アレクシスの意地
王都に残ったアレクシスの前に、
ベル・ブリュードの分体が現れる。
狙いは、アレクシスではない。
ヒマリに、絶望を届けること。
王都ブリュード。
王城の大広間は束の間の平安を取り戻していた。
空気の底にはまだ不安が沈殿している。
魔導砲は沈黙したが
空はまだ赤黒く染まったままだった。
その光を、アレクシスは長く見つめていた。
右肩から伸びる義腕は、まだ未完成だ。
魔力が通り、指は動く。
肘も曲がる。
だが、戦場では意気込んでみたものの、
剣を振るには鈍すぎた。
フェルマーが魔王城へ向かったことで調整は止まり、
今のこれは、形だけの腕に近い。
それでも、失った右腕の代わりとして、
ようやく掴み始めた希望だった。
アレクシスは左手で義腕を軽く押さえる。
金属の冷たさが、現実を突きつけてくる。
(……ヒマリ、ノリス)
視線は自然と遠くへ向いていた。
二人とも止められなかった。
足手まといになるのは、分かっている。
それでも――胸の奥が少しだけ痛んだ。
(二人が戻るまで、王都は守ってみせる)
冷たい義手に魔力が灯った。
その時だった。
――ブゥン。
低い羽音が響いた。
一つではない。
無数の羽音が、壁の向こうから押し寄せてくる。
アレクシスの表情が変わった。
「……ここで、来たか」
ゆっくり立ち上がる。
左手で壁に立てかけていた剣を取る。
未完成の義腕がわずかに遅れて動いた。
肩に剣の重さを感じながら、ゆっくりと構える。
直後――
扉が、溶けた。
鉄が黒く腐食し、音もなく崩れ落ちる。
黒い霧が床を這うように流れ込み、濁った腐臭が大広間を満たした。
霧の向こうから、人影が現れる。
だが、その姿は不安定だった。
輪郭が揺らぎ、顔の半分は蠅の複眼に侵されている。
見ているだけで吐き気がした。
「……ロンデルの公子」
声は穏やかだった。
奇妙なほど静かで、だからこそ不気味だった。
「私は《ベル・プルート》」
一拍置いて、微笑む。
「ベル様の分体だ」
アレクシスは剣先を向けた。
「蟻の分体が出た時から、ハエの分体もいるかと思っていたよ。
ここに女王はいないぞ」
「承知している」
ベル・プルートは、楽しそうに言う。
「君を通じて、ヒマリに絶望を届けに来た」
空気が冷えた。
「君が死ねば、彼女は揺らぐ」
「そういうことか」
アレクシスは剣を握り直す。
「抵抗しても無駄だよ」
ベル・プルートの輪郭が揺らぐ。
アレクシスは反射的に剣を振った。
空気を裂いた刃が、わずかに黒い影を捉える。
だが――
手応えがない。
「速い……!」
振り向く。
遅かった。
ベル・プルートが、すでに右側へ回り込んでいた。
黒い手が伸びる。
アレクシスは義腕を引こうとした。
だが、命令を受けた義腕が、ほんの一瞬遅れて動く。
その僅かな遅延を――
ベル・プルートは見逃さなかった。
「もらった」
黒い指が義腕を掴む。
凄まじい握力でギリギリと金属が軋む。
「しま――」
アレクシスが剣を持ち直し、振り下ろす。
ベル・プルートは身を捻ってかわした。
そして、そのまま腕を引く。
――ぶつり。
嫌な音が、大広間に響いた。
「ぐっ……!」
義腕が肩から引き千切られた。
剣を握ったままの右腕が、床へ落ちる。
ガシャン!
金属音が響いた。
一瞬。
何が起きたのか理解できなかった。
だが、次の瞬間――
「――あああああっ!!」
激痛が駆け抜けた。
右肩が焼ける。
脳が白く弾け、膝から力が抜ける。
アレクシスは左手で肩を押さえた。
指の隙間から血が流れ落ちる。
「いいぞ。泣き叫べ!
魔王城のヒマリに絶望を届けろ!」
ベル・プルートは、床に転がった義腕を見下ろし
無数の羽を震わせた。
アレクシスは歯を噛み締め、膝をついた。
呼吸が乱れる。
右腕を失ったあの日が、脳裏をよぎった。
敵国で目覚めた絶望。
守れなかった後悔。
そして、ようやく取り戻しかけていたもの。
それを、また奪われた。
(終わった)
一瞬だけ、その言葉が頭をよぎった。
だが――
赤黒い空の向こうに、ヒマリの姿が浮かんだ。
今も、あの人は戦っている。
死ぬ覚悟で。
誰かを守るために。
アレクシスは血の滲む歯を更に噛み締めた。
(いつか、追い付くと言った)
左手で懐を探る。
指先に触れたのは、小さな魔石だった。
ノリスが残していったもの。
何かあった時のために、と。
深い青色の魔石を、アレクシスは強く握り締める。
「……まだだ」
魔石が光った。
次の瞬間――
青白い奔流が大広間を駆け抜けた。
魔石から溢れ出した聖水が、
渦を巻きながらベル・プルートへ殺到する。
「なに――」
ベル・プルートの身体が、聖水に飲み込まれた。
ジュウウウウッ!!
白い蒸気が噴き上がる。
「ぐ……っ!」
初めて、その顔から余裕が消えた。
聖水が身体を包み、白いローブが焼け落ちていく。
「効いている……!!」
アレクシスは息を荒くしながら、その様子を見つめた。
「……ほう」
だが。
ベル・プルートは笑った。
「面白い」
焼けただれた身体の表面が、不自然に波打つ。
次の瞬間。
傷口から、小さな蠅が這い出した。
蠅は次々と、聖水の中へ落ちていく。
「な……!」
アレクシスが息を呑む。
青白い光が黒く染まり、泡が弾ける。
腐臭が一気に強くなった。
「僕の身体は強酸性でね」
ベル・プルートが穏やかに言った。
「浄化も、いずれ腐る」
ぐつぐつと音を立てながら、聖水が変色していく。
「黒く染まったら――」
ベル・プルートの顔が、濁った水の向こうに浮かぶ。
「君に返してあげるよ」
アレクシスの表情が強張った。
(まずい)
このままでは。
聖水が逆に毒になる。
魔石に限界まで魔力を注いでいく。
右肩からは血が流れ、意識が遠のく。
左手一本。
満身創痍。
(剣を、拾わねば……)
ベル・プルートが、ゆっくりと近づいてくる。
黒く染まった聖水を引き連れながら。
一歩。
また一歩。
アレクシスの目の前で落ちた剣を蹴り飛ばす。
「安心するといい」
ベル・プルートが微笑んだ。
「君の死は、無駄じゃない」
その時だった。
窓の外で、人影が動いた。
城壁の上。
風に揺れる薄橙色の髪。
青ざめた顔。
それでも、逃げずにこちらを見ていた。
――アリシアだった。
ようやく手に入れた義腕を奪われ、
再び右腕を失うことになったアレクシス。
それでも、ヒマリとの約束を思い出し、
「死ねない」と立ち上がります。




