56 -饗宴――宴席②
指先で欄を追うと、ニコマコス公爵ポシルジ卿の名はある。
だが――
「カリオンがいない?」
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56 -饗宴――宴席②
♤
「ニコマコス家のご子息のことか?」
書類から目を上げたレオン兄さんが、わずかに居住まいを正した。
「は、はい」
「その方なら、すでに故人だ」
さも当然のことのようにそれだけを告げると、レオン兄さんは再び書類へ目を落とした。
「故人? カリオンが死んだとおっしゃるのですか」
思わず机に手をつく。兄さんと真正面から視線がぶつかるほど身を乗り出していた。
「雪月に入る頃だ。
龍呪に侵されたと聞く。ポシルジ卿も否定しておられない」
「癒しの力でも治せない、あの病ですか」
あの男の生き方を思えば、龍神の裁きを受けたと言われても不思議ではなかった。
龍呪——
それは龍の子の“癒しの力”をもってしても癒すことのできない病であり、理から外れた在り方を重ねた者に対し、龍神の裁定として現れる不可逆の現象とされている。
龍呪に侵された者の最後は皆、生への執着を失い、自らの手で己の首を絞めることになる。
なるほど、と一度は思いかけた。
だが一つの疑問が湧いて出る。
たとえ龍呪に罹っていたのが事実だとしても、なぜポシルジ卿はあえて否定なさらないのだろう。
龍呪による死は、故人だけでなく家の名誉にも影を落とす。
徳を失ったから龍神に見放され、生を投げ出した。
心ない者たちはそう囁くだろう。
まして公爵家の子息だ。隠そうと思えばいくらでも隠せたはずなのに。
わざわざ龍呪だと知らしめる理由が見当たらない。
「どうしてポシルジ卿は否定なさらないのです?」
レオン兄さんの筆は止まらなかった。
「今は開宴前だ。その話が饗宴より優先される理由があるなら聞こう」
「……ありません」
それ以上は何も言わず、決裁書へ署名を記す。
控室の外では、使用人たちが慌ただしく廊下を行き交い、ルミーたちの指示が絶え間なく飛んでいる。開宴を目前に控えた慌ただしさが、この部屋にまで流れ込んでいた。
胸の奥に沈んだ疑問は消えない。それでも無理やり思考を脇へ押しやる。
今は、饗宴に集中しなければならない。
♦︎♢♦︎
♤
招待客たちを迎え入れる玄関ホールの奥、数段の框――緩やかな上がり段の先に大広間がある。
一段高く設えられたその入口に立つと、玄関ホールの様子がよく見渡せた。
祈念の饗宴だけあって、玄関ホールは大勢の招待客で賑わっている。
調光によって引き上げられた龍灯の光が部屋の隅々まで広がり、行き交う人々の姿をくっきりと浮かび上がらせる。
きらびやかさが増すほどに、どうしてだろうか。人の顔よりも、その人がどの立場にいるのかの方が、先に目に入ってしまう。
正装の招待客たちは各所で談笑を交わしているが、目を向けるたびに似た立場の者たちが固まっているように見えた。
その間を使用人たちが慌ただしく縫うように行き来し、さらに新たな来客も次々と加わって、場の熱は増していく。
そんな中、玄関ホール脇の通用扉が開き、誰よりも見慣れた背中がそこに現れた。
——サルウィンだ。
彼は大広間の入口脇に据えられた青銅の儀礼鐘を預かる使用人に何事かを告げると、やや遅れて鐘の音が響いた。
それを合図に楽団が演奏を始める。
賑やかな空気は途切れないまま、しかしわずかに質を変えた。空気がびりりと震えたような錯覚が走る。
バロバロッサ家の者たちだけが示し合わせたように気配を引き締めた。
そしてその流れのまま、入口に一人の男の姿が現れる。
「ポシルジ・ニコマコス公爵閣下、ご入場でございます」
先触れの声が響く。
その姿を認めるや否や、招待客たちは示し合わせたわけでもないのに中央を空けた。
ポシルジは当然のようにその道を進み、框を上る。
「遠路はるばるようこそお越しくださいました、ポシルジ卿。どうぞ今宵はごゆるりとお楽しみください」
クラウンが恭しく迎える。
「どうも、クラウン君。今日は楽しませてもらうよ」
クラウンが笑みを浮かべて両手を差し出し、ポシルジは片手を差し出して応じた。
しばし儀礼的な挨拶を交わした後、ポシルジの視線がこちらへ流れてきた。
「キミが、龍の子ジュナ君か」
「……はい」
何かを言おうとしたが、カリオンの顔が脳裏をよぎったとき、言葉は喉の奥で止まってしまう。
結局何も言い出せずにいると、ポシルジが口を開いた。
「不出来な倅が世話をかけたそうだね」
感情の見えない声だった。
まるで他人事を語るように、ポシルジは言葉を続ける。
「まさか、我が家から龍呪に侵されるような者を出してしまうとは」
ポシルジはそこで初めて口元を緩めた。
一度だけクラウンへ視線を流す。何かを確かめるような間のあと、その目は再びこちらへ向けられた。
「感謝するよ、ジュナ君」
「……え?」
意味が分からなかった。
「君のおかげで、思わぬ収穫があった」
それだけを言うと、ポシルジはクラウンとの会話へ戻り、何事もなかったかのように大広間へ歩み去っていった。
その後も先触れの声は途切れず、次々と招待客たちが大広間へと案内されていく。
ジュナは人形のように次々と向けられる挨拶に応じていた。
先ほどの言葉が頭から離れない。意識だけが、まだポシルジ卿の前に取り残されたままだった。
♦︎♢♦︎
♤
バロバロッサ邸の大広間は、饗宴の夜になると昼とは別の顔を見せる。
昼間には重厚さばかりを感じさせる石造りの空間も、今宵は無数の灯火によって輪郭を曖昧に溶かされていた。高い天井から幾層にも吊り下げられた龍灯は、まるで金貨を砕いて撒いたような輝きを降らせ、その光が磨き抜かれた黒曜石の床を滑っていく。
床は鏡面のように磨き上げられ、招待客たちの顔や、裾を翻す貴婦人たちの姿までも映し出していた。深紅の幕布も、柱を彩る白百合と蒼花も、銀細工の燭台に並ぶ龍石も、その光の中で存在を競うように輝いている。
甘い花香と酒精の匂いが混ざり合い、広間全体を薄い熱気で満たしていた。
楽団の奏でる弦楽が高い天井へ吸い込まれ、談笑の声が絶え間なく重なっている。
華やかだった。
ただ、ジュナにとっては見慣れた種類の華やかさでもある。
辺境伯家に身を置く以上、この手の宴席は避けられない。中央貴族の使者、軍の高官、商会の代表。誰かしらを招いては酒宴が開かれ、そのたびに屋敷はこうして着飾る。
だから驚きはしない。
——今日はいつもより少し派手だな。
せいぜいその程度だった。
父上の開宴の挨拶が終わり、杯を交わしたあとはいつも通りだ。
ジュナは龍の子らしく、余計な注目を集めないよう振る舞いながら、日頃世話になっている王立学院の教師たちと当たり障りのない話を続けていた。
ようやく話が一段落した頃。
「こんばんは、ジュナ様。ようやくお会いできました」
声をかけられて振り返ると、そこに立っていたのは一人の老婆だった。
名家の夫人たちは競うように上質な礼装を纏っているが、そんな中、彼女の装いは控えめに見える。年季の入った深緑のドレスは流行を追ったものではなく、飾り立てるためのものでもない。
それなのに不思議と見劣りはしなかった。
歳月の刻まれた顔で屈託なく笑う。その笑顔は宝石の輝きよりもよほど目を引き、こんな歳の取り方ができたらいいな、と素直に思える人だった。
「すみません、お名前を伺っても?」
「あら、これは失礼しました」
そう言ってゆっくりと頭を下げる。
「ティシア・エスキュラスと申します。
セピア坊がずいぶんお世話になっているようで」




