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蜈蚣(ごこう)

これは、Iさんがまだ小学生だった頃の話だ。

Iさんの母親の実家、祖父母の家は、山の集落にあった。

とても大きな家で、母屋のほかに蔵や納屋がいくつもあり、敷地の奥には古い離れまで建っている。

祖父母の家は、周囲の家に比べてずいぶん裕福だった。

毎年のように新しい車を買い、家の中には高そうな家具や電化製品が揃っていたという。

Iさんが初めて祖父母の家を訪ねたその日は、親戚を大勢集めた宴会の日だった。

母とともに大勢の親戚へ挨拶をして回っていると、祖母からあることを言われた。

「裏の離れには絶対に入っちゃいけないよ」

理由を尋ねると、祖母は少し間を置いてから、

「あそこには、神様がいるから」

とだけ答えた。

母屋では朝から料理が作られ、酒や食器が運び込まれていた。

大人たちは忙しそうに動き回り、夕方から宴会をするのだと話していた。

Iさんには、親戚の集まりにしか見えなかった。

けれど、祖父だけは、ほかの大人たちとは少し違っていた。

何度も離れと母屋を行き来し、誰かに指示を出していた。

時折、離れへ向かう廊下の前で立ち止まり、何かを確認しているようだった。

その日の昼過ぎ、家の大人たちが母屋で話し込んでいる間に、Iさんは1人で敷地の奥へ行った。

離れと母屋をつなぐ廊下は、中央以外にはほこりが積もっており、あまり手入れをされていないのが分かる。

Iさんが離れの戸の隙間から中を覗くと、奥の部屋に祭壇が見えた。

祭壇には、金色の器や酒の瓶、米の入った皿、古い財布、指輪、印鑑のようなものが並べられていた。

壁には、ムカデの絵や彫り物がいくつも掛けられている。

Iさんがそれを見ていると、部屋の奥から音がした。

ず……。

ず……。

何か重いものを、畳の上で引きずっているような音だった。

Iさんは、戸をほんの少しだけ開けた。

その隙間から、巨大なものが見えた。

それはムカデのように長い身体をしていたが、胴体から伸びているのは虫の脚ではなく、人間の腕や脚だった。

手のひらが何本も並び、指が足のように曲がっている。

膝や肘が、関節の向きもばらばらに、無理やりつなぎ合わされているかのようだった。

大人の腕のようなものが、祭壇の上の財布をつまみ上げる。

次は子供の手が、酒の瓶を持ち上げた。

さらに別の手が、米の皿を抱え込む。

それらは1つずつ、奥へ運ばれていった。

物が消えるたびに、部屋のどこかで人間の関節を鳴らしたかのような音が鳴った。

ぽき。

ぱき。

Iさんが恐怖で声を上げそうになった時、背後から誰かに肩をつかまれた。

振り返ると、祖父が立っていた。

見てはいけないものを見た気がして、祖父へととっさに頭を下げた。

しかし祖父は怒らなかった。

ただ、ひどく疲れた顔をして、Iさんの肩をがっしり掴んだ。

「見えたか?」

祖父はそう言った。

そして、離れの方を1度だけ振り返ってから、

「百足様は、何かを欲しがるんだ。欲しいものを差し出せば、代わりに家を栄えさせてくださる」

と言った。

「……何をあげるの?」

Iさんが恐る恐る聞くと、祖父は答えなかった。

ただ、

「昔から、俺たちはそうしてきたんだ」

とだけ言った。

その時、離れの中から、子どもの声が聞こえた。

「ひとつ、たりない」

祖父の手に力が入り、Iさんの肩に食い込んだ。

「いたっ……」

「静かに。離れるぞ」

祖父はそう言うと、Iさんの手を痛いぐらいに強く引っ張りながら母屋に向かった。

母屋では、親戚たちが何かを探していた。

引き出しを開け、棚を調べ、神棚の中まで確認している。

1人の女性が、祖父に泣きそうな声で言った。

「まだ見つからないんです」

「本当に、そこに置いたのか」

「ええ。昨日までは、確かにありました」

「誰かが動かしたんじゃないのか」

「そんなはずは……」

大人たちは、何を探しているのかを口にしなかった。

ただただ困り果てた様子で、家の中を探し続けていた。

やがて、母屋の奥から祖母たちの声がした。

「もう、宴会どころじゃないよ」

誰かが、

「でも、今日を逃したら次はいつになるか……」

と答えた。

祖父はしばらく黙っていたが、やがて低い声で、

「仕方がない。始めるしかない」

と言った。

Iさんには、その言葉の意味が分からなかった。

ただ、大人たちの顔から、さっきまでの浮ついた雰囲気が消えていることだけは分かった。

その後、Iさんは母親に呼ばれ、母屋の隅に座らされた。

親戚たちは宴会の準備を続けていたが、誰も楽しそうにはしていなかった。

料理が並べられても、酒が注がれても、会話は途切れがちだった。

祖父は何度も離れの方を見ている。

しばらくして、家の奥から、何かが倒れる音がした。

どん。

その直後、離れの方から、

ず……。

ず……。

という音が聞こえてきた。

今度は、廊下を何かが這ってくるような音だった。

親戚たちは一斉に黙った。

祖母が、Iさんの母の腕を強くつかんだ。

「失敗したんだよ」

祖母は、母に小さな声で耳打ちする。

「足りなかったんだ。アレが、足りなかった」

母親が何かを尋ねたが、Iさんには聞き取れなかった。

祖母はさらに声を落として、

「早く連れて逃げなさい。今のうちに」

と言った。

母親は顔色を変え、すぐにIさんの手を握った。

「帰るよ」

「どうして?宴会は?」

「いいから。早く」

Iさんは母親に引っ張られるようにして玄関へ向かった。

その途中、離れへ続く廊下の方から、また声がした。

「ひとつ、たりない」

今度は、子どもの声ではなかった。

何人もの人間が、重なったような声だった。

Iさんが振り返ろうとすると、母親が強く手を引いた。

「見ちゃだめ」

家を出てからも、母親は一度も振り返らなかった。

帰りの車の中で、Iさんが何度も、

「何が足りなかったの?」

と聞いたが、母親は答えなかった。


それから何年か経ち、Iさんが大人になってしばらくした頃、母親の実家は取り壊された。

祖父母はすでに亡くなり、親戚たちもそれぞれ別の土地へ移っていた。

家を取り壊す前、Iさんは母親に、あの日のことと離れのことを尋ねた。

しかし、母親は首をかしげた。

「そんなこと、あったかしら」

Iさんが、祭壇の話をしても、

「離れにそんなものがあったなんて、知らない」

と言う。

ほかの親戚にも聞いてみた。

親戚の中には、そもそも敷地の奥に離れがあったことさえ覚えていない人もいた。

Iさんは、取り壊す直前に古い写真を見せてもらった。

母屋の壁に飾られていた、親戚一同の集合写真だった。

そこには確かに、あの日の大人たちが写っていた。

けれど、Iさんが覚えている、写真の端に立っていた人物は、どこにもいなかった。

写真の人数を数えてみても、誰かが1人足りないように思えた。

誰が足りないのかは分からない。

そもそも、本当に1人足りないのかどうかさえ、Iさんには分からなかった。

Iさんは今でも、あの離れで見たものを覚えている。

人間の手足を無理やりつないだような、部屋いっぱいのアレ。

祭壇から物を運び、身体の奥へ飲み込んでいく姿。

そして聞こえた、

「ひとつ、たりない」

という声。

けれど、あの家で何が行われていたのか。

何が足りなかったのか。

そして、何を差し出すはずだったのか。

それを知る者は、もう誰もいない。

Iさんの母も、あの家にいた親戚たちも、ほとんどが亡くなっている。

残された人たちに聞いても、誰も何も覚えていない。

だからIさんは、今でも時々、自分の記憶の方を疑うことがあると言っていた。

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