
「っ!!」
障壁展開。
巨大なチューブが酸をまき散らして激突。
白い結界が軋み、次の一撃でひび割れる。
止まらない。
『コアの制御権が……』
クルスの声が揺れた。
自我を持って初めて演算で負けた。
『奪われる』
赤黒く染まるコア。
保存したヒマリの映像が次々と砕けていく。
何より大切にしてきたもの。
数千、数万のログが消えていく。
逆流する演算式を見つめ
観測者としての仮面が剥がれ落ちた。
『僕は――』
微かに、弱音のような声が漏れる。
『結局、魔王の模造品だったのか』
ヒマリの呼吸が止まった。
苦しみをなくすのではなく、
苦しみそのものを「正常」にしてしまう。
それがベルの考える救済です。




