残業-1
都内の中小企業の会社員だったHさんは意味もなく、会社に残っていた時があったらしい。自分の仕事が終わっていることを知られると追加の業務を貰い、てんてこまいになるからだ。
特に給料も変わらないし、帰ってやることもないので、割と遅くまで残っていることがあったようだ。その日も会社の給湯室でコーヒーを注ぎながらゆっくりと事務作業をしていると同僚のTさんから呼び止められた。
「ごめん、D社の書類、明日までだから一緒に手伝って!」
Tさんは正直おっちょこちょいなタイプでHさんとは別系統で残業するタイプだった。
(…やることもないし、ここらで貸しを作っておくか)
どうせすぐには終わらないし、誰もいないからお茶でも飲みながらやろう、とのことで給湯室で作業することになった。
Tさんが倉庫から持ってきたのは、分厚いファイルだった。
薄い灰色のバインダーに、古い伝票がぎっしり綴じられている。
「これ、倉庫の奥にあったやつなんだけどさ。D社の昔の取引一覧なんだって。この中から昔の取引を漁ってほしいらしいけど」
Hさんはファイルを受け取ってページをめくった。
紙はどれも黄ばんでいて、少し湿ったような匂いがする。
「いつのだよ、これ」
「昭和40年代くらい? なんか古いよね」
高度経済成長期の伝票だった。
今のフォーマットとは違う手書きの帳票で、担当者の名前も見慣れない。
給湯室の隣にある小さな作業机で、二人は並んで書類を整理し始めた。
社員はほとんど帰っていて、フロアには蛍光灯のジーという音だけが響いている。
ページをめくりながら、Hさんはふと違和感に気づいた。
同じ名前が、何度も出てくる。
担当者欄に
『H』
Hさんと同じ苗字が書かれていた。
「へえ、昔にもHさんっていたんだ」
Tさんが軽く言った。
「まあ、Hなんていくらでもいるだろ」
Hさんはそう答えたが、妙な感じがした。
その『H』は、やけに丁寧な字で書かれている。
しかも、書類の日付は昭和41年。
つまり、今から何十年も前だ。
粗雑な感じでなぜか一緒くたになっていた旧式のタイムカードに目が行く。
ここでも、
『H』。
「……この人、めちゃくちゃ残業してるな」
時刻欄には、処理時間が書かれていた。
21:40
22:15
23:05
どれも、やけに遅い時間だった。
横からTさんがのぞき込んでくる。
「昔の人って働きすぎだよね」
Tさんが笑った。
その時だった。
給湯室の奥の廊下で、
コツ…
と、靴の音がした。
二人とも手を止めた。
「まだ誰かいるのか?」
Hさんが言うと、Tさんは首を振った。
「さっき守衛さんが最終点検してたよ。もうみんな帰ったはず」
足音はゆっくり近づいてきた。
コツ…
コツ…
コツ…
革靴の音だった。
しかし、廊下の角から誰も出てこない。
音だけが近づき、給湯室の前で止まった。
二人は顔を見合わせた。
「……誰か、います?」
Tさんが声をかけた。
返事はない。
代わりに、
カタン
と、背後で音がした。
Hさんが振り向く。
机の上のファイルが、少しだけ開いていた。
さっき閉じたはずなのに。
そして、開いたページの担当者欄に書かれていた名前。
そこには、
さっきまでなかった文字が増えていた。
『H 残業』
大きく目立つように、書類の上から赤いペンで、書き足されていた。
Hさんは思わずページをめくった。
次のページにも。
その次にも。
全部、同じ文字。
『H 残業』『H 残業』『H 残業』
『H 残業』『H 残業』『H 残業』
『H 残業』『H 残業』『H 残業』
Tさんが言った。
「…ねえ、Hさん」
声が震えていた。
「これ、赤ペン…今書いたみたいじゃない?」
確かにインクがやけに鮮やかだった。
その時。
廊下でまた足音がした。
コツ…
コツ…
今度は、給湯室の入口まで来ていた。
誰もいないはずの入口に、影が伸びている。
でも、
そこに立っている人間はいない。
Tさんが小さく言った。
「……帰ろう」
Hさんも頷いた。
二人は急いで書類を閉じ、電気を消してフロアを出た。
エレベーターに乗る直前、Hさんはふと振り返った。
廊下の奥。
給湯室の電気が、また点いていた。
(…確かに消したはず)
絶対に誰もいないのに。
翌日、書類を給湯室に置き忘れたTさんが怒られていた。
Tさんが会社の記録をいろんな人に聞いていたが、これと言って収穫は無かったらしい。もう一度ファイルを見返しても赤い文字も『H』の名前もなかった。
しかし、それ以降、
夜の給湯室でコーヒーを入れている“誰か”を見た。
という話が出る。(おそらくTさんがこの体験談を触れ回っていたこともあるだろう)
ただし、不思議なことに。
その人を見た社員はみんな、後日こう言う。
「その人、顔は見てないけど……」
「格好が、どことなく自分に似てた気がする」
と。




