第九章 ・ 結婚
それから、季節がいくつか巡った。
アレクシスとリディアは、正式に婚約者となり、結婚の日を迎えた。
王都の大聖堂には、両家の親族や親しい友人たちが集まっていた。
純白のドレスに身を包んだリディアは、父に付き添われ、ゆっくりと祭壇へ向かって歩いていく。
祭壇の前には、正装したアレクシスが立っていた。
銀色の髪と、深い青の瞳。
初めて出会った日と変わらない、整った顔立ち。
けれど、彼を見つめるリディアの気持ちは、あの日とはまるで違っていた。
あの頃は、まだ知らなかった。
彼がどんな人なのか。
どんな思いや迷いを抱えていたのか。
そして、自分が彼にとって、どれほど大切な存在になっていたのか。
今は、そのすべてを知っている。
アレクシスはリディアの手を取り、彼女を迎えた。
その指先が、ほんの少しだけ彼女の手を握りしめる。
「……リディア嬢」
周囲には聞こえないほどの小さな声で、彼が呼んだ。
「はい」
「とてもお綺麗です」
リディアは一瞬、目を見開いた。
「……もう。なぜ今、そのようなことをおっしゃるのですか?」
「今だからこそ、です」
アレクシスは微笑んだ。
「これから先、何度でもお伝えしたいと思っていますから」
胸の奥が熱くなった。
リディアは、彼の手を握り返す。
「……では、私も何度でも申し上げますわ」
「何をですか?」
「あなたと出会えて、本当によかったと」
アレクシスの表情が、ふっと柔らかくなった。
彼は彼女の手を取り、そっと額を寄せた。
「私もです、リディア」
ふたりは見つめ合った。
その瞳には、もう仮面も、隠し事もなかった。
やがて誓いの言葉を交わす。
ふたりが夫婦となった瞬間、大聖堂に温かな拍手が響いた。
リディアは、隣に立つアレクシスを見上げた。
彼もまた、彼女を見つめている。
その微笑みを見ただけで、これからの人生がどれほど幸せなものになるのか、想像できる気がした。
式を終え、人々の祝福を受けながら、ふたりは大聖堂を後にした。
馬車へ向かう途中、アレクシスがそっとリディアの手を取る。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「それと……ひとつ、お願いがあるのですが」
「お願い?」
「いつか、また一緒に演奏してくださいませんか」
リディアは、ぱちりと目を瞬かせた。
「……もちろんです」
そして、少しだけいたずらっぽく微笑む。
「わたくからも、ひとつ、お願いがございます」
なにも言わず、微笑むアレクシス。
「わたくしが屋敷でセレスタン様への愛を語っても、怒らないでくださいね」
アレクシスは、思わず笑った。
「それは浮気の宣言ですか? 困りましたね。私がセレスタンを排除するのは難しいのですが」
「存じております」
「本当に?」
「……たぶん」
「リディア」
たしなめるような声に、リディアはとうとう笑い出した。
アレクシスもつられて笑う。
ふたりの笑い声は、祝福の声が響く大聖堂の庭に、いつまでも明るく広がっていた。
◆
その日、夜の湖は、静かな月光に包まれていた。
水面には満月が映り、そよ風が吹くたびに、銀色の光がゆっくりと揺れている。
湖畔に立つ一本の木も、遠くに連なる森も、あの日と変わらない。
かつてリディアが絵画の中に見つけ、アレクシスが幼い頃から大切にしてきた場所。
そして、ふたりが初めて互いの音楽と心を重ねた、思い出の場所だった。
「アレクシス様。今夜は、いったい何をなさるのですか?」
リディアが尋ねると、アレクシスは振り返り、いたずらを企む少年のように微笑んだ。
「今夜は、愛する妻のためだけの演奏会を開こうと思いまして」
「わたくしのためだけ……?」
「ええ。観客はリディアひとりです」
彼はそう言って、持ってきた楽器のケースを開いた。
中に収められていたのは、長年彼とともに歩んできたヴィオラ・ダ・ガンバ。
そして、その傍らには、見覚えのある黒い仮面が置かれていた。
リディアは思わず息をのんだ。
「……それは」
「覚えていらっしゃいますか?」
「忘れるはずがありませんわ」
何度も演奏会へ通い、何度もその姿を見つめた。
舞台の上で、黒い仮面をつけて楽器を奏でる謎めいた楽師。
彼の正体を知る前も、知ったあとも、リディアにとってその姿は特別だった。
アレクシスは仮面を手に取った。
「今夜は、これをつけてもよろしいですか?」
リディアは彼を見つめた。
かつて仮面は、彼が自分の名前や身分を離れ、ただ音楽家として生きるためのものだった。
誰にも素顔を知られず、誰にも公爵家の跡取りとして見られず、音楽そのものを聴いてもらうために。
けれど今夜は、少し違う。
素顔を隠す必要はない。
ここには、ふたりしかいないのだから。
それでも彼は、あえて仮面を手に取った。
リディアが愛した、あの楽師の姿で。
「……もちろんです」
彼女は微笑んだ。
「今夜は、わたくしだけのセレスタン様になってくださるのですね」
アレクシスは一瞬目を見開き、それから、どこか照れたように笑った。
「ええ。今夜だけは、あなただけのセレスタンでいましょう」
彼は黒い仮面を顔に添え、ゆっくりと装着した。
銀色の髪が月明かりを受け、仮面の下からのぞく深い青の瞳が、リディアを見つめる。
その姿を目にした瞬間、リディアの胸が高鳴った。
何年も憧れ続けた、あの姿。
けれど今は、遠い舞台の上にいる人ではない。
演奏が終われば、すぐそばで自分に微笑んでくれる。
その手で、自分の手を握ってくれる。
何より、自分を愛してくれる人なのだ。
「……どうかしましたか、リディア?」
見つめたまま黙ってしまった彼女に、アレクシスが尋ねる。
「い、いえ……」
リディアは頬を赤くしながら、少しだけ視線をそらした。
「……やはり、素敵だと思いまして」
「それは光栄です」
「もう。そういうところですわ」
仮面の下で、彼が笑った気配がした。
アレクシスは湖畔に用意してあった椅子を示した。
「どうぞ、お掛けください。リディア嬢。今宵は最後まで、ゆっくりとお聴きください」
「はい、アレク……いえ、セレスタン様」
リディアは、その名を口にした。
けれど、その声には昔とは違う温かさがあった。
アレクシスは彼女に一礼すると、ヴィオラ・ダ・ガンバを構えた。
弓を弦に添える。
そして――最初の音が、夜の湖へと流れ出した。
曲の名は、『月光の湖畔』。
かつて彼が、この場所で生まれた記憶と想いを込めて作り上げた旋律。
静かな低音が、湖面を渡る風のように響く。
そこへ、深く澄んだ旋律が重なった。
懐かしい音色だった。
リディアが初めてセレスタンの演奏を聴いた夜から、ずっと心に刻んできた音。
けれど、今夜の旋律は、あの頃とは少し違っていた。
長い年月を経て、いくつもの喜びと迷いを知った音。
誰かを愛することの幸せも、失うことへの恐れも、言葉にできないほど大切なものを守りたいという願いも。
すべてを知った人の奏でる音だった。
悲しいだけではない。
寂しいだけでもない。
深い静けさの奥に、確かな温もりがある。
まるで、ひとつの人生を振り返りながら、その先に続く道を見つめているような旋律だった。
リディアは、目を閉じた。
音が心の奥へと届いてくる。
出会った日のこと。
初めてふたりで演奏会へ出かけたこと。
彼が舞台を離れ、仮面を外し、自分の前に立った夜。
そして、彼の音楽に隠された想いを知り、彼自身を愛しているのだと確信したこと。
ひとつひとつの思い出が、旋律の中で鮮やかによみがえった。
アレクシスは、リディアのために弾いていた。
誰かに認められるためでも、喝采を浴びるためでもない。
ただ、たったひとりの大切な人に、自分の心を届けるために。
そのことが、リディアにはわかった。
長年、彼の音楽を聴き続けてきたからこそ。
彼が何を伝えようとしているのか、今では誰よりも深く感じ取ることができるからこそ。
最後の旋律は、ゆっくりと空へ昇っていくように伸びていった。
そして、静かに消えた。
湖畔に、再び夜の静けさが戻る。
リディアはしばらく動けなかった。
やがて、そっと目を開ける。
アレクシスは楽器を下ろし、仮面越しに彼女を見つめていた。
リディアは立ち上がった。
そして、胸の前で両手を重ね、深く一礼した。
今夜の観客は彼女ひとり。
拍手の音も、彼女の想いも、すべてが彼だけに向けられていた。
「……素晴らしい演奏でしたわ、セレスタン様」
その声は、少し震えていた。
「これまで何度もあなたの演奏を聴いてまいりましたけれど……今夜の音色は、きっと一生忘れません」
アレクシスは、何も言わずに彼女を見つめた。
リディアは一歩、彼に近づいた。
「あなたの音に出会えて、本当によかったです」
そして、少しだけ笑った。
「……あなたに出会えて、本当によかった」
その言葉に、アレクシスはゆっくりとヴィオラ・ダ・ガンバをケースへ収めた。
それから、仮面に手をかける。
リディアは、その仕草をじっと見つめていた。
黒い仮面が外される。
そこに現れたのは、いつも彼女の隣で微笑む、愛する夫の顔だった。
「……ありがとう、リディア」
アレクシスは彼女の手を取り、そっと口づけた。
「君に聴いてもらえることが、私にとって何よりの幸せなんだ」
「……でしたら」
リディアは、彼の手を握り返した。
「また、演奏会を開いてくださいませね」
「もちろんです」
「何度でも?」
「何度でも」
彼は微笑み、彼女の頬にそっと触れた。
「君が望んでくれる限り、私は弾き続けるよ」
リディアは、彼の胸に身を寄せた。
アレクシスは彼女を抱きしめ、髪に優しく口づける。
月明かりの下、ふたりはしばらくそうしていた。
やがてリディアが顔を上げると、アレクシスは昔と変わらない、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ところで、リディア嬢」
「はい?」
「今夜の演奏について、もう少し詳しい感想を聞かせてもらえますか?」
リディアは目を丸くした。
それから、こらえきれずに笑った。
「まあ……! 今夜くらいは、感想をせがまなくともよろしいでしょう?」
「君の感想は、いつだって楽しみなんだ」
「……本当に、ずるい人」
「そうかな?」
「そうですわ」
ふたりは笑い合った。
その笑い声もまた、月光の湖畔に優しく溶けていった。
◆
水面には、変わらず満月が映っている。
かつて、ひとりの楽師が音楽を奏でた場所。
そして今、愛するふたりが、同じ月の下で未来を語り合う場所。
仮面の向こうから始まった恋は、もう秘密ではない。
けれど、彼が仮面をつけて奏でる夜は、これからもきっと訪れるだろう。
そのたびにリディアは、誰よりも近くで彼の音楽を聴く。
彼の心が紡ぐ旋律を受け取り、愛する人の名を胸の中で呼ぶ。
――セレスタン様
――アレクシス様
どちらも、彼女が愛した人の名だ。
そして彼もまた、音楽を奏でるたびに、たったひとりの観客を思い出すのだろう。
自分の音色を信じ、仮面の向こうにいる自分を見つめ続けてくれた人。
素顔を知ったあとも、変わらず隣にいてくれる人。
月光の湖畔に、ふたりの影が寄り添って伸びていた。
その夜、最後の旋律が消えたあとも。
ふたりの奏でる音楽は、終わることなく続いていく。
終わり




