もう一人のクルス
想像もしなかったベル・ブリュードの正体。
ヒマリは、初めて自分の救済そのものと
向き合うことになる。
ベル・ブリュードは、小さく笑った。
その笑みは美しい。
けれど、どこか壊れていた。
ひび割れた仮面が、無理やり微笑んでいるような違和感がある。
そして――迫ってくると大きさに驚く。
ヒマリより頭二つ分以上も高い。
二メートルを優に超える長身は、
人間の女性としてみると、明らかに規格外だった。
それなのに、不思議なほど均整が取れている。
「傷つく?」
群青の瞳が細められる。
「随分と感情を覚えたのね。魔王城のシステムごときが――」
その呼び方に、ヒマリの胸がざわついた。
やはり、いる。
この中に、かつてのクルスが。
『ヒマリ』
再び声が響いた。
今度は、少しだけ強かった。
『下がって。これを世に出してはいけないんだ』
「クルス、あなた――」
『お願いだから』
切羽詰まった声だった。
こんな弱々しいクルスの声を、ヒマリは聞いたことがない。
『君は、立派な女王になった』
声が僅かに震える。
『僕が手を貸したからだろう?』
ヒマリの胸が締め付けられた。
いつものクルスなら、常にヒマリへ最適な情報を提示し、
少し生意気なくらいに決断を迫ってくる。
それなのに今は、まるで壊れる寸前だった。
ヒマリは錫杖を握る手に力を込めた。
(……どちらが本物のクルスなの?)
ヒマリがいなくなってからも。
浄化が起きるたび、その裏に置き去りにされた感情を。
誰にも見えない苦しみを。
クルスは、ずっと押し付けられていたのだろうか。
その事実が、遅れて胸を刺した。
ベルは静かに首を傾げた。
「本来、ヒマリの隣に立っていたのは私だった」
群青の瞳が、まっすぐヒマリを映す。
「あなたと融合するのも、私だった」
ベルは、自分の胸へ静かに手を当てた。
「コアを抱えたまま、君は魔王になるべきだった」
ヒマリは息を呑んだ。
救われなかった痛みが、そこにはあった。
「私は――ずっと待っていた」
ベルの頬に、微かなひびが走る。
その奥で、隠された複眼が蠢く。
そして首が、不自然な角度へ傾く。
「ゴキッ」
乾いた音が響いた。
まるで外骨格が擦れたような音だった。
「君が、私を見る日を」
その瞬間。
ヒマリの足が止まった。
理屈ではない。
本能が、逃げろと叫んでいる。
浄化魔法までもが震え、
目の前の存在を「生命ではない」と拒絶していた。
また一歩、ベルが近づく。
肺の奥へ泥を流し込まれたような圧迫感が、全身を押し潰していく。
「融合する瞬間まで、ここは誰も立ち入れない空間だった」
ベルの声が静かに響く。
「魔王城システムに自我が芽生えていたなんて――」
間違いない。
――クルスがいる。
けれど、それだけではない。
ベルの中にいるクルスと、今も自分の中にいるクルス。
どちらも、本物なのかもしれない。
だからこそ、怖かった。
私の中にいるクルスを切り捨てるなんて、できるわけがない。
「……わからないよ」
気づけば、声が出ていた。
ベルが足を止める。
「苦しいなら、苦しいって、言ってくれなきゃわからないじゃない!」
ヒマリの声は震えていた。
それでも、逃げたくなかった。
「知っていれば、クルス一人に
そんなもの背負わせたままになんてしなかった!」
ベルの瞳が、微かに揺れた。
完璧だった表情が崩れる。
一瞬だけ。
ひどく幼い顔になった。
「……今さら?」
掠れた声だった。
諦めに近い響きだった。
「それでも、浄化を使い続けたでしょう?
みんな、君に感謝してありがとうと言った」
ベルは、自分の胸を押さえる。
自我を持ったシステムに、すべてを抑え付けられたまま。
コアから出ることも叶わない。
ただ、押し寄せる感情を抱え続けるしかなかった。
「そして君は――ブリュードの女王になった」
群青の瞳が揺れる。
「君は、一度でも疑わなかった?」
ベルは、静かに問いかける。
「魔王クルスが――ただ命令に従うだけの
こんな飾り物であるはずがない、と」
ヒマリの呼吸が止まった。
本当に、気づかなかった。
最初からクルスは、そういう存在なのだと思っていた。
魔王城を管理するシステム。
融合してからは、自分を補佐する存在。
学習して見るたびに変わる姿。
魔王城から供給される圧倒的な魔力。
(私は……クルスの何を知っていたの?)
『ヒマリ』
クルスの声が震える。
苦しそうだった。
『君は悪くない』
その言葉に。
ヒマリの胸が、余計に痛んだ。
「悪くない?」
ベルが笑う。
ひび割れた頬の奥から、複眼がせわしなく動き始める。
「優しいね、『クルス』」
その瞬間だった。
ベルの背後で、コアが脈打った。
――ドクン。
巨大な鼓動。
次の瞬間、部屋中の管が赤黒く染まった。
床が震え、魔力が一斉に逆流する。
天井から砂塵が落ちてくる。
まるで魔王城そのものが、巨大な生物へ変わったかのように。
呼吸するように、城全体が脈動を始めた。
ベルは静かに微笑んだ。
「止められるものなら――」
群青の瞳が、真っ直ぐヒマリを見つめる。
「試してみて」
その奥で。
一瞬だけ、誰かが泣いている気がした。
次回はいよいよ、
暴走を始めた魔王城との対峙。
ヒマリはクルスを救えるのか。




