46 -澱を底に残した日常♡
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【第一章】
因果は巡り、薙ぐは定め。
——それでも花は咲くのだろうか
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わたしたちは
同じ風を選び
同じ高さで羽を打った
朝の雲のあいだを
夕の光を背に
影はいつも二つ
地面に並んでいた
それで
足りていた
ある日
名のない地の
名のない水辺に降りた
何が起きたのか
今は
名づけない
ただ
振り返ったとき
そこに
あなたはいなかった
探さなかった
呼ばなかった
わたしは飛ぶ
かつて二つだった影を
一つぶん
抱えたまま
空を測り
風を確かめ
季節を越えてゆく
そんなある日
白い羽根が一枚
落ちていた
拾わなかった
呼ばなかった
ただ
そこに在ると
知っただけ
水面に映る影が
ほんの一瞬
二つに分かれる
それで
足りていた
わたしは今日も飛ぶ
同じ空を
まだ
選んでいる
いつか
同じ空を
そう
思えるあいだは
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46 -澱を底に残した日常♡
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「フリージアまるでなっていない。
もう一度、最初から読み直しだ」
薄紅の髪をかき上げ、兄はこれ見よがしに大きなため息をついた。
その仕草ひとつで、こちらの努力が無に帰したような気分になるのだから、たまったものではありません。
何度も繰り返されてきたことですが、私はこの手の愛の詩にほとんど興味がありません。
けれど兄は、少しでも時間が空くたびに私を自室へ呼びつけ、こうして愛の詩を朗読させるのです。
「……兄上、これで五度目ですよ。そろそろ勘弁してください」
「勘弁? 何を言っているんだ。これはフリージアのためを思ってやっていることなんだぞ」
兄は声を強め、諭すように指を立てました。
「いいか。年頃の娘というものは、こういう詩を好むものだ。
愛の詩ひとつ知らずに、どうやって同世代の娘たちと打ち解けるつもりなんだ?」
……もっともらしい理屈ではあります。
ですが、兄の考えていることはおおよそ察しがつきます。
兄は火竜騎士団の師団長という立場にあります。
もしも自分が愛の詩を好んでいるなどという噂が立てば、体裁が悪い——そう思っているのでしょう。
だから私を盾にして、愛の詩の朗読会を開く。
実に兄らしい回りくどい自己防衛です。
……まったく。
愛の詩を愛する師団長がいたって、別に構わないではありませんか。
「何か言ったかい? フリージア」
「いいえ、何も。ただ少し回りくどいとは思いました」
「なるほど。フリージアはそう受け取ったわけだ」
私の言葉を詩そのものへの感想だと受け取ったのでしょう。
兄は一拍置き、今度は自ら詩を読み上げます。
兄は風の通り道を追うように、一音一音を丁寧に運んでいます。
私ならどうしても声がつまずき、言葉に引っかかってしまうでしょうに、兄の声は空間を滑るように流れていくのです。
読み終えても、兄はすぐには口を開きません。
私がじっと見つめているせいでしょうか、間の悪さに耐えきれなくなったのは、どうやら兄の方のようです。
「――この詩はな」
そう前置きして、ほんの少しだけ声を弾ませます。
「ファーネスの演劇で使われた詩なんだ。
身分の違う二人が出会って……恋に生きようとしたが、結ばれはしなかった」
それでも、と兄は言葉を継ぎました。
「共に過ごした時間を否定せず、別れを受け入れて――
なお相手を想い続ける。
……なんとも誠実で、切ない詩だろう?」
語り終えた兄の瞳は、光を含み恍惚とした色を帯びて見えました。
何度も言いますが、好きなものを誰かと共有できるあの高揚感はかけがえのないものです。
だからでしょうか。
こほん、と咳払いをし、今さら思い出したように顔を赤らめて照れを隠す兄の態度を見ていると、
それはそれで自分自身に対して不義理なのではないか。そんなことを考えてしまうのです。
もっと堂々としていればいい。
兄はそう振る舞うに、十分すぎるほど相応しい人なのですから。
そして――ジュナ様もまた。
緘黙令が敷かれて以降、ジュナ様は授業以外の時間を自室で過ごされ、私との会話をどこか避けておられるように見えます。
けれど。
カリオンの悪事を止め、子どもの命を救ったのは、ほかでもないジュナ様の力です。
称えられて然るべき功績です。
胸を張り、堂々と立っていていいはずなのに。
……それなのに、なぜ。
角に身を潜めるような選択をなさるのですか。
ご自身がなした選択に背を向けているように見えます。
それは本来、誇るべきもののはずです。
それなのに——なぜ、罰を受ける側に立とうとなさるのですか。
「フリージア?……お腹でも痛いのか?」
「そんなことありません。どうしてそう思うのですか」
兄が眉を下げ、こちらを覗き込んできます。
あまりに呑気なので、思わず睨み返しました。
「なら、怒ってるのか?
眉間に皺が寄ってるから……その……僕、なにかやらかしたかな?」
「兄上も、ジュナ様も卑怯です」
「え?」
兄はひどく間の抜けた顔をしました。
それがどうしようもなく腹立たしくて、胸の奥が一気に熱くなります。
「二人とも、根性なしの卑怯者だと!
そう言っているのです!」
そのときでした。
扉の向こうから、控えめな声がかかります。
「アグラス師団長。
……そろそろ、バロバロッサ邸での催しに伴う警護の件、打ち合わせの時間です」
「ああ、わかった。すぐに向かう」
兄はそう答えると、こちらを振り返らないまま立ち上がり、
「じゃあ、僕はこれで」
その足取りは不自然なほど静かでした。
床を踏むたび、音が出ないかを確かめるように一瞬立ち止まり、次の一歩を、これでもかというほど慎重にそろりと運んでいくのです。
「兄上。
打ち合わせ、始まってしまいますよ」
――ごつん。
肩をぶつけ、慌てて扉を開けると、兄はそのまま逃げるように退出しました。
その背を見送ったあと、私は視線を窓の外へと逃がしました。一人になった部屋には、冬の冷たい風が窓を打つ音だけが残ります。
カリオンの件から、あっという間に雪月の休暇を迎えていました。
ひと月あまり、学院も聖焔教会も、雪月の祈念の期間に合わせて門を閉ざします。
選任された神官のみが参集し、来年の豊穣を願って祈りを龍神に奉告する秘儀が粛々と執り行われるのです。
そのため私は今こうして実家へ戻り、兄の部屋の椅子に腰を下ろしながら、一年でいちばん冷たい雪が降る外をただ眺めています。
正直に言えば、気味が悪いほどの静けさでした。
緘黙令によりカリオンの件は外部へ漏れておりません。
事実、兄ですらその詳細を知らないのです。
それだけでもこの措置が厳格に機能していることは明らかでしょう。
ですが……本来この緘黙令は、カリオンの保護を目的としたものです。
それにもかかわらず、当の本人は一度として教会に姿を見せていません。
噂では聖都へ戻ったとか、 『癒しの力』で癒せない病に伏しているとか、 どれも確かな裏付けのない憶測ばかり。
あの男のことです。
何かしらの報復を企んでいるだろうと身構えていたのに、本人は姿を消していまも消息を掴めていません。
ふと、窓を叩く音が耳に残りました。
窓ひとつ隔てた向こうでは昨年植えられたばかりの烏羽の庭木が、容赦ない風にあおられ、なすがままに揺れています。
なぜかその光景から目を離せません。
表向きの秩序はいまも保たれています。
それでも水面下で何か良からぬものが芽吹きつつあるような、言い知れぬ違和感が拭えません。
……ジュナ様。セピア。
どうか、何事も起きていなければよいのですが。




