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床を這う

知り合いのAさんは一時期、単身赴任で海に近い田舎町に住んでいた。最寄り駅から車で20分ほど、周囲には古い民家と畑が点在していて、少し歩けば防波堤に出るような場所だ。

借りたのは、平屋に近い古い木造の貸家だった。いささか古い建物ではあったが水回りがリフォームされていることとかなりの安さが決め手だったらしい。

ただ、住み始めてから気になる点があった。

床が妙に湿っている。

海が近いせいか家全体が湿気を含んでいる感じはあるが、それにしても一部だけがやけにしっとりしている。拭いても拭いても足の裏に湿気を含んだ感触が残った。

「古い家だから床がシロアリか何かに食われて腐っているのかな」

色々なサイトを調べて、不動産屋にも来てもらったが、結局原因は判明しなかった。とりあえず実害もなかったので、家賃をさらに下げるということで決着がつき、Aさんは引き続きその家を借りることになった。

しかし、おかしなことが起き始めたのは、それから2週間ほど経ってからだ。

夜中になると、

……ぺた。

という音がするようになった。

ぺた……ぺた……ぺた……。

ゆっくり、何かが移動している音。

床スレスレを這うような低い位置から聞こえる。

ある夜、Aさんは音のする方へ視線を向けた。

電気は消してあった。窓の外の漁港の明かりがぼんやり入り、床の輪郭だけがかろうじて見える。

その中で、何かが動いているように見えた。

はっきりとは分からない。

だが、そこに何か白いモノが『いる』と分かる。

視界の端でだけ捉えられる、形の定まらない動き。

よーく見ると、それは人の手のひらだった。

ぺた、ぺたと歩くかのように手だけが動いている。

手だということを認識した途端、Aさんの体が震えだした。言い様の無い程の恐怖感があったという。

これは、見てはいけない。

理由は分からないが、そう確信した。

視線を外し、布団のある場所まで逃げた。

布団の中で震えながら、

「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ......」

と唱えた。その間もペたペたと音が鳴り続ける。

一心不乱に祈っていると、音はしばらくして止んだ。

だがそれ以降、音はほぼ毎晩するようになった。

ぺた……ぺた……。

音は家の中をゆっくり移動し、ときどき止まる。

止まる場所は決まっている。例の床が濡れているように感じる場所だ。

そこで音が消える。どうにも気味が悪く、寝付きが悪くなり、やがて体調にも変化が出た。

朝になるとびっしょりと汗をかいていて、異様に喉が渇いている。足もやけに冷え切っている。このままでは良くないと思い、赴任先の営業所近くのホテルで宿泊するようになった。

ある日、居酒屋でその話をしていると隣の席で座っていた年配の女性がぽつりとこう言った。

「この辺じゃ昔から、ソレの話があるよ」

海の近くの家に出ること。

湿気の多い場所を好むこと。

そして、

「アレは見ていると、つれていかれる」

と言った。

さらにその女性は、少し考えてからこう付け足した。

「アレが出る場所に水と塩を置いてみなさい」

昔からそうしている家があるという。

半信半疑ながら、Aさんはその日の夜、例の家に戻り、小皿を置いた。正直、ホテル泊まりにも貯蓄の限界が来ていてヤケクソじみた気持ちもあったらしい。

1つには水を張り、もう1つには塩を盛る。

それを、いつも湿っている床の近くに置いた。

その夜も、音はした。

ぺた……ぺた……。

いつも通り、ゆっくりと動いている。

ただ、その日は少し違った。

止まったあと、かすかに、水が揺れるような音がした。

ちゃ……と、小さく。

それきり、音はしなくなった。

次の日の朝、小皿を確認すると、水は少し減っていた。

こぼれた様子はないのに、底がわずかに見える程度に減っている。

塩の方は、表面だけが妙に湿って固まっていた。

それ以降、ぺた……ぺた……という音も聞いていないし、手のひらも見なかった。

床の妙な湿り気も、いつの間にか気にならなくなった。

Aさんは今では別の場所に住んでいるというが、例の家が気になって一度だけ付近を見に行ったらしい。

家はリフォームされて、家族が住んでいた。とても幸せそうだったという。

対処方法を教えてくれた女性も居酒屋以来、会えていないそうだ。女性はこの辺、とは言っていたが上記の話に似た民間伝承はAさんがいた地域には一切無く、あの女性が誰だったのかもよく分からないらしい。

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