36.心の錆び
ビーグル、そして依頼した荷物と人を待つために山の中に小さな簡易テントを張りロゼたちは山で一夜明かすことになった。あまりに小さいテントに大人三人とロゼの合計四人全員が入れるはずもなく、フラミンゴとガナッシュが外で寝ようとしたところ「私ももう少し山に触れたいから」とロゼはテントに入らなかった。仕方なくフラミンゴがテントに入りボッツと酒を酌み交わす。
「なにしてるの?」
膝を抱え屈んでいるロゼは木の枝で地面に穴を掘っていた。「アリを探してるんです」ぐりぐりと二十センチほど穴を掘ったところで枝が折れた。「あ」と声を上げたロゼはその枝を抜かない。刺したままランタンの火を頼りに小さな穴をじっと見つめる。
「アリを探してどうするの?」
「地上に動物が見当たらないので土の中にはいるのかなって思って。アリは土の中で生活しますから土壌の環境に敏感なんだそうです。・・・うー、出でこないな」
ロゼは刺さった枝を引っこ抜く。「ま、いっか。咬まれたくないし」掘り出した土をまた穴に埋めて表面をならした。そしてガナッシュに振り返り、ガナッシュの隣にある椅子代わりに拾ってきた丁度いい石の上に座る。距離を詰めるようにガナッシュがロゼの隣に寄った。
「ロゼは色んなことに詳しいよね。おばあちゃんから習ったの?」
「そうですよ。おばあちゃんは森を守る魔女だったので」
「森を守る魔女・・・。ロゼも?」
「私は違いますよ。だって、おばあちゃんも魔女のフリしてるだけだって言ってましたから」
ロゼは膝を抱え前後に揺れる。ゆらゆらと揺りかごが揺れるように。
「おばあちゃんは若い頃、道を歩けば誰もが振り返る、微笑めばその男性にプロポーズされるくらい絶世の美女だったそうです」
「へえ、そうなんだ」
「ぜーったい嘘ですよ。おばあちゃん声汚かったし」
「こら」
ガナッシュがロゼの頭を指でコンと叩いた。ロゼは口を開けて笑っている。
「その中で、ものすごくしつこい男の人がいて、その人から逃げるために森の中に入ったそうなんです。そしたら遭難しちゃって森から出れなくなったんですって。か弱い繊細な絶世の美女は二日も持たず死にかけたみたいで・・ふふっ」
「ロゼ、笑いを抑えられてないよ」
「その時に森に住む魔女に助けられたそうです。擦り傷に薬を塗ってもらって、美味しい野菜やキノコや木の実をたんまり食べさせてもらって、お礼を告げて帰ろうとしたら「帰すために生かしたわけあるか」って魔女は帰してくれなかったそうです」
「こわ」
「おばあちゃんは必死に逃げたみたいなんですけど、そもそも森の中で遭難した人が森から出れるはずもなく、そのまんま魔女に捕まってしまったんですって。それから仕事を引き継げと色んなことを叩きこまれたそうです。か弱い繊細な絶世の美女が・・・ぷぷっ、こわーい魔女にスパルタで」
「ロゼの話し方だと全然怖くないんだけど」
ロゼはまだゆらゆら揺れている。何となくガナッシュも同じように揺れている気がする。
「魔女は森を守るために住んでいたそうです。温かい土、冷たい川、息づく草木、柔らかい風、その環境を壊さないように、生態系を崩さないように、それは森を守るだけでなく人が生きることに通じると言って・・・・おばあちゃんに仕事を引き継いだ後「やっと死ねる!」とポックリこの世を去ったそうです」
「いい話してたはずなのに、俺のこと笑わせようとしてるでしょ」
「だって、そうおばあちゃんが話してたんですもん!それからおばあちゃんは魔女のフリをして森を守ってたんですって」
「ロゼは?ロゼもその仕事を引き継いだんじゃないの?」
「引き継いだつもりはないですけどね。でも、おばあちゃんは言ってました。人も自然も自浄作用がある。けれど、人も自然も病に侵されたら自分では浄化できなくなるから、その手助けをできるようにしなさいって。それがおばあちゃんの知恵袋だよって」
ゆらゆら揺れていたロゼが止まる。ひっくり返りそうになるほど頭を後ろに倒し真っ暗な夜空を見上げ「おばあちゃん、元気かなぁ」ポツリと呟いた。今日の夜空に星は一つも出ていなかった。雲が邪魔しているのだろう。
「転げちゃうよ」ロゼの背中を支えるようにガナッシュの腕が肩に回る。「あ、すみません」顔を正面に戻して姿勢を正すと身体を引き寄せられる。目の前にはガナッシュの首があり、頭の上には重みがあった。ガナッシュが顎を乗せている。
「ロゼのおばあちゃん、お会いしたかったな」
「おばあちゃん、人前に出るの嫌いでしたから居ても会ってくれなかったかもしれません。だから絶対に美女なんかじゃなかったんですよ」
「そこじゃないよ」
ガナッシュが笑うと振動が伝わってロゼの身体も揺れる。つられて笑ってしまった。
「ロゼはいつも楽しそうにしてるよね。いつもニコニコ笑ってて、周りの人たちも笑顔にして、すごい技術とか知識持ってるのに全然偉ぶらないし親しみやすさがあってさ、そういうとこホント好き」
「ぅえっ!?」
思わぬ発言が頭上から降り注がれ、しゃっくりみたいな裏返った声が出た。好きって、好きって言われてしまった。けど、それだけで動揺するのはおかしい。なぜなら自分も色んな人を好き好きいってるからだ。今のガナッシュは自分のそれと同じなように思える。ガナッシュだって好きな人は多いはずだ。セバスチャン然り、フラミンゴ然り。
「ロゼはサンジェルさんに引き取られてからずっと酒場にいたんでしょ?」
「そうですよ」
「いつも楽しそうにしてるロゼに聞くのも野暮だけど、何が一番楽しかった?」
「楽しかったこと?ですか?」
「うん。ロゼの思い出に触れてみたいから、よかったら聞かせて」
頭の重みが増す。ガナッシュが身体を預けているからだ。「楽しかった・・・というより、嬉しかったのは、ガナッシュさんからお花を貰ったときです」頭の重みに倣うように顔を伏せる。
「香水を作るのはとっても好きでした。蒸留させたり手で揉んだりしながら香りを想像して、容器に移したときにふわっとが香るのが好きでした。フラミンゴさんから香水を依頼されるようになって素材も持ってきてくれるんですけど、嵩張らなくて持ち運びがしやすい茶葉がほとんどで・・・生花を貰ったときは本当に嬉しかった」
「・・・そうだったんだ」
「ジェイミー夫人が喜んでくれていたのも嬉しかったです。自分が作ったものを使っているお客さんを見たのは初めてでしたから。あんなに上品な人が嬉しそうにありがとうって」
ロゼは俯かせていた顔を上げる。頭の上に乗っていたガナッシュの顔が離れ正面に下りてくる。
「すっごく、すっごく嬉しかったです。ガナッシュさん、ありがとうございます。私、ガナッシュさんに会えてよかった。幸せをたくさんもらいました。楽しいもたくさんもらいました。果報者です。だから、だからガナッシュさんも・・・幸せに、なってほしい。その、手助けが・・できたらなぁ・・なんて」
「すみません」恥ずかしくなって笑ってしまった。じっとしていられなくなって頭を搔く。ガナッシュを幸せにしたいなんて、なんておこがましいことか。そもそも身分が違う、立場が違う、持っているものが違う。自分にできることなんて、いつまでもずっと味方であり続けることくらいしかできないのに。
「・・・・・できてるよ、ロゼ。俺はずっと救われてるから」
声が近くなった。コツと額に額がぶつかる。前にも同じようなことがあった。前は逃げようとして身体を仰け反らせたらそのままベンチに倒れてしまった。さすがに地べたに寝転ぶわけにはいかない。ロゼは腹に力を入れ踏ん張った。「・・・踏ん張ってる」バレバレだった。
肩に回っていた手が頭を撫でるように優しく触れると顔が更に近づく。鼻同士が擦れる。ガナッシュの睫毛が目に刺さりそうでぎゅっと目を瞑る。逃げることはできない。
「おーい、そろそろロゼも仮眠とらねぇと明日ぶっ倒れ・・・」
「ぴゃあっ!!」
鹿が罠に嵌ったかのような奇声を上げてしまった。「ぴゃーっぴゃっぴゃ・・・」奇声を誤魔化すように変な歌を唄ってしまった。誤魔化せるはずもなく周りはしんと静まる。フラミンゴの沈黙が怖い。
「・・・・・・・・ガナッシュ君よ、ウチの娘に何してんのかな?」
「・・・・・・・・半殺しにあいそうなことを少々」
「俺はよぉ、ピアスの件も怒りが収まってねぇのよ。まさかロゼが耳に穴開けるとはなあ」
「申し訳ありません」
「お前の心情は汲んでるつもりだぜ?だがな?許せるもんと許せんもんがな?わかるよな?」
「重々承知しております」
ロゼから離れたガナッシュがロゼの頬を指でそっと触れると「殺されてきます」とフラミンゴに振り返った。
「ロゼ、サソリを漬けた酒を持ってくるんだ。明日に備えて精をつけねぇとな!」
本当に殺す気かもしれない。
**
翌日、朝一番に戻ってきたビーグルはとんでもない人物を連れてきた。ゲテモノを食べさせられ苦手な酒を飲まされ絶不調のガナッシュの蒼白い顔がみるみる歪む。「なんでいるんですか」目の前に仁王立ちするファルガに言った。
「俺がいちゃ悪いか?」
「ええ、とっても」
「病人みたいな顔しやがって。足手まといはお前の方じゃねぇのかよ」
ファルガは「なあ?」と後ろを振り返って声をかける。ファルガの後ろにはセバスチャンやローウィンはおろか、一体何人いるのか数えきれないほどの坑夫がおり「おうよぉ!」と重なった声は獰猛な動物の鳴き声に近い。
「セバスチャンさん、来ちゃったんですか?」
「ええ。だって皆さんが山に入るのを許されるのでしたら僕もいいかなって」
「・・・なんで僕まで」
「ロウ、文句言ってんなよ。ゼイザックとセレスティアの世話を嫌がってるのはお前じゃねぇか。こっちは図体でかいテラの方がよかったのによ」
「当主殿は親父贔屓だよ・・・。どうせ僕は出来損ないの息子です」
ガッハッハと笑ってファルガはローウィンが吹っ飛びそうなほど強く背中を叩く。ローウィンとガナッシュは並んでファルガを睨みつけていた。
「ロゼ、ロゼどこだ?」
「はい?」
「・・・・んお?お前か?メット被ってたら誰だかわかんねぇな」
初めて相まみえるファルガはガナッシュに似ても似つかない。大きな声、乱暴な物言い、縦にも横にも大きな身体に、綺麗に整えられた口髭。口を半開きにしながらファルガを見上げるロゼに「不甲斐ない息子が世話になってすまんな。俺のことはファルガ様と呼びな」ファルガが握手を求める。ロゼはその手に自分の手を重ねた。
「一体、何人連れてきたんですか?先が見えないんですけど」
「ざっと二百だ」
「二百!?」
「仕方がないだろう?聖女様がよ、死の山を浄化するって話に坑夫共が群がっちまって、気づけばこれだけの数になった」
「はあ?」
顔を歪めているガナッシュの顔が更に歪む。顔を歪めたのはフラミンゴも同じだった。フラミンゴはビーグルを見る。ビーグルは人懐っこくにっこり笑い「だって本当のことじゃん?」悪びれることなく言ってのける。フラミンゴの蹴りが炸裂した。
「おっまっ!!あれだけロゼのことは言いふらすなっつってるのに!!」
「だって~!!説明のしようがなかったからしょうがないじゃん!!それに言いふらした張本人は俺じゃなくてあのおっさん!!」
「大公殿下になんて口の利き方すんだ!!」
フラミンゴはビーグルの腹に拳を突く。咄嗟に身体を後ろに引いたビーグルのダメージは軽い。
「聖女様って・・・セレスティア様いねえじゃん」
「真打は遅れて登場するっつーじゃん。俺らが道を整備したら馬車にでも乗って登場するんじゃねぇか?」
「いーやいや、お前たち。世界に名を馳せている聖女様がセレスティアだったとしても、ルイズベート家の聖女ちゃんはこの子なわけよ」
坑夫たちの声を遮ってファルガがロゼの肩をポンと叩く。驚いた顔をしたのは坑夫でなくロゼの方だった。ロゼは必死で首を横に振る。
「んで?ロゼよ。依頼されたものは集めた。どう使う?」
「え?っと」
ロゼはファルガから目を逸らしてガナッシュを見たがガナッシュはファルガを睨んでるだけでロゼを見ていない。フラミンゴもビーグルに説教中。ロゼはまたファルガに視線を戻した。「どうしたよ」豪快なファルガの相手をするのは自分しかいなかった。
「鉱山に入る手前の道が岩塊で塞がっているので、そこを退かしてほしいのと、排水を溜めている池に浄化槽を作りたいのでそこを掘る人の二手に分けてほしいです」
「ほうほう、よくわからねぇが二百人いるのを百ずつ分けとくか」
「よーしお前ら。穴掘るベテランモグラと石の撤去が仕事な下っ端ネズミに上手く分かれな」なんて不躾な言い方だろうか。「殿下~、チームに分かれろって言ってもらえません?」坑夫の一人が溜め息のように漏らした。「殿下言うなっつてんだろ。お堅いのは嫌いなんだよ」言葉と態度だけを見ればファルガとかいう大公殿下は本当に偉い人なのかロゼはわからなくなってきた。
「ボッツじいさん久しぶりじゃねぇか。まだお迎えが来ないんで?」
「ワシはあの世に嫌われとるようでの。死にぞこないはまだまだ殿下にお世話になりなさいと神のお達しじゃ」
「殿下言うなっつってんだろ。・・・ボッツじいさん、悪いが下っ端共の面倒見てくれねぇか。岩塊の撤去、じいさんだって指示くらいはできるだろ」
「ほんと、人を働かせるのが好きなお方じゃのぉ」
「じいさんだって働くのが好きだったろ」
「猫車にでも乗せて運べ運べ」ファルガの指示によってボッツはまるで荷物のように猫車に乗せられるとえっさほいさと運ばれてしまった。
「おぅディオ!ぼさっとすんな!坑夫たちと一緒に石運んでこい!」
「言われなくても」
「言われてから動いてる時点でお前の負けだ」
「いちいちうるさい」
「あんな奴は置いて溜め池んとこに行くぞ。ロウ、セバスチャンが咳一つしたら速攻連れて帰れよ」
「やった!セバスチャン様、今すぐ咳き込んでください」
「嫌ですよ」
「そこをなんとか!僕は力仕事嫌いなんです!」
「・・・ルイズベート家は変わり者が多いんだなぁ」
セバスチャンが漏らした声をロゼは聞き逃さない。同意するようにうんうんと頷いた。
岩塊の撤去はボッツとその他百人の坑夫たちに加えビーグルとフラミンゴが向かう。残り百人の坑夫たちとロゼ、ファルガとガナッシュとセバスチャンの王侯貴族三人と召使いのロウは山を下り溜め池へ向かった。自然に造られた川が人工的に造られた排水路と合流し、その先に沿ってどんどん山を下る。すると急に視野が開けて木が伐採された敷地のど真ん中に大きな溜め池があった。「・・・血の色」池の表面は赤黒い膜が張ったように小さく揺れている。
「溢れそうなぐらい溜まってんな」
「川は海へと流れるものですが、敢えて堰き止めたんですね」
「俺は海を愛してるからな。海さえも悲劇の犠牲にはしたくなかったんだよ」
ファルガが溜め池に向かって手を合わせた。ガナッシュもセバスチャンもローウィンも、そして百人の坑夫たちも手を合わせる。ロゼも同じように手を合わせた。
そして池の傍に近づくと前日と同じように薬包紙で箱をつくり、注射器の準備をした。ガナッシュがすすんで手伝う。それをファルガたちは眺めていた。黒っぽい液を零した折箱に、池の水を吸い上げた注射器から水を垂らすまでの一連の行動は前日やったものと同じだ。
「色が変わっちまいやがった」
「これ紫キャベツで作った液なんですよ」
ファルガの声にロゼが答える。赤く染まった紫キャベツの液体に今度は白い粉を入れた。元々持っていた石灰だ。すると赤かった液体が徐々に紫色に変化する。ファルガが口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。ガナッシュもローウィンもロゼの手に持つ折箱を覗き込む。「僕にも見せてください!」一番背が低いセバスチャンのためにロゼは手元を下げた。
「ここに流れる排水はとても強い酸性の水です。ならそこに真逆の成分を注いで毒を中和させましょう」
ロゼはぶかぶかのヘルメットのあご紐をしっかりと結び、その辺に転がっている石をつまんでその場にしゃがみ込んで絵を描きだす。
「実際に大きな浄化槽を作ったことがないので、やりたいことだけを説明しますね。まず山の傾斜に沿って穴を三つ掘って溜め池と繋げます。イメージは三段階で濾過する感じです。上から水を流し込んで、下に下りてくるまでに徐々に酸性の成分を薄めていきます。一槽目に石灰石を、二槽目に消石灰を、三槽目には生きたお魚さんを入れて様子を見ましょう。毒の中和ができているようでしたら更に濾過したり蒸留したりすればもっと綺麗な水に」
「あーあー、その先の説明は浄化してからにしてくれねぇか」
ファルガは顎に手を置き小さく唸ると「ゲイル、シュナイダー、理解したか?」ロゼが地面に描いたイラストを見ながら二人を呼ぶ。別地区の親方同士なのか他の坑夫にはない黄色の腕章を二人とも腕に嵌めていた。
「槽を作るくらいでしたら、そう時間はかからないかと思いますね。一日・・二日かな?」
「こっちはこれだけの量の石灰を使うとなると配分がな・・。製錬所で使う分がなくなるかもしれねぇ」
話を聞く限り穴掘り担当がゲイルで鉱物を扱う担当がシュナイダーのようだった。二人とも顔を見合わせて腕を組み、うーんと首を捻る。
「別に今日で終わらせろつってるわけじゃねぇだろ。ゲイル、槽作りは任せる。シュナイダーは後のことを気にすんな。足りなくなれば俺がまた買ってくるさ。製錬所に一旦戻るのならその前にボッツじいさんとこの様子見てきてくれ。ディオとロウは穴掘り手伝っとけよ。ロゼとセバスチャンは俺と魚釣ってくんぞ」
「自分だけ楽な仕事割り当ててませんか」
「俺は総監督なんだよ。仕事の指示をしながら進捗を見て次の作戦を練ってんの」
「物は言いよう」
「サンキュー」
ファルガは口髭をなぞり投げキッスのように手をガナッシュに向けた。体調も悪ければ機嫌も悪いガナッシュは今にも吐きそうな顔をしている。
ファルガに背中を押されロゼとセバスチャンは現場を後にした。「ちょいと歩くが港まで下りるか」大きな体格をしているファルガは二人を置いてさっさと歩くかと思えば歩幅を合わしてくれる。女の子のロゼに、そしてまだ幼く病み上がりのセバスチャンに。見た目や言葉遣いとは裏腹な優しさが滲みでている。
「お前たち、海は見たことあるか?」
「「ないです」」
「同時に言うなよ。そうか、海、知らねぇのか」
「僕はずっと部屋に引きこもってましたから」
「私は山育ちなので」
ロゼとセバスチャンが顔を見合わせてくすくす笑う。それを横目で見ていたファルガの表情が緩んだ。
「海って不思議だぜ。行っても行っても行き止まりがないんだ。ずーっとずーっと続く水平線の向こうに見たことのない世界が待ってる。そこは言葉も通じなければ肌の色も髪の色も目の色も違う人間がいて、山の色も空気の温度もまるで違うんだ」
「別世界なんですね」
「ああ、驚くほどな」
「言葉が通じないのにどうやって取引を行ってるのですか?」
「ジェスチャーで大体伝わる。あと形だな。人を見抜く能力が必要なんだ」
「私じゃ無理そう」
「僕も」
また二人が顔を見合わせて笑う。「仲良いな、お前たち」ファルガも嬉しそうに笑った。
「人ってのは難しいもんだ。俺は気が付けば海に出ていて、物流ってのが面白くて、文明が発展してく様に感動して、だけど、いつの間にか息子の気持ちは俺から離れていった」
「ファルガ大公・・・。」
「最初はアイツも俺の土産物を喜んでくれていたんだがな。けど、アネットに苦労をかけてる様を見抜かれて、ボワイア国との同盟に力を入れ始めたことにより国の方向性が変わったことも感じ取って、いつからかアイツは笑わなくなった。俺のことを売国奴だとでも思ってるんだろうな」
「そんなことは・・・。」
セバスチャンが口籠っては顔を伏せた。そのセバスチャンの頭をファルガが撫でる。「セバスチャンよ、無事でよかった。アイツに兄弟を授かれなかったことアネットはずっと自分自身を責め続けていた。一人では乗り越えられない壁がある。アイツが本当の意味で孤独を感じなかったのはセバスチャンの存在があったからだ。いつもアイツの心の中にいてくれてありがとな」セバスチャンの頭を撫でるファルガの手つきが優しい。セバスチャンは涙をこらえるかのように口を結んで何も言わなかった。
「そしてロゼ。お前には、何て言ったらいいのか・・・なんか諸々世話かけてすまねぇな」
「お世話ですか?」
「息子のことも妻のことも、国が抱える闇の部分すらも、お前が全部綺麗にしてくれる。錆びついた心の汚れを落としてくれる。・・・全て俺が穢したものだ。すまねぇな」
ファルガが眉を垂らし苦笑する。ロゼは首を横に振った。「穢れてるものなんて何一つありません。この国の人たちは全員心が綺麗です。きっとそれはファルガ様が磨いてきたものなんですよ。働き者で仲間想いで助け合うことを第一にしてる人たちを育んできたのはファルガ様ですよ。私、この国が好きです」ロゼの言葉にファルガは足を止めた。同時に横に並んでいたセバスチャンも足を止める。ロゼはそのまま一歩二歩先を歩く。
「・・・・・んだよ、嬉しいこと言ってくれやがって」
「ふふっ」
「笑うな、セバスチャン。あんな小娘の言葉に喜んじまって恥ずかしいわ。・・・でも、救われるって、こういうことをいうんだろうな」
「わかりますよ。僕も同じでしたから」
「ディオがいつにも増して俺のことを毛嫌いする理由がわかっちまったわ。・・・早まっちまったなぁ、結婚」
「あーあっと」開き直るかのような声を出したファルガは顔を引き攣らせながら笑った。




