62 -饗宴――余香③
「あらゆる思いを洗い清め
かの者の魂が、迷うことなくあなたの御許へ届かんことを。
どうか、お聞き届けください。
かの者の名は――」
不意に祈りの言葉が途切れた。
「あら?」
赤い瞳がこちらを見て微笑んだように見えた。
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62 -饗宴――余香③
♤
黒の礼服に身を包んだ女性はゆっくりと立ち上がる。腰まで流れる黒髪がさらりと揺れ、それに合わせて耳飾りが微かな音を立てた。
「私に何かご用ですか」
首を傾げる女性に見覚えはないし、そもそもこの小島は血族以外の立ち入りを許されていない。誰かに見咎められて騒ぎになる前に礼拝堂から退出してもらったほうがいいだろう。
「ここは水景園です。原則として血族以外の方は立ち入ることができません。屋敷までご案内しますので、ご一緒いただけますか」
女性は一瞬だけ動きを止めた。左手の甲を唇へ添え、何かを考えるように視線を落とす。
「なるほど。やはり……そうなのですね」
赤い瞳が笑み、どこか楽しげな声で続けた。
「祈念の式にてご奉仕をさせていただいたのですが、私のこと覚えていらっしゃいませんか?」
「祈念の式……」
その先の言葉が続かなかった。
静まり返った礼拝堂に女性の肩へ留まっていた小鳥の「ちちっ」という短い鳴き声だけが静寂をかすかに揺らした。
「夢現のようで、足取りもどこかおぼつかないご様子でしたから。お加減が悪いのではないかと案じておりました」
そう言って、心配そうに寄せられていた眉がふっと緩む。
「今はとてもお元気そうですね。もしかして、朝はあまりお強くないのでしょうか」
祈念の式を執り行われた方なら、この礼拝堂で祈りを捧げておられても何ら不思議ではない。にもかかわらず僕は勝手な思い込みで声を掛け、あまつさえ退出までお願いしてしまった。
頭から冷や水を浴びせられたような心地で、慌てて深く頭を下げる。
すると、くすりと笑う声が聞こえたような気がした。
「少しからかいすぎましたね。あなたの反応が可愛らしかったものですから、つい」
紅を引いた唇がゆっくりと引き結ばれ、銀指輪をはめた左手を胸元へ添えた。
「では、寄り道はこのくらいにして。改めまして、ご挨拶を。
かつてはパイドロス家に連なる身でございましたが、今は俗世を離れ、聖職の道に身を置いております。
名はクレマチス。
龍の血を継ぐ者にございます。
ただいま代拝のため各地を巡礼し、皆様に代わり、祈りを捧げる務めを果たしております」
そこまで真剣だった表情がふっと和らぎ、先ほどと同じ、赤い瞳が優しく細められた。
「以後、お見知りおきくださいね」
クレマチスという女性は同じ龍の子だからだろうか。言葉を尽くさずとも、こちらの立場を汲んでくれているような不思議と安心できる人だった。
以前から代拝という務めにも興味があったこともあり、自然と言葉がこぼれる。
「代拝の旅をなさっておられるのですね。龍の子である者として、そのようなお務めを担っておられることを誇りに思います。
それでも……旅は厳しい修行の連続だと伺っておりますが、やはりそのようなものなのでしょうか」
「そうですね」
クレマチスは手の甲をそっと口元へ添え、小さく笑った。
「もちろん、代拝の旅は大変なこともあります。でもそれ以上に旅は素晴らしいものだと、日々実感しておりますの。
祈念のため南端へ参らせていただきましたが、聖都とはまた違う風土や、そこに暮らす方々との出会いがありました。その土地ならではの営みに触れられることは、旅をする者にとって何よりの喜びです。
ですから私は、本当に幸せな身でございますね」
そう言って彼女は礼拝堂をゆっくりと見回し、穏やかに目を細めた。
「旅を重ねてきたからこそ、巡り会えた場所もあります。
この礼拝堂もその一つです。龍神様が、地に立っていらっしゃる」
彼女の視線の先には床と同じ高さに安置された龍神像があった。
「聖焔教会にも参りました。でもあちらの龍神様は祭壇のはるか上――高い天井から私たちを見下ろしていらっしゃいます。
本来、そのようなお方ではないと私は思うのです」
龍神像を見つめたまま、穏やかに微笑んだ。
「龍神様は対等に向き合ってくださるお方です。何も隔てるもののない場所へ降り立って、私と同じ透明な空気をともにしてくださる。
たとえその先に花咲く園が広がっていたとしても。血の海が広がっていたとしても、決して私から目を逸らすことはなさいません」
クレマチスが指先をわずかに動かすと、銅線細工の小鳥たちが再び宙を羽ばたいた。羽音の代わりに、かすかな金属音を響かせながら。
「厳粛に。いつも私を見ていらっしゃる」
胸の奥が、ざわりと波立つ。
龍神像へ向けられた彼女の揺るぎない眼差し――それがそのざわめきの理由だったのかもしれない。
「わふ」とひと声、足元のムギが鳴いた。
言葉にできない不安まで伝わっていたのだろう。これ以上不安にさせまいとその頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
いつものようにそうしていると、クレマチスが柔らかな声で話しかけてきた。
「ずいぶん愛らしい龍造犬ですね。
警備用というより愛玩用でしょうか。それでも……これほど感情豊かな龍造人形は初めて拝見しました」
ムギは褒められたと思ったのか、クレマチスを見上げ、いつになく誇らしげに胸を張る。
「南端には龍造工房がないと伺っております。
もしかして、ご自身でお造りになられたのですか?」
「まあ、ええ。
人形造りだけが僕の取り柄ですから」
クレマチスの表情にほんの一瞬だけ影が差した。
そう見えたのも束の間、次に目に映ったのは穏やかな微笑みだった。
「『だけ』、なんて言葉をご自身のために使ってはいけません」
クレマチスは天窓近くを舞う小鳥たちへ視線を向けた。
「人は自分にとって当たり前にできることほど、その価値を見誤ってしまうものです。
実は私も以前、龍造人形の製造に携わっていた時期がございます。だからこそ分かるのです」
小鳥たちからゆっくりと視線を戻し、クレマチスはまっすぐ僕を見つめた。
「この私が保証いたします。あなたには、才があります」
「そんな……僕なんて大したことありませんよ」
「いいえ」
その否定には一片の迷いもない。
「龍の子としての謙虚さは、ときに美徳ではありません」
僕が返す言葉を失っていると、彼女はふっと微笑んだ。
「……年の功と思ってくださいね」
そう言って、彼女は静かに続けた。
「それほどの力を無自覚のまま人前で振るってはいけません。軽々しく他人へ明かすことも同じです。
その振る舞いはいずれあなたご自身だけではなく、周囲の方々をも危険へ導くことになります。
どうか龍の子として少し先を歩んできた者の願いとして、心に留めておいてください」
以前にもセピアから同じようなことを言われた気がする。まだその意味を十分には理解できなかったけれど、僕は素直にその忠告に頷いた。
「見せてよい龍力と、その源泉を分けておくこと。それもまた、大切な知恵なのですよ」
そう言って、指先でそっと宙をなぞる。
すると、羽ばたいていた銅線細工の小鳥たちはふわりと輪郭をほどき、一本の銅線へと戻っていった。
「ほら。
これだけをご覧になっても、私が何を源として龍力を扱っているのかまでは、お分かりにならないでしょう?」
クレマチスはもう一度、指先で小さな円を描く。
一本の銅線は再び羽を広げ、小鳥たちとなって静かに宙を舞い始めた。
「龍の子は、ときに力のない存在だと思っていただくことも必要なのです」
小鳥たちを見送りながら彼女は目を細める。
遠くを見るような眼差しとともに、その声も少しずつ小さくなっていった。
「けれど、いつか……ありのままのあなたで歩める日が、必ず訪れます。
その日まで、もう少しだけ我慢してくださいね」
クレマチスはそこで言葉を置いた。
その唇から、小さな笑みがこぼれ落ちる。
「申し訳ありません。
まだ祈りの途中ですので、少しお席を外していただけますか」
「ごめんなさい。お祈りのお邪魔をしてしまいました」
慌てて頭を下げ、急いで礼拝堂を後にしようとした、そのとき。
「龍の子ジュナ」
振り返るとクレマチスは両手をそっと重ね、身体の前に添えていた。左手の薬指には、蔓のような曲線を描く精緻な細工の銀指輪が嵌められている。
その赤い瞳は、龍造人形の琥珀の瞳を思わせるほど澄み切っていた。
けれどその眼差しを見つめるほどに、奥底では灰の下でなお熱を失わぬ熾火が揺らめいて見えた。
「龍の子ジュナ。また近いうちにお会いしましょう」
その瞳が何を意味していたのか、その時の僕にはまだ分からなかった。




