第八章 ・ 共演
アレクシスがセレスタンであるという秘密を知った日から、数日が過ぎた。
ベルフォール侯爵家のサロンには、柔らかな陽射しが差し込んでいた。
リディアは両親の前に座り、膝の上でそっと手を重ねた。
「お父様、お母様。わたくし、アレクシス様にプロポーズされました。ぜひ、お受けしたいと考えております」
侯爵夫妻は顔を見合わせた。
「それは、おまえ自身が望んでいることなのだね?」
父アルベールの問いに、リディアは迷わず頷いた。
「はい。最初は、家同士が決めたご縁でした。でも、今は違います。アレクシス様と過ごす時間が好きなのです。あの方のことを、もっと知りたいと思っています」
セレスタンとしての彼も、アレクシスとしての彼も。
そのどちらも、これから先、ずっとそばで見ていたい。
そう思える人に出会えたことが、リディアには何より嬉しかった。
母エレノアは微笑み、娘の手に自分の手を重ねた。
「あなたがそう決めたのなら、私たちは応援するわ」
「ありがとうございます、お母様」
リディアはほっとしたように笑った。
胸の奥には、まだ驚きも戸惑いも残っている。
けれど、それ以上に、アレクシスと一緒に歩んでいきたいという気持ちが確かにあった。
◆
同じ頃、王都のヴァレンティン公爵邸では、アレクシスが領土にいる両親への手紙を書いていた。
便箋には、リディアとの結婚を決意したこと、そして彼女を生涯の伴侶として迎えたいと考えていることを綴った。
もともとは両家の話から始まった縁談だった。
けれど、彼女と過ごすうちに、アレクシスの気持ちは変わっていた。
家のためだけではない。自分自身の意志で、リディアと共に生きていきたい。
その決意を、両親にも伝えておきたかった。
書き終えた手紙を封筒に収め、アレクシスは小さく息をついた。
ペンを置いた彼の表情には、迷いはなかった。
◆
数日後、王宮の一室。
王妃は、窓辺に置かれた書類を確認しながら、息子のレオンハルト王太子と話していた。
「若い音楽家たちのための宮廷演奏会、今年も開くことにしたわ」
「今年もですか。母上が楽しみにしていらした催しですね」
「ええ。才能のある人たちが、身分や家柄にとらわれず、自分の音楽を披露できる場所は必要でしょう?」
王妃は穏やかに微笑んだ。
彼女は以前から、若い芸術家たちに発表の機会を与える活動を続けている。セレスタンが仮面を着けたまま演奏できる場を用意したのも、その一環だった。
もちろん、彼の正体を知ったうえで。
「それで、今年はセレスタンにも出てもらおうと思っているの」
「おお。ようやく、王妃様から直接お声がかかりましたね」
レオンハルトは意味ありげに笑った。
「何かしら、その言い方は」
「いえ。従弟の演奏を、私も聴きたいと思いまして」
王妃は小さく笑うと、そばに控える侍女に目を向けた。
「あれでもかわいい甥なのよ。ーーねえ、アレクシスは今日いるのよね? こちらへ呼んでちょうだい」
侍女が一礼して部屋を出ていく。
ほどなくして、扉の向こうからノックの音が響いた。
「お入りなさい」
入ってきたアレクシスは、王妃の姿を見ると軽く頭を下げた。
「王妃様、お呼びでしょうか」
「ええ、少しだけ時間をちょうだい」
王妃はにこやかに微笑むと、彼に告げた。
「アレクシス、今度の演奏会に出て欲しいの」
「私が、ですか?」
「ええ。あなたの演奏を楽しみにしている人もいるでしょう?」
その言葉に、アレクシスはわずかに目を伏せた。
以前なら、セレスタンとして舞台に立つことを考えただけで、胸の奥が高鳴ったものだ。
今も、音楽を奏でたいという気持ちは変わらない。
ただ、以前とは違う。
自分の音を、誰に聴いてほしいのか。
その答えは、もう心の中にあった。
「……彼女と一緒なら」
王妃は一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
「まあ。そういうことなら、ベルフォール家の令嬢にもお願いしましょう」
「決断が早いですね」
レオンハルトが楽しそうに口を挟む。
「だって、ふたりで奏でる音楽も素敵でしょう?」
王妃はすでに招待状の準備を考え始めているようだった。
「それから、ヴァレンティン公爵夫妻にも来ていただきましょう。息子の晴れ舞台ですもの」
「……両親も、ですか」
「もちろん。あなたが大切にしている音楽を、ご家族にも聴いていただきたいわ。クラウスとも久しく会っていないし」
クラウスとはアレクシスの父だ。王妃はクラウス・ヴァレンティン公爵の姉であり、アレクシスの伯母にあたる。
アレクシスは少し驚いたように王妃を見た。
両親が知っているのは、彼が幼い頃に楽器を弾いていたということだけ。
セレスタンとして人前で演奏していることは、まだ知らない。
今度の演奏会は、その秘密を両親に明かす機会にもなるだろう。
「……わかりました。お引き受けします」
アレクシスは静かに答えた。
今度は、仮面の向こうに自分を隠すためではなく。
大切な人と一緒に、音楽を奏でるために。
◆
その日の夕方、アレクシスはリディアを訪ねた。
客間で向かい合ってお茶を楽しんだあと、彼は少しだけ改まった表情で口を開いた。
「リディア嬢。実は、お願いしたいことがあるのです」
「お願い、ですか?」
「王妃殿下が主催される演奏会に、私も出演することになりました」
「まあ……!」
リディアの表情がぱっと明るくなる。
アレクシスはその様子に微笑みながら、続けた。
「それで、もしよろしければ……私と一緒に演奏していただけませんか」
「……えっ?」
リディアは目を瞬かせた。
自分が、アレクシスと一緒に?
演奏会で?
「わ、わたくしが、アレクシス様と……?」
「はい」
「で、でも……!」
リディアは思わず背筋を伸ばした。
「アレクシス様の演奏は……わたくしでは、とても釣り合いませんわ」
リディアも貴族女性の嗜みとして、いくつかの楽器は弾ける……が、とても人前で演奏するようなものではない。
「釣り合うかどうかを考えてお願いしたのではありませんよ」
アレクシスは穏やかに答えた。
「私は、リディア嬢と一緒に演奏したいのです」
その言葉に、リディアの心臓が大きく跳ねた。
――一緒に演奏したい。
アレクシス様が、わたくしと?
嬉しい。もちろん、嬉しい。
けれど、相手はアレクシス様……つまり、セレスタン様なのだ。
長年、客席からその演奏を聴き続け、音色のわずかな変化にまで心を動かされてきた、憧れの楽師。
その人が今、自分の目の前で、一緒に演奏したいと言っている。
しかも、正体を知った今では、あの音色を奏でていた指先も、弓を動かす手も、すべて目の前のアレクシスとつながっている。
そう考えただけで、頬が熱くなった。
「……少し、考えるお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
なんとか落ち着いた声で答えると、アレクシスは頷いた。
「もちろんです」
◆
数日後、王妃から正式な招待状が届いた。
演奏会への出席、そしてアレクシスとの共演のお願いが、丁寧な文面で記されている。
リディアはそれを読み終え、しばらく黙っていた。
王妃様主催の演奏会。
正式な招待を受けた以上、簡単にお断りするわけにもいかない。
もちろん、それだけが理由ではなかった。
アレクシスと一緒に演奏したいという気持ちは、招待状を読む前から、彼女の中に確かにあったのだから。
「……やるしか、ありませんのね」
リディアは小さく呟いた。
そして、次の瞬間。
――待って。
わたくし、本当にセレスタン様と共演するの?
いや、違う。
アレクシス様と演奏するのよ。
……でも、その方はセレスタン様なのよね!?
胸の中で何度も同じ問いが巡り、リディアは招待状をそっと胸に抱えた。
練習が始まる前から、もう心臓の鼓動が痛い。
◆
初めての音合わせの日。
侯爵家の音楽室には、午後の光が差し込み、磨かれた楽器や譜面台を柔らかく照らしていた。
リディアの前には鍵盤楽器が置かれ、その隣にはアレクシスのヴィオラ・ダ・ガンバが用意されている。
楽譜は、アレクシスがふたりのために選んだものだった。
「難しい曲ではありません。まずは、気楽に合わせてみましょう」
彼はそう言って、ヴィオラ・ダ・ガンバを手に取った。
リディアは頷こうとして――その手元に、つい目を奪われた。
長い指が、楽器の弦にそっと触れる。
弓を構える仕草には無駄がなく、静かなのに、目が離せない。
何度も客席から見つめてきた手だった。
セレスタン様が、旋律を生み出す手。
その手が、今は自分のすぐ隣にある。
――落ち着いて、リディア。
いつも聴いている音色でしょう?
……いつも聴いているからこそ、困っているのだけれど!
「リディア嬢?」
「は、はいっ!」
思った以上に大きな声が出てしまった。
アレクシスが少し驚いたようにこちらを見る。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですわ!」
リディアは慌てて楽譜に視線を落とした。
耳まで熱い。
憧れ続けた楽師と、これから一緒に演奏する。
そう思うだけで、指先まで落ち着かなくなってしまうのだ。
けれど、アレクシスは急かさなかった。
「では、私から始めますね。リディア嬢は、弾きやすいところから入ってください」
「……はい」
彼が弓を動かした。
最初の一音が、音楽室に広がる。
その瞬間、リディアの胸がきゅっと締めつけられた。
知っている。
この響きを、彼女は知っている。
深く、柔らかく、どこか人の心に触れるような音色。
何度も聴いてきた、セレスタンの音。
けれど今は、遠い舞台の上からではなく、手を伸ばせば届くほど近くから聞こえてくる。
彼が息をする気配まで感じられる距離で。
リディアは、思わず息を呑んだ。
――本当に、わたくしと一緒に奏でているのね。
憧れの人の音楽に、自分の音を重ねる。
夢のようなことなのに、夢ではない。
リディアはそっと鍵盤に指を置き、伴奏を始めた。
最初は緊張のせいで、音が少し硬くなった。
自分の演奏が、アレクシスの音色を損ねてしまうのではないか。
そんな不安が、どうしても頭をよぎる。
けれど、彼の旋律は少しも乱れなかった。
むしろ、リディアの音に合わせて、自然にその流れを変えていく。
彼女が音を重ねれば、それを受け止めるように旋律が広がる。
彼女が一瞬ためらえば、先を急がず、そっと待ってくれる。
まるで、彼女の気持ちを聴き取っているかのように。
リディアは、少しずつ顔を上げた。
アレクシスは譜面だけを見ているのではなかった。
時折、彼女の指先に目を向け、音が重なる瞬間には、ほんのわずかに微笑んでいる。
その表情を見た途端、胸の奥がまた大きく揺れた。
――ああ。
この方は、わたくしの音を聴いてくださっている。
ただ一緒に演奏しているのではない。
自分の音を受け止め、それに応えてくださっているのだ。
そう気づくと、不思議なことに、さっきまでの緊張が少しずつほどけていった。
リディアは、鍵盤に向き直る。
今度は、ただ間違えないように弾くのではなく、自分の感じたことを音にしてみようと思った。
アレクシスの旋律が穏やかに流れるところでは、そっと寄り添うように。
音がふくらむところでは、少しだけ勇気を出して、明るい響きを重ねる。
彼の音楽を、長い間、客席から聴いてきた。
何度も心を動かされ、そのたびにノートへ感想を書き留めてきた。
だからこそ、今の旋律がどんな表情を持っているのか、リディアにはわかる。
そして、その旋律がいつもより温かく聞こえる理由にも。
アレクシスが、ふと旋律を変えた。
ほんのわずかな変化だった。
けれどリディアは、すぐに気づいた。
その音には、柔らかさの奥に、切実な想いがあった。
大切な人に、どうしても伝えたいことがある。
けれど言葉だけでは足りないから、音に託している。
そんなふうに聞こえる旋律だった。
リディアの指が、一瞬だけ止まりそうになる。
――この音……。
知っているはずなのに、今までとは違う。
セレスタン様の演奏を何度も聴いてきたからこそ、わかる。
これは、ただ美しいだけの音楽ではない。
音の選び方も、旋律の運び方も、どこか親密で、まるでひとりの相手に語りかけているようだった。
そして今、その音は自分のすぐそばで奏でられている。
アレクシスが、静かにこちらを見た。
深い青の瞳が、リディアを捉える。
彼は何も言わない。
ただ、彼女の奏でる音を待っていた。
その視線を受け止めた瞬間、リディアにはわかってしまった。
――ああ、そうなのですね。
この方は、わたくしに伝えてくださっているのだ。
言葉ではなく、音楽で。
あなたが好きです、と。
胸がいっぱいになった。
ずっと憧れてきたセレスタン様の音色。
その音色が今、自分を愛してくれている人の心の声になっている。
リディアは、それを誰よりも深く聴き取れる。
何度も何度も彼の演奏を聴き、音の奥にある感情を探し続けてきたから。
だからこそ、今の旋律に込められた想いを、聞き違えるはずがなかった。
頬が熱くなる。
それでも、演奏を止めたくはなかった。
もっと聴いていたい。
この音の続きを、もっと知りたい。
そして、自分の音で応えたい。
リディアはそっと指を動かした。
今度は、アレクシスの旋律にただ寄り添うのではなく、自分の気持ちを重ねるように音を奏でた。
彼の音楽が好き。
彼の音色に心を奪われてきた。
そして今は、音楽を奏でているアレクシス自身が、何よりも大切な人になっている。
その想いを、言葉にする代わりに。
アレクシスの旋律が、ふわりと柔らかく広がった。
まるで彼女の返事を受け取ったかのように。
リディアは思わず顔を上げた。
アレクシスは、優しく微笑んでいた。
その笑顔を見た瞬間、彼女の胸はまた甘く締めつけられる。
――本当に、ずるい方。
こんなふうに奏でられたら、好きだという気持ちが、ますます大きくなってしまう。
けれど、それを嫌だとは思わなかった。
むしろ、もっと知りたい。
この人がどんな想いで音を選び、どんな気持ちで旋律を紡ぐのか。
そして、これから先も、隣でその音を聴いていたい。
やがて曲が終わり、最後の音が静かに消えていった。
音楽室に、穏やかな沈黙が満ちる。
「……素敵でした、リディア嬢」
アレクシスが言った。
リディアは、まだ少し熱の残る頬を隠すように、そっと目を伏せた。
「……ありがとうございます。けれど、アレクシス様の音色があまりにも美しくて……わたくし、途中から夢中になってしまいました」
「それなら、よかった」
彼は穏やかに微笑んだ。
「私は、リディア嬢の音、好きですよ」
「……っ」
リディアは、危うく声を上げそうになった。
今の言葉は、演奏についての感想だ。
きっと、そう。
わかっている。
それでも、先ほどの旋律を聴いてしまったあとでは、どうしても別の意味まで感じ取ってしまう。
彼女はそっと顔を上げ、アレクシスを見つめた。
彼は変わらず、優しい表情でこちらを見ている。
音楽に込められた想いを、本人に確かめることはできなかった。
けれど、確かめなくてもいいと思った。
彼の音色が、もう十分に伝えてくれていたから。
「……もう一度、弾いてもよろしいですか?」
リディアが尋ねると、アレクシスは嬉しそうに頷いた。
「もちろんです」
ふたりは再び楽器に向き合った。
今度は、最初よりも少しだけ近い気持ちで。
アレクシスの奏でる旋律に、リディアの音が重なる。
それは、まだ始まったばかりのふたりの未来のように、優しく、温かく響いていた。
◆
王宮の大広間には、王妃主催の音楽会を楽しみにする貴族や音楽愛好家たちが集まっていた。
若い音楽家たちの才能を広く紹介するために開かれた、特別な演奏会。
その舞台に、アレクシスとリディアも立つことになっていた。
「……本当に、わたくしがご一緒してよろしいのでしょうか」
楽屋で、リディアは何度目かになる問いを口にした。
鍵盤楽器の前に座る彼女の隣で、アレクシスはヴィオラ・ダ・ガンバの調弦を終え、微笑んだ。
「もちろんです。何を心配しているのですか?」
「王妃様主催の音楽会ですもの。それに、あなたと一緒に演奏するのですから……」
「私と一緒だから、ですか?」
「……そうです」
リディアは少しだけ頬を膨らませた。
「あなたがどれほど素晴らしい音楽家なのか、わたくしが一番よく知っておりますもの」
「それは光栄ですね」
「もう。真面目に申し上げているのですわ」
「私も真面目です」
アレクシスは笑みを深めると、リディアの前に手を差し出した。
「では、ひとつだけ約束してください」
「約束?」
「舞台の上では、私のことを特別扱いしないこと。あなたはあなたの音を奏でてください。私は、それに応えます」
リディアは差し出された手を見つめた。
彼の言葉は、いつだって不思議なほど心に届く。
長年、憧れの楽師として見つめてきた人。
その音色を追いかけていた自分が、今は同じ舞台に立とうとしている。
緊張しないはずがない。
けれど、アレクシスは彼女の音楽を信じてくれている。
「……わかりましたわ」
リディアは彼の手を取った。
「あなたの音を、きちんと聴きます。そして、わたくしの音でお応えします」
「ええ。それでこそ、私の大切な共演者です」
その言葉に、リディアの胸が温かくなった。
アレクシスは彼女の手をそっと握り、それから指先に軽く口づけた。
「では、参りましょうか」
「……はい」
演奏会の直前だというのに、リディアの心臓は別の理由で忙しくなっていた。
広間のざわめきが静まり、ふたりの演奏が始まった。
最初の音を奏でたのは、リディアだった。
澄んだ鍵盤の音色が広がり、そこへアレクシスのヴィオラ・ダ・ガンバが重なっていく。
深く、柔らかく、温かな旋律。
リディアは、その音を知っていた。
何年も聴き続けてきた、愛しい音色。
けれど今は、ただ客席から聴いているのではない。
隣にいる彼の音を受け取り、自分の音で応えている。
アレクシスの旋律は、まるで言葉のようだった。
あなたが好きです。
あなたと一緒にいたい。
これからも、あなたの隣で音楽を奏でていきたい。
そんな想いが、音のひとつひとつに込められている。
リディアには、それがわかった。
長年、セレスタンの演奏を聴いてきたからこそ。
彼の音楽が、どんなときに喜びを帯び、どんなときに迷いを含み、どんなときに誰かへ想いを届けようとするのか、彼女は知っている。
そして今、その旋律に込められているのは、自分への愛情だった。
リディアは胸いっぱいにその音を受け止め、鍵盤を奏でた。
彼女の音がアレクシスの旋律に寄り添い、彼の音が彼女の音を包み込む。
ふたりの音が、少しずつひとつになっていった。
最後の音が静かに消えたとき、一瞬の静寂のあと、広間いっぱいに拍手が響き渡った。
リディアはほっと息をつき、隣を見た。
アレクシスも彼女を見つめていた。
彼は人々に向かって一礼したあと、リディアにだけわかるように微笑んだ。
その眼差しに、彼女の胸が温かくなる。
舞台を下りると、アレクシスは自然な仕草で彼女の手を取った。
「ありがとうございました、リディア嬢」
「こちらこそ。とても楽しかったです」
「私もです。また一緒に演奏していただけますか?」
「もちろんです。何度でも」
リディアは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「ただし、演奏中にあのような素敵な旋律を聴かせるのはお控えくださいませ。つい、聴き惚れて手を止めてしまいますから」
「それは困りましたね」
「でしょう?」
「私は、あなたに聴き惚れていただくために、弾いているのですが」
「もう、アレクシス様!」
リディアが赤くなって抗議すると、アレクシスは声を立てずに笑った。
その笑顔を見ていると、リディアも自然と笑顔になってしまうのだった。
◆
演奏会のあと、ふたりは王宮の別室へ案内された。
そこには、領地から駆けつけたヴァレンティン公爵夫妻の姿があった。
「アレクシス!」
公爵夫人が息子のもとへ歩み寄り、嬉しそうにその手を取った。
「本当に素晴らしい演奏だったわ。リディア嬢との息もぴったりで……聴いていて胸がいっぱいになりました」
「ありがとうございます、母上」
「リディア嬢も、とても素敵でしたわ。あなたと一緒に演奏するアレクシスが、いつも以上に楽しそうに見えたの」
「まあ……ありがとうございます」
リディアが照れたように微笑むと、アレクシスが隣で静かに口を開いた。
「母上。父上。今日は、おふたりにお伝えしたいことがあります」
公爵夫妻は顔を見合わせた。
「改まって、どうしたのだ?」
公爵が尋ねる。
アレクシスは、隣にいるリディアを一度見た。
彼女は何も言わず、そっと彼の手に触れた。
大丈夫です。
そう伝えるような、小さな仕草だった。
アレクシスはうなずき、両親へと向き直った。
「私はこれまで、家名や身分を離れ、ひとりの音楽家として演奏するために、仮面をつけて活動してきました」
「仮面……?」
公爵が眉を寄せる。
「はい。セレスタンという名で、ヴィオラ・ダ・ガンバを演奏していたのです」
公爵夫妻は、そろって言葉を失った。
しばらくして、公爵夫人が目を見開いたまま口元を押さえる。
「……待ってちょうだい。セレスタンって、あのセレスタンなの?」
「はい」
「あなたが……?」
「私です」
公爵は息子をまじまじと見つめた。
「まさか、おまえだったとは……」
公爵夫人は驚きから立ち直ると、ふと思い出したように声を上げた。
「そういえば、以前、セレスタンの演奏を聴いたとき、あなたに感想を話したことがあったわね!」
「……ありましたね」
「あのとき、あなたは何も言わずに聞いていたでしょう?」
「ええ」
「まさか、自分の演奏を褒められていたの?」
「……そのようなことになります」
アレクシスが少し困ったように答えると、公爵夫人はとうとう笑い出した。
「もう! あなたという人は!」
「申し訳ありません、母上」
「謝ってほしいわけではないのよ。ただ、知っていたら、もっといろいろ話せたのにと思って!」
アレクシスは苦笑した。
「……確かに、そうですね」
その横で、リディアは顔が熱くなるのを感じていた。
公爵夫人がセレスタンの演奏を褒めていたという話は、以前から聞いていた。
けれど、今こうして本人を前にして語られると、何とも言えない気持ちになる。
アレクシスは、リディアの感想もすべて聞いていたのだ。
自分がどれほど熱心にセレスタンを褒めていたかも。
リディアがそっと隣を見ると、アレクシスもこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
――覚えていますよ。
そう言われた気がして、リディアは慌てて視線を逸らした。
その様子に気づいた公爵夫人が、ふたりを交互に見る。
「まあ……リディア嬢は、ずいぶん顔が赤いわね?」
「い、いえ……その……」
「もしかして、あなたもセレスタンの演奏を?」
リディアは観念したように、小さくうなずいた。
「……はい。以前から、大好きでしたの」
公爵夫人は目を輝かせた。
「そうだったの! それなら、アレクシスの音楽を誰よりもよく知っているのね」
「……それは、はい」
リディアが答えると、アレクシスが自然な仕草で彼女の手を取った。
「そして今は、私の一番近くで聴いてくださる方です」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には確かな愛情が込められていた。
リディアは驚いて彼を見上げた。
アレクシスは、少しも照れることなく微笑んでいる。
その顔を見た瞬間、リディアの胸がいっぱいになった。
ずっと憧れていた楽師。
自分の気持ちを知らないまま、何度もその旋律を届けてくれた人。
そして今、自分の手を取って、まっすぐに愛情を伝えてくれる人。
そのふたつが、同じ人なのだ。
「……アレクシス様」
「はい、リディア嬢」
「……あとで、ふたりきりでお話ししたいことがあります」
「ええ。いくらでも」
アレクシスは彼女の手を、そっと握り直した。
公爵夫妻はそんなふたりを見て、顔を見合わせた。
驚くことはあった。
けれど、息子が大切な人を見つけ、その人と心を通わせていることだけは、疑いようがなかった。
公爵は、少し離れた場所にいた王妃へと向き直った。
「姉上。このような機会を設けてくださり、ありがとうございます」
「いいえ。アレクシスの音楽を、多くの方に聴いていただきたかったのですよ」
王妃は穏やかに微笑んだ。
「それに、今日は彼の音楽が、誰かとともに奏でられるところを見られました。私にとっても、とても嬉しい日ですわ」
アレクシスは深く一礼した。
「ありがとうございます、王妃様
」
そして、隣にいるリディアを見た。
彼女もまた、優しく微笑んでいた。




