エピローグ
それからまた月日が流れた。
王都では、ある三人組の楽師が話題になっていた。
黒い仮面をつけたヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。
その隣で、チェンバロを正確に奏でる少女。
そして、自由奔放な旋律を奏でる少年のヴァイオリン。
三人は家柄も名前も明かさず、仮面をつけたまま舞台に立つ。
男性が奏でる深く豊かな音色を、少女のチェンバロが支え、少年のヴァイオリンが軽やかに彩る。
伝統的な曲を見事に演奏するかと思えば、時には誰も予想しなかった旋律を織り交ぜる。
その演奏は評判を呼び、いつしか人々は彼らを「月銀の楽団」と呼ぶようになっていた。
◆
ある日の午後。
ヴァレンティン公爵家の王都の邸宅には、領地から公爵夫妻が訪れていた。
「おじい様、おばあ様!」
玄関へ駆け寄ってきたのは、十二歳になったセシリアと、十歳のルシアンだった。
「まあ、セシリア。ずいぶん大きくなったわね」
公爵夫人が孫娘を抱きしめる。
「ルシアンも、背が伸びたな」
公爵が孫息子の頭を撫でると、ルシアンは嬉しそうに笑った。
「おじい様、今夜の演奏会も聴きに来てくださいますか?」
「ああ、もちろんだとも。おまえたちの演奏を聴くのを楽しみにしていたんだ」
「本当ですか? では、新しい曲も弾きます!」
「ルシアン!」
セシリアがすかさず弟を振り返った。
「新しい曲を入れるなら、きちんとお父様と相談してからにしてちょうだい。前だって、途中で勝手に旋律を変えたでしょう?」
「だって、そのほうが楽しかったんだもん」
「楽しいかどうかだけで決めてはいけないのよ。曲全体の流れがあるでしょう?」
「でも、お父様は気に入ってくれたよ?」
「お父様が笑っていたからって、何でもいいわけじゃないの!」
言い合いを始めた姉弟を見て、公爵夫妻は顔を見合わせた。
「……元気なのは何よりだな」
「ええ。本当に」
そこへ、奥からアレクシスが現れた。
「ふたりとも、お客様の前ですよ」
「お父様!」
「お父様、姉上が――」
「ルシアン、まずはおじい様とおばあ様に、ゆっくりしていただきましょう」
穏やかに言われ、ふたりはそろって口を閉じた。
その様子を見て、公爵は感心したように息子を眺めた。
「おまえも、すっかり父親だな」
「そうでしょうか」
「昔は、自分のこととなると何も話さない男だったのに」
「……父上」
アレクシスが困ったように眉を寄せると、公爵夫人が楽しそうに笑った。
「そういえば、あなたがセレスタンだったと知ったときは、本当に驚いたわね」
「母上まで……」
「だって、あなたは私がセレスタンの演奏を褒めるたび、何食わぬ顔で聞いていたんですもの」
公爵夫人は、昔を懐かしむように目を細めた。
「それが今では、子どもたちと一緒に仮面をつけて舞台に立っているんでしょう?」
「……子どもたちが、仮面をつけて演奏してみたいと言い出したのです」
「お父様も、楽しそうだったけど?」
セシリアがすかさず口を挟んだ。
アレクシスは娘を見た。
「セシリア」
「本当のことですわ」
娘は母親譲りの鋭い耳だけでなく、父親の演奏の細かな変化にもよく気づく。
アレクシスが新しい旋律を試すと、誰よりも早くその意図を読み取ることがあるのだ。
ルシアンもまた、音楽を自由に楽しむことにかけては父親に似ていた。思いがけない音を加えては姉に注意され、それでも懲りずに新しい工夫を試している。
「私たちは、仮面をつけたいわけではありませんの」
セシリアが、祖父母に向き直った。
「名前や家柄ではなく、演奏そのものを聴いていただきたいのです」
「うん。それに、仮面をつけると変身してるみたいで楽しいんだ!」
ルシアンが元気よく付け加える。
公爵は孫たちを見つめ、それから息子へと視線を移した。
「なるほどな。おまえの考えを、きちんと受け継いでいるわけか」
アレクシスは、少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれません」
「しかし……」
公爵は、改めて息子を見た。
「……また仮面か!」
思わず大きな声を出すと、子どもたちはきゃっと笑い、公爵夫人も声を立てて笑った。
「おまえが素顔を隠して演奏していると知ったときも驚いたのに、今度は孫たちまで!」
「でも、おじい様。仮面をつけていても、音楽はちゃんと伝わるでしょう?」
ルシアンが尋ねる。
公爵は少し考えてから、ゆっくりとうなずいた。
「ああ。今日の演奏を聴くのが、ますます楽しみになったよ」
子どもたちは嬉しそうに顔を見合わせた。
◆
その様子を、少し離れた窓辺から見守っていたリディアは、静かに微笑んでいた。
かつて、彼女は仮面の楽師に恋をした。
その音色に心を奪われ、演奏会のたびに胸を躍らせ、感想を書き続けた。
そして今、その音色を奏でる人は、夫として隣にいる。
さらに、その音楽は子どもたちへと受け継がれていた。
「リディア」
振り返ると、アレクシスがこちらへ歩いてきた。
「座らなくて平気かい?」
アレクシスは膨らみはじめたリディアのお腹を眩しそうに眺める。
「ふふ、心配性ですね。大丈夫ですよ」
「それならよかった」
彼は自然な仕草で、リディアの肩を抱き寄せた。
結婚して十数年が経っても、その仕草は変わらない。
リディアもまた、彼の腕にそっと寄り添った。
「……あの子たち、本当にあなたに似ていますね」
「そうかな。私は、リディアにもよく似ていると思うよ」
「わたくしに?」
「ええ。セシリアの音を聴く力も、ルシアンが音楽から感じたことを自由に表現しようとするところも。ふたりとも、君から受け継いだものがたくさんあります」
リディアは、少し照れたように微笑んだ。
「……そう言っていただけると、嬉しいわ」
アレクシスは彼女の髪にそっと口づけた。
「それに、私が今も音楽を続けていられるのは、君のおかげでもあるんだ」
「アレクシス様……」
「君は、私の音楽をずっと聴いてくれた。そして、私自身のことも見てくれた」
彼はリディアの手を取った。
「それが、どれほど嬉しかったか。今でも、うまく言葉にできないくらいだよ」
リディアは、彼の手を両手で包み込んだ。
「……わたくしも、あなたの音楽に出会えて幸せでしたわ。でも、それだけではありません」
深い青の瞳を、まっすぐに見つめる。
「アレクシス様と出会えて、あなたのことを知って、こうして一緒にいられることが……何より幸せなのです」
アレクシスは、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、穏やかな笑みを浮かべる。
「……私もだよ、リディア」
ふたりは額をそっと寄せ合った。
「お父様、お母様!」
そこへ、ルシアンの声が飛んできた。
「演奏会、聴きに来てくれるよね?」
「もちろん行きますよ」
リディアが答えると、セシリアが少し呆れたように弟を見た。
「何言ってるの。お母様は、いつだって聴きに来てくださるでしょう?」
「ぼくのファン1号はお母様だって言ってたもの!」
リディアは思わず笑った。
「ええ。そうですわね」
それから、そっと隣のアレクシスを見上げた。
「でも……わたくしの一番の推しは、今も昔も変わっていませんのよ」
アレクシスは目を細めた。
「それは光栄だね」
「ふふ。ですから、これからも素敵な演奏を聴かせてくださいませね」
「喜んで。君のためなら、何度でも」
そう答えた彼の声は、昔、仮面の向こうから響いてきた音色と同じように、優しく温かかった。
リディアはその手を握り、微笑んだ。
音楽に恋をした日から、ずっと変わらないものがある。
けれど、あの日には知らなかった幸せも、たくさん増えた。
大好きな音楽を、愛する人と奏でること。
その音色を、子どもたちが受け継いでくれること。
そして、これから先も、同じ旋律を何度でも一緒に奏でていけること。
リディアは、アレクシスの肩にそっと頭を預けた。
窓の向こうでは、子どもたちが次の演奏会の曲について、また楽しそうに言い合っている。
その声を聞きながら、アレクシスはリディアの手を握り直した。
今も昔も、音色は嘘をつかない。
そして、ふたりで奏でる旋律は、これからもずっと続いていく。




