57 -饗宴――杯中①
「あら、これは失礼しました」
そう言ってゆっくりと頭を下げる。
「ティシア・エスキュラスと申します。セピア坊がずいぶんお世話になっているようで」
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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア
57 -饗宴――杯中①
♤
入場の際に紹介されたのは伯爵位以上の来客だけで、彼女がセピアの祖母だと知ったのは今が初めてだったのだ。
「セピアの祖母君でしたか。
こちらからご挨拶すべきでしたのに、失礼をお許しください」
「やめてくださな」
「そんなことはありません。彼といると自分では気づけなかったことをたくさん知れるんです。いつも新しい発見ばかりで……だから、お祖母様にもご挨拶したくて」
ティシアは心から嬉しそうに微笑んでくれた。
「ジュナ様はほんとうにお優しいですね。
そのようなお人なら、きっと水晶も黄煙に変わられたのではありませんか」
穏やかな笑みを向けられ、思わず頬が緩む。
だからこそ何の疑いも抱かず答えようとして――
「待ちなさい!!」
鋭い声が会話を断ち切った。
振り向けば、先ほどまで談笑していた神官が血相を変えて駆け寄ってくる。
「エスキュラス殿! 龍の子に関すること、学院内部のことは秘匿事項です!
そのような話を軽々しく口にされてはなりません」
「あら、ごめんなさい」
ティシアはぱちりと目を瞬かせた。
「このような場にはあまり慣れておりませんので。つい口が滑ってしまいました」
「発言には十分お気を付けください。最悪の場合、拘束されることもあり得ます」
神官は首元を撫でるような奇妙な仕草をしながら、誰かに聞かれることそのものを恐れているかのように落ち着きなく周囲へ視線を走らせた。
もちろん学院の話が秘匿事項であることは知っている。変煙水晶についても公の場で軽々しく語るべき話ではないが、それにしても反応が過剰に思える。
父クラウン・バロバロッサの水晶が黄煙だったことも公式に発表されたわけではないが、それでも社交界では半ば周知の事実になっている。
「あらあら。ごめんなさい」
そう言う彼女もまた妙だった。
叱責されたはずなのに、どこか機嫌が良さそうに見える。
「ジュナ様、お邪魔いたしました。私はこれで」
柔らかな会釈とともに踵を返す。
「これからもセピアと仲良くしてあげてくださいね」
そう言い残し、人混みの向こうへ消えていった。
「ジュナ様。エスキュラス殿とは、他に何か話されておりませんね?」
彼女の姿が見えなくなるのを待っていたかのように、神官が一歩詰め寄ってくる。
「学院の話は何も」
そう答えると、神官の表情からわかりやすく緊張が抜けた。
「ご存知のこととは思いますが、学院に関わる事柄は全て秘匿事項です。
ご家族であっても例外ではありません。どうかご留意ください」
「わかりました。ご忠告、感謝します」
本当は説明されるまでもなく理解している。
それでも神官の切迫した様子を見ていると反論する気にはなれなかったし、正直なところ、この話題からは早く離れたかった。
神官の言葉を聞き流しながら何とはなしに周囲へ目を向ける。
いつの間にか楽団の奏でる曲調は変わり、穏やかな歓談のための音楽は舞踏のための華やかな旋律へと移っていた。
誘われるように中央の広間へ集まり始める人々を、自分は神官たちに囲まれたままぼんやりと眺めている。
兄たちも、ルミーも、あの輪の中にいる。
自分はあの輪の外側にいる存在だと理解しているつもりだった。
ぼんやり眺めているうちに、いつの間にか腕がわずかに持ち上がっている。
我に返り、慌てて手を下ろした。
「ジュナ様!」
飛び跳ねるような声にはっと視線が引かれ、人混みの向こうへ意識が滑っていく。彼女の頬はわずかに紅潮し、その瞳には見覚えのある強い光が宿っていた。
「私と踊っていただけませんか」
迷いなくその手が差し伸べられる。
♦︎♢♦︎
♡
「父上。この件については他言無用でお願いいたします」
「アグラスにも伏せるつもりなのか?」
「はい」
「フリージア、お前には……苦労をかける」
饗宴の前日に執務室で交わした父との会話が頭から離れない。
予感がなかったわけではありません。
むしろそうなる可能性は以前から考えていましたし、父の立場を思えば当然の判断だとも理解しています。
だからこそ、受け入れられるはずなのです。
いいえ、違います。
これは受け入れなければならないことです。
それなのに……私は未だ窓辺から動けずにいました。
今は同年代の親交の席です。本来であれば皆さまと交流しなければならないのに、こうして窓辺に立ち尽くしています。
頭では早く戻らなければと思うのです。
この程度のことで立ち止まっていてはいけないとも。
それなのにどうにも足が動きませんでした。
何度も自分に言い聞かせているはずなのに、認めてしまえば、もう二度と同じ未来を見ることはできない。
そんな思いが頭から離れないのです。
これからも食事には困りません。
寝る場所もきっとあります。
明日から突然生きていけなくなるわけでもありません。
それなのに……
幼い頃から追い続けてきたものが消えてなくなってしまう。
手を伸ばすこともできなくなってしまう。
「大丈夫ですか?」
不意に声を掛けられ、そちらへ振り返りました。灯りが細かく砕けるように揺れて、視界の輪郭がうまく定まりません。
何度か瞬きをして、ようやく相手が誰なのかわかりました。
ジュナ様。
そう思った瞬間には、もう頭を下げていました。
なぜこのタイミングなのですか。
今の姿だけは、絶対に見られたくなかったのに。
失礼は十分承知の上です。それでも私はその場からすぐに離れてしまいました。
♦︎♢♦︎
♡
バロバロッサ辺境伯による開宴の挨拶が始まる頃には、龍の子としての振る舞いを取り戻していました。
求められるままに応じ、龍の子として相応しい言葉と態度を崩さない。
いつも通りです。
それでもこのような大規模な社交の場は初めてだからでしょうか。
一日中鍛錬を続けても苦になったことがないのに、今日は妙に気疲れしてしまいます。
幸い、開宴の挨拶を終えたあとは各々自由に歓談を楽しんでいるようでした。
それを言い訳にするように私はそっと人の輪を抜けます。
大広間の一角にある庭へと続く硝子扉に手を掛けました。
静かに押し開くと、冬の外気が火照った頬を冷ましてくれます。吐く息は白く染まり、胸の奥に澱んでいたものまで冬空へ溶けていきました。
それにしてもさすがはバロバロッサ辺境伯のお屋敷です。
大広間の右手に広がる庭園には、聖都で流行しているという龍石仕掛けの噴水が据えられていました。たしかティアナの話では、龍石に刻まれた印によって水の形が変化し続けるのだそうです。
宙に浮かぶ水は絶えず姿を変え、あるときは動物となり、あるときは魚となり、またあるときは鳥となって夜空を泳いでいます。 龍灯から放たれる乳白色の光を受けて揺らめく水の獣たちは、どこか現実味がありません。
……だからなのでしょうか。
私はただ、その光景に見入ってしまいました。
どれほどそこで時間を過ごしたのでしょう。
ふと時間が気になり、窓越しに大広間へ視線を向けます。
すると、神官たちに囲まれたジュナ様の姿が目に入りました。
今日はもうお会いしたくありません。あのような失礼を働いたのです。合わせる顔など、私にあるはずがありません。
それなのに私の視線は意に反してジュナ様へと向いてしまいます。
ジュナ様は神官たちに囲まれながら言葉を返しています。けれど、その視線は別の場所へ向けられていました。
楽団の奏でる音楽に合わせ、中央の広間では人々が踊っています。ジュナ様の見つめる先には兄君であるレオン様やディナミス様の姿がありました。それぞれ淑女を伴い、談笑しながら輪の中に加わっています。
神官たちに囲まれたまま、その瞳だけが、大切な宝物を探すように人々の輪を追っていました。
自分には関係のないものだと。最初から手の届かない場所なのだと。
そう言い聞かせているように。
それなのにジュナ様の右手がわずかに持ち上がっていました。
本人ですら気づいていないその手は、ご家族のいる輪へと伸びていました。
それを見た瞬間——
胸の奥で燻っていたものに火がついたようでした。どうしても黙っていられなくなったのです。
気づけば私は走り出していました。考えるより先に足が動いていたのです。
「私と踊っていただけませんか」
私はジュナ様の前に立っていました。




