魔神ベル・ブリュード
ヒマリが辿り着いたコア制御ルームで、
ついに魔神ベル・ブリュードが姿を現す。
魔王城最深部――コア制御ルーム。
久しぶりに足を踏み入れたその場所を見て、
ヒマリは思わず立ち止まった。
知っているはずの空間だった。
けれど、どこか決定的に違う。
ここへ来るまでの通路には、確かに戦いの痕跡が残っていた。
砕けた砲塔、焦げた床。
黒く溶けた魔物の染み。
抉れた壁、焼けた魔力の匂い。
クルスも戦っていたのだ。
ヒマリが王都にいる間も、
最低限の制御を維持し、配下の魔物を最下層に逃がしていた。
この城を取り戻すために。
それだけは、嫌というほど伝わってきた。
だが――この制御室は異様だった。
部屋の中央では、巨大なコアから無数の管が伸び、
まるで巨大な生き物の血管のように脈打っている。
赤、青、紫。色とりどりの魔力が魔王城全域へ送り込まれていた。
なのに、その中心だけが暗い。
吸われている。
人型に。
ヒマリは息を呑んだ。
肺の奥へ、冷たい異物が入り込んでくるような感覚があった。
体内の魔力がざわつく。
無意識に王錫杖が反応し、淡い光が指先に滲む。
だが、すぐに揺らいだ。
――拒絶されている。
いや、違う。
自分の魔力が、本能的に目の前の何かを恐れていた。
(……何、これ)
こんな感覚は初めてだった。
目に見えなくても分かる。
ここにいる。
空間そのものが、何かに侵食されている。
コアの魔力は一点に集まり、
その中心に、一人の人影が盛り上がる。
白銀のローブに青の刺繡が施され
長い黒髪が風もないのに、ゆっくり揺れている。
顔は伏せられていた。
それなのに――美しかった。
どの角度からも黄金比を維持している。
人間の美しさではない。
まるで、ひとつひとつ人体の完全なパーツだけを取り付けたような
合成された不自然さを感じる。
本能が理解してしまう。
こんな生命はいない。
ヒマリは無意識に錫杖を握り直した。
すると、その存在がゆっくり顔を上げた。
群青色の瞳。
深く、静かで、底が見えない。
どこまでも沈み込んでいきそうな色だった。
「ようやく再会できた、ヒマリ」
澄んだ声だった。
けれど、一つの声ではない。
男の声。女の声。老人。子供。
無数の音が幾重にも重なり、一つの言葉になっていた。
耳に届くたび、背筋がざわつく。
「でも、知っている感じがする……あなた、誰?」
問いかける声が、僅かにかすれる。
相手は微笑んだ。
これも完璧な笑みだった。
だが、その頬の下で何かが動く。
一瞬だけ。
皮膚の裏側で、複眼がぎろりと蠢いた。
こちらを見ている。
ぞわり、と悪寒が走る。
「私は――魔神ベル・ブリュード」
その名が落ちた瞬間、部屋全体が低く軋んだ。
魔王城そのものが、その存在に耐えているようだった。
「人間が捨てた痛みと憎しみの総体」
ベル・ブリュードは、ゆっくり歩き出す。
足音はない。
ただ、静かに距離だけが縮まる。
「感謝されながら忘れ去られた嘆きの集積」
その群青の瞳が、真っ直ぐヒマリを見ていた。
どこか懐かしい。
なのに、理解できないほど恐ろしい。
矛盾した感情が胸を締め付ける。
「そして――」
ベルの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「君が救った者たちの残りかすを押し付けられた、かつての魔王クルス」
呼吸が止まった。
頭の奥で、何かが嫌な音を立てて繋がる。
これだ。違和感の正体。
この空気。
コアと融合した時に感じた脈動。
(……そうだ)
今さら気づく。
(クルスは、ただの演算システムじゃない)
魔王城の管理装置なんかじゃなかった。
旧魔王でありながら、ずっと一人で最下層にいた。
最後はコアに取り込まれ、苦しみを抱えながら
ヒマリを待っていた。
(あれ……?)
急に足元が崩れるような感覚がした。
「嘘よ……」
声が震える。
「クルスは、私と融合して……」
「君は、騙されていただけ」
ベルの声は、優しかった。
優しすぎて、残酷だった。
「ヒマリ。君はたくさん救ったでしょう?」
答えられない。
喉が詰まる。
「ありがとうって、言われた?」
ベルは静かに笑う。
その笑顔が、少しずつ壊れていく。
頬に薄くひびが入り、奥の複眼が蠢く。
「浄化された感情は、全部ここへ来た」
ベルは、自分の胸へ手を当てた。
「あなたが癒した痛み、奪った絶望――」
「救われた人間が、本来持っていたはずの可能性」
群青の瞳が揺れる。
「全部、学習させてもらった」
さらり、とローブの裾から黒い砂が落ちた。
床に触れた瞬間、ざわりと動く。
砂粒が蠢き、形を持ち始める。
――アリ型魔物が湧いてくる。
ヒマリは反射的に錫杖を握り締めた。
戦わなければ。
本能が警鐘を鳴らしている。
それでも、目を逸らせなかった。
もし本当に、クルスがこの中にいるのなら
あの瞬間、何が起こったのか確かめる必要がある。
『……ヒマリ』
掠れた声が響いた。
低い、苦しげな声。
ヒマリの瞳が揺れる。
「……クルス?」
『騙していたわけじゃない』
切迫し、余裕もない。
『彼女の言葉は、聞かなくていい』
そして、早口だった。
『君が……傷つくだけだ』




