59 -饗宴――杯中③
「ひゃっ!?」
突然フリージアが素っ頓狂な声を上げた。
驚いて視線を上げると、ぼさぼさに毛を膨らませた猫が彼女の肩にしがみついていた。
*********************************************************************************************
視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
59 -饗宴――杯中③
♤
その黒猫の正体に気づき、呆れて声をかけようと口を開く。
だがその前に声が飛んできた。
「そこの御方、セピア様を見かけませんでしたか?」
硝子扉の方を見ると、中刻の親交席でセピアを囲んで談笑していた令嬢たちがこちらへ駆けてきていた。
その慌てようを見て、ろくな話ではないと悟った。
「えっと……こっちの道には誰も来てませんよ。
フリージアさん、そうですよね?」
「っえ? ええ。どうやらそのようです」
多少ごまかしきれていない気もするが、令嬢たちは顔を見合わせ次の行き先を相談している。少なくとも僕たちを疑っている様子ではなかった。
その間にフリージアは肩にしがみつく黒猫の首根っこを掴むと、そのまま噴水の縁へ放った。
「どちらへ向かわれたのでしょう……」
令嬢たちが裾を翻そうとした、そのときだった。
フリージアが僕を庇うように一歩前へ出る。その視線を追った次の瞬間、一体の龍造犬が草藪から飛び出してきた。
ムギだ。
「きゃっ!!」
令嬢がへたり込むより早く、フリージアは駆け寄ってその手を取った。
「この人形は警備用です。人を傷つけることはありません」
ありがたいことに飛び出てきたムギは令嬢たちには目もくれず、噴水の縁に座る黒猫へ一直線だった。
尻尾を勢いよく振りながら、夢中で黒い毛並みを舐めている。
「この野良猫に反応したのでしょう。
龍造犬、座ってください」
フリージアが命じると、ムギは素直にその場へ腰を下ろした。
そのことに僕はほっと息をつく。
恥ずかしそうに感謝を口にしながら去っていく令嬢たちの背中を見送り、完全に姿が見えなくなったところで——
「もう大丈夫ですよ」
フリージアが噴水へ向かって声をかける。
その呼び声に応えるように噴水の向こうで淡い光がひときわ瞬き、人の姿へ戻ったセピアは手の甲で頬を何度も拭っていた。
「ほんとに酷い目に遭ったぜ……」
セピアはなおも尻尾を振り続けるムギを見て苦笑した。
「猫にならずとも、空を飛べる動物にでもなれば、こんな目には遭わなかったのではありませんか?」
「そう簡単に他の獣に変われたら苦労しねえんだけどな」
「あなたは猫になれるじゃありませんか」
腕を組んだフリージアに、セピアはおどけるように肩をすくめてみせた。
「猫にしかなれねぇんだよ。鳥にも犬にも挑戦したが、一度も成功したためしがなくてな。俺はどうやらボサボサの猫にしか変身できないらしい。
神官どもに言わせりゃ『性根を映す』ってやつなんだろうぜ」
「そういうものなのですか」
冗談めかしたセピアとは対照的に、フリージアは感心したように頷いている。見かねて口を挟んだ。
「そんなことより、先に謝るべき相手がいるんじゃない?」
「ん?」
「フリージアさんのことだよ」
「ああ」とセピアは勢いよく頷くと、これ見よがしに両手を合わせた。
「お嬢、わるいな。あのときは俺も必死だったんだ」
その芝居がかった謝罪にも、フリージアの口元がふっと緩んだ。
「今日は許してあげます」
♦︎♢♦︎
♧
いつものフリージアならひとこと二言は文句を言ってくるはずだ。
なのに今は、どこか機嫌が良さそうに見える。
逃げ回っている最中、踊る二人の姿が目に入っていた。
人前であんなにはしゃいで踊るなんて、あいつららしくねえと思って眺めていたが――。
もしかして、俺……空気読めねえことしたか。
「ムギ駄目だろ!
お客さんが来る日は厩舎にいるようにって、あれほど言ったじゃないか」
小声ではあるがジュナの声にははっきりと怒気が滲んでいる。
ムギは耳を寝かせ、叱られた犬そのものの顔で俺を見上げてきた。助けを求めているのか、それとも俺が勝手にそう見ているだけなのかはわからない。だが放ってはおけず、口を開いた。
「あー……ジュナ様?」
「何?」
ムギへ向けていた怒り眉のまま、ジュナがこっちを向く。
「あー……なんで大将は令嬢たちの前でムギって呼んでやらなかったんだ? あいつ、尻尾振って待ってたじゃねえか」
ムギへの怒りを逸らしたかっただけだ。人形に名を付けるなんざ、世間では眉をひそめられる行為だ。令嬢の前で口にしなかった理由なんて、聞くまでもねえ。
「そこから説明しなければならないのですか?」
人を諭すようなあのお節介な口ぶり。
癪に障って、フリージアに言い返す。
「んなこと、わかってる。
人形に名付けるのは世間体が悪いってことだろ?」
フリージアは目を丸くした。
「違います」
短く否定してから、困ったように眉を寄せた。
「まさか、本当にご存じないのですか?」
俺の出自を思い出したのだろう。さっきまで俺を咎めるようだった目が急に気まずそうに伏せられた。
「人や物に名を与えることは、命を削る行いなんです。だからそう易々と他人へ教えるものではありません」
また上の連中の理屈か。
そんな建前を振りかざして俺を諭した気になっているフリージアを見ていると、ますます腹が立った。
「くだらねえ。
お前はそんな迷信、鼻っから信じてねえんだろ?」
「迷信ではありません」
フリージアはきっぱりと言い切った。
「名付け師の平均寿命は短く、名を与えれば与えるほどその方の寿命は縮むとされています」
本気で言ってるのか。カリオンの件もあったってのに、まだ上の連中の理屈に踊らされてるのか。
あえてフリージアを見据え、鼻で笑ってみせた。
「俺に名を付けた爺さんは今でも元気だぜ?」
「それは……」
フリージアは言葉を詰まらせた。珍しく視線が揺れる。
「なんだよ」
しばらく迷った末、口にすること自体ためらうように、さらに声を潜めた。
「高位の存在に名を与えた場合、その負担はさらに大きくなると言われています」
「高位だぁ?」
「爵位や教会の位階です。相手が高位であるほど、代償も大きくなると言われています」
今度は腹を抱えて笑ってやった。
「人の命に上も下もねえだろ。そんなもん、上の連中が都合よく作った理屈だ。そこらの信徒じゃあるまいし、そんな話まで鵜呑みにすんなよ」
「いいえ。これは事実です」
取りつく島もなくフリージアはそう言い切りやがった。
「そんなもんが本当なら、なんでジュナはそんなリスクを背負ってまで龍造犬に名を付けたんだよ」
それが喉まで出かかったが、寸前で飲み込む。そこを突くのはさすがに野暮だ。
俺は呆れてフリージアからジュナへ視線を移した。こいつなら、あの堅物よりは話がわかると思っていたが……奴もまた生真面目な顔で黙っている。
「マジでそんな話信じてんのかよ」
ジュナはすぐには答えず、庭へ目を向けた。
「この話はここでするべきじゃない」
いつの間にか、客たちが夜風を求めて庭へ流れ始めている。
「人目が増えてきた。続きは人のいないところで話そう。僕も二人に話したいことがあるんだ」




