第十九話 次の米
朝、桶へ水を注ぐ音で目が覚めた。
見慣れない梁が、頭の上を横切っていた。夜には煤けて見えた木の肌へ、戸の隙間から細い光が当たっている。隣で寝ていた庄吉は、もういなかった。
私は羽織っていた小袖をどけ、体を起こした。庭から、人の話す声がする。
「それなら、こちらから回った方が早いか」
「馬を連れていくなら、道が広いです。人だけなら、昨日の方でも」
庄吉の声だった。答えた相手の、少し低い声にも聞き覚えがあった。
慌てて帯を締め、戸を開けた。
庭の隅で、光秀が草鞋を見下ろしていた。紐の先を片手で持ち、片足を平たい石へ載せている。足元に屈んだ庄吉が、浜へ出る道のことを話していた。
会えれば紹介の礼を言いたいと思っていたのに、眠っている間に庄吉に先を越されてしまった。
「おはようございます」
土間へ下りて頭を下げると、光秀が顔を上げた。
「起こしたか」
「いえ。あの、米のことでは、父ともども」
「届いたそうだな。又八が喜んでいた」
光秀は足を下ろし、二、三歩踏んでみた。草鞋の具合を確かめているらしい。庄吉へ礼を言い、母屋の縁へ腰を掛けた。
薄い鼠色の小袖に、暗い藍の袴を着けていた。膝の辺りに、乾いた土が白く付いている。初めて会った田中でも、歩き回っていた人だった。会うたびに、どこかを歩いてきた跡がある。
「紙の方は、いかがでしたか」
「使っている。次も同じものがよい」
私は、持ってきた覚えを取りに戻りかけた。
「数は、まだ聞いていないぞ」
光秀に止められて足が止まった。横で庄吉が、声を殺して笑った。
「すみません。忘れぬうちにと思って」
「そのうち、また文を出す」
光秀は懐の辺りを押さえた。布で包んだ書状らしい角が、小袖をわずかに持ち上げていた。
いと殿が湯を運んできて、光秀に、朝の飯はどうするかと尋ねた。
「ここで頂いてよいか」
「又八に聞いて、お供の方の分も用意しております」
「それは、ほかへ行かれんな」
いと殿が笑い、炊事場へ戻った。
私は、その背を見送った。前もって分かっていれば、こんなやり取りで済むのだ。昨日聞いた台所の言葉を思い出したが、光秀は湯を一口含み、すぐに私へ目を戻した。
「米の相談は、済んだか」
「まだです。毎月、同じ数をお送りする話だったのですが、人の出入りが多くて」
「うむ」
「義秋様が京へお戻りになれば、こちらにいる方も、お供していくと伺いました」
光秀は椀を膝の前へ置いた。
「そうなる者はおろうな」
「その日は、まだ決まらないのですか」
「決まっておれば、わしも今日の用の組み方が変わる」
私は口を閉じた。光秀は、咎めたのではないというように、軽く手を振った。
「尾張へも、ほかの国へも、頼みが出ている。返事が届けば、その返事に合わせて、また人をやる。皆が同じ日に、同じように動けるわけではない」
「尾張の、織田様ですか」
「そうだ」
光秀が頷いた。
信長が義昭を京へ連れていく。前の世で知ったその一続きの出来事が、急に目の前へ来た気がした。
しかし、光秀の口から出てくるのは、まだ届かない返事や、これから出す使いの話だった。誰の返事があれば先へ進めるのか、私は知らなかった。京へ入る年さえ、すぐには思い出せない。
「織田様が動かれるまで、こちらで待つのですか」
「織田殿一人の都合で、京までの道が開くものでもない。通る国にも、京にも、こちらを迎えたくない者はおる」
光秀は、自分の草鞋の先へ目を落とした。
「文だけなら通る道も、人と馬を連ねて行けば、同じようには通れぬ」
庭の外で、馬の鼻を鳴らす音がした。
光秀は、その方を見た。私は昨日、田の間で行き交った人を思い出した。手紙を懐へ入れ、わずかな供を連れて通るのと、大勢で通るのとでは、村から見えるものも違う。
「十兵衛殿も、京へ戻りたいのですか」
聞いてから、仕事に踏み込みすぎたかと思った。
光秀は、すぐには答えなかった。椀の縁へ指を掛け、残っていた湯を飲んだ。
「京にしかできぬ用はある。そこで、わしの働けるところもあろう」
そう言って、椀を置いた。
「いつまでも、よその軒で文を広げておるつもりはない」
声に、わずかに強いものが混じった。
私はこの人を、困った者の脇へ屈み、話を聞いてくれる人として覚えていた。今、縁に座っている人は、自分が働く場所を求めていた。朝の土を付けた袴の下で、両足が地面を踏んでいる。
母屋の奥から又八が出てきた。光秀へ渡すものがあるらしく、手に包みを持っている。私は場所を空けた。
光秀は包みを受け取り、又八へ二つほど尋ねた。どちらも別の家へ出した使いのことだった。私には知らない名が出たので、庄吉のところへ戻った。
「何を話した」
庄吉が聞いた。
「京へ、いつ戻れるかということ」
「分かったか」
「分からなかった」
「じゃあ、こっちは帰りの舟を逃すなよ」
庄吉は、朝のうちに浜の者が荷を取りに来ると教えてくれた。その者と同じ道を戻れば、乗る舟を取り違えずに済むという。
*
飯のあと、昨日と同じ腰掛けへ、私と又八が並んだ。
いと殿は釜の火を落とし、ようやく手を空けた。昨日の覚えを板から外し、私の前へ置いてくれる。私は、毎月十俵と書いた紙を、その下へ重ねた。
「ひと月分を決めるのは、いったん置かせてください。まず次に買う分だけ、五俵で考えていただけませんか」
又八が腕を組んだ。
「少なくすれば、その分、また買いに行くことになる」
「はい。運ぶ回数も増えます」
「それが困るので、十俵の話をしたのだが」
いと殿が、昨日の覚えへ指を置いた。
「五俵なら、一斗五升出す日で十日分。それくらいずつ足すなら、人が去ったあとに多く残す心配は減りますね」
「運ぶ方は、また別なのです」
又八が答えた。いと殿も、それはそうでしょうと頷く。
私は、又八の顔を見て頷いた。
「銭をもらって出直すことと、次の米を探すことを、一度で済ませたいのですよね」
「そうだ」
「こちらへ来る前は、毎月の数と値が決まればよいと思っていました。でも、皆が発つかもしれないなら、買う方も約束しにくい。父も、買っていただくか分からぬ米を、長く同じ値で置くとは言えません」
又八は、膝の上の手を組み替えた。
私は、昨日の入荷の折に書いた二十五斗の数字を指した。
「こちらで米を見ておられる奥方から、次に買う時を知らせていただいて、そのときに、買ってよい数と値の限りが決まっていればどうでしょう。又八殿が坂本で父と話し、その場で買えるように」
「塩や薪なら、そうして使いに出すこともある。米は額が大きいので、そのつど、うちの殿に伺っていた」
「五俵なら、先に持ち出す銭も少なくできます。同じように任せてもらえないでしょうか。うちの値が高ければ、無理に買わずに戻るか、ほかで探す。使いに出る方が、どこまで決めてよいかを、先に伺っておくのです」
いと殿が、又八へ顔を向けた。
「使いにやった者が、銭がないと言って帰ってくることはなくなりますね」
「持たせる銭の話を、殿に通しておかねばなりませんが」
「それは、毎月十俵の話でも同じでしょう」
又八が頭を掻いた。
「違いない」
私も少し笑った。
又八は、自分が留守の日なら誰を使いに出すか考え始めた。先に書いた紙を読み、父の店で話ができる者。舟の用で坂本へ行くときに、米も見てこられる者。言葉を交わすうち、又八の指が、米の数字から日付の方へ移った。
いと殿は、いつ声を掛けるかを考えていた。
「今までは、残りが二俵ほどになれば頼んでいました。近くの家に分けてもらうなら、それで間に合いましたから」
私も紙を手元へ寄せた。
「湖の向こうからだと、その二俵では、少し心細いです。残り四俵になる前に、次の米の相談を始めていただけませんか」
「四俵なら、十二斗」
いと殿が言った。
「一斗五升の日が続いても、八日ですね」
「はい。使いが行って、米を買って、舟が戻るまでの間も、こちらでは毎日使います。父のところで米が揃わなかったら、また別の家を探すことになりますし」
又八が、朝見た空の方へ目をやった。
「風で二日、三日延びることもある」
いと殿は、自分の覚えの端に四俵と書いた。
「その日から急に泊まる方が増えたら、四俵あっても知らせますよ」
「そうしていただけると助かります」
日ごとの数を均せば、もう少し米を使ってからでもよいと計算できた。けれど、均した人数がここへ食べに来るわけではない。昨日の夕方にも、予定のなかった二人が門をくぐった。
私は、四俵の脇へ、人数が増える折は早く、と添えた。毎日、こちらの飯の覚えを丸ごと送ってもらう必要はない。次に買いたいと知らせるときに、今の残りと、人が増えたか減ったかが分かれば、急ぎ方を相談できる。
「五俵ずつでは、舟賃が重くなりますね」
いと殿が尋ねた。
又八は、しばらく考えてから頷いた。
「米だけで一艘出せば、そうなります。ほかの買い物の帰りに積めることもあるが、毎度そうはいきません」
私は、最初の十俵の数字を見た。どこも悪くないはずの注文を、細かく分ければ、それだけ仕事も増える。
「次の一度だけ、この形でお願いできませんか。運ぶのにどれくらい掛かったか、父にも聞かせます。その分が重すぎるなら、また八俵か十俵に戻して相談します」
「いつまでも五俵と決めるわけではない、と」
「はい」
いと殿が、紙を又八の方へ押した。
「まずは、それで。なくなりかけてから近所へ頼みに行くより、早く相談してもらう方が、私はありがたいです」
又八は立ち上がった。
「殿に聞いてくる。今なら、まだ座敷におられる」
又八は、この家の主人がいる座敷へ向かった。その背を見送りながら、米が要るたび、又八はこうして返事を聞きに行っていたのかと思った。その一度を減らせるかどうかは、座敷の返事にも掛かっている。
いと殿が、使った椀を重ね始めた。
「一つ、お願いしてよいですか」
「はい」
「次に持ってくる方にも、先の俵を奥へ押し込まぬよう、伝えてください。昨日の若い方は、出しておいてくれたので」
「庄吉です」
名が、先に出た。
「庄吉さん。あの方に言えば、分かりますね」
私は頷いた。自分の紙へ書き留めようとして、やめた。昨日の置き方なら、庄吉の方が覚えている。
*
又八が戻ってきたとき、光秀も出立の支度をしていた。
次の一度は五俵まで。米の値は一俵三百文を限りとして、その範囲であれば又八が買ってよいことになった。運ぶ費用は別に確かめる。それ以上の値になるなら、家へ戻って相談する。
父へ相談していない私の側には、まだ何の約束もない。坂本の店で売れるかどうか、戻って確かめ、返事を出すことにした。
光秀は、その話を聞くと又八へ言った。
「今度は、米を買わずに戻らずとも済みそうか」
「値が三百文を超えておらねば」
「それは、わしにはどうにもならんな」
又八が笑った。私も笑い、光秀へ紹介の礼を言った。
「父からも、くれぐれもと」
「父御には、米のことは米を見て決めてもらう。わしの顔で値を変えられては、次の者を紹介しにくい」
「はい」
返事をすると、光秀は、少しだけ口元を緩めた。
「よく聞く若者だとは、言っておいた」
「分からぬことも、よく聞く、と伺いました」
「違ったか」
私は、一晩ここへ泊まり、今朝も話を延ばしていたことを思い出した。
「違いません」
光秀が声を立てて笑った。
門口で別れると、光秀は供の者と、御所の方へ歩いていった。私は庄吉と浜へ向かった。昨日来た道を途中から外れ、家の背を回る細道へ入る。
「こっちでいいの」
「人だけなら、こっちの方が歩きやすい。さっき言ってただろう」
庄吉は、振り返らずに答えた。私は紙を入れた包みを抱え直し、彼の後を追った。
*
坂本へ戻った翌日、父は私の話を聞き、まず次の一度は相談に乗ると返事を書いた。
取り置きをしておく約束はせず、使いが来た日にある米と値で決める。次に来る使いが又八でなくても分かるよう、家の名と、五俵までの話を久蔵にも伝えた。
それから十日あまりして、矢島から人が来た。
又八の書付と、銭を持っていた。泊まる者が増え、米が四俵を下回りそうだという。私が書いて渡した紙の余白へ、今の残りが添えられている。いと殿が柱へ掛けていた覚えから、移してくれたのだろう。
父の店には、先と同じ米があった。一俵二百八十文で五俵、千四百文。使いはその場で買うと答え、銭を渡した。矢島へ戻って、もう一度父の返事を伝える必要はなかった。
書付には、庄吉にも来てほしいとあった。倉の置き方を知っているから、運び手へ伝えてくれると助かるという。
向こうの家が頼んだ舟には、ほかで買った品も載るという。米を載せる余地と浜の刻限、庄吉に頼む仕事とその手間を使いに確かめてから、父は庄吉を呼んだ。
「先の家へ、米を渡してきてくれるか」
私は、思わず庄吉を見た。
庄吉は父に、何俵かと聞き返した。五俵と聞いて、次に帰りの舟を尋ねる。先方の使いと話をしてから、父へ向き直った。
「行けます。前と同じところですね」
「ああ。運ぶ者は先方で手配している。お前は数と渡した相手を見届けてこい。手間は、ここから払う」
父が額を言い、庄吉が頷いた。
私は机へ戻って書付を用意した。家の名、五俵、米代を受け取ったこと。渡す相手と、向こうで受け取ってくる紙。書きながら、誰へ何を頼むのかを庄吉と話した。
「奥方に、先の俵が出せるように置いてくれと言われた」
「分かってる。あそこは、入り口の脇へ置けば出せる」
「それから、浜から家までの道だけど」
庄吉が私を見た。
言いかけて、口を閉じた。帰りに道を教わったのは、私の方だった。
「……雨が降ったら、気をつけて」
「ああ」
庄吉は紙を受け取り、書かれた家の名へ目を落とした。ゆっくり読んでから、懐へしまう。
私が立ち上がると、父が別の帳面を机へ置いた。
「宗助は、こっちだ。昼に来る客の米を、見ておいてくれ」
庄吉は門へ向かっていた。私は腰を戻し、帳面を開いた。
その翌日の夕方、庄吉が帰ってきた。
門の前で草鞋の泥を落とし、まず久蔵へ声を掛ける。私は店の奥から出ていった。庄吉の肩には、行きと同じ色の小袖が掛かっていた。片方の袖口が湿っている。
「どうだった」
「五俵、全部渡した。こちらが受け取った文」
差し出された紙を開くと、又八の書いた字があった。父も横から確かめ、頷いた。
「足りたか」
私が尋ねると、庄吉は、何が、と聞き返した。
「米。間に合ったのかと思って」
「まだ先のがあった。だから奥へ入れた。もう一つ、奥方から伝えてくれと言われたことがある」
私は筆を取った。
「何?」
「次は、昼飯の前に来るなら、二人で来るか一人で来るか、言っておいてくれって」
父が笑った。
「今日は、お前一人のつもりではなかったのか」
「宗助も来ると思っていたらしいです」
私は筆を置いた。米の数を書いた紙には、同行する人数を書いていなかった。
「余った飯は?」
「俺が食った」
庄吉が答えた。父がもう一度笑い、私もつられて笑った。




