おまけ
結婚後の後日談です。
アレクシスがそれを見つけたのは、妻の部屋に忘れ物を届けに来たときだった。
書き物机の端に、一冊の手帳が置かれている。
濃紺の表紙に、飾り気のない金色の留め具。
見慣れた意匠に、アレクシスは何の疑いもなく手を伸ばした。
自分の手帳だと思ったのだ。
ところが、手に取って表紙を開くと、内側にはリディアの名前が記されていた。
「……おや?」
リディアもよく似た手帳を持っていたらしい。
元の場所に戻そうとしたアレクシスだったが、ふと開いたページに目が留まった。
日付と会場、演奏された曲目。その下には、感想らしき文章が綴られている。
どうやら演奏会の記録のようだ。
何気なく視線を落とし、アレクシスはそのまま読み始めた。
会場の様子や曲目だけでなく、演奏のどこに心を動かされたのかまで、細やかに書き留められている。
ページをめくるたび、リディアがどれほど熱心に演奏を聴いているのかが伝わってきた。
そして、あるページで手が止まった。
『308年3月3日 王立音楽祭
セレスタン様、出演辞退』
「……ああ、あのときの」
右手を負傷し、出演を断念した王立音楽祭。
あの夜、客席にいるはずのリディアがどうしていたのか、ずっと気になっていた。
――やはり、来ていたのか。
アレクシスは短い記録に目を落とした。
いつもなら、演奏の感想が丁寧に綴られている。心に残った旋律や音色、そのとき感じたことまで。
それなのに、この日だけはたった一行だった。
それまで賑やかに鳴り響いていた音楽が、このページだけふっと無音になったような気がした。
アレクシスはしばらく、その文字を見つめていた。
あの夜、彼女はどんな気持ちで帰ったのだろう。
楽しみにしていた演奏を届けられなかったことが、今になって胸に引っかかった。
やがて、アレクシスは手帳に目を戻し、最初のページを開いた。
そこに並んでいたのは、今よりも少し色褪せたインクで綴られた、若々しい文字だった。
『305年5月1日 クラリスと王立セレーネ音楽堂。
今日は、素晴らしい音楽を奏でる、仮面の楽師様にお会いしました。
美しい音色も、優雅な指先も、すべてが輝いていて……!
お名前は、セレスタン様。なんて素敵なの!
仮面をつけたお姿はミステリアスで素敵だし、衣装もかっこいい!
この世に、こんな方がいるなんて……
私、運命の人を見つけてしまいました!!』
「……運命の人?」
アレクシスは、思わず口元を緩めた。
日付は305年、今から五年も前だ。
と、いうことは。
十五歳のリディアが書いた、初めての演奏会の記録。
今の彼女からは想像もつかないほど、勢いのある文章だった。
いや、想像がつかないわけでもない。
セレスタンの演奏会に向かうときの彼女は、二十歳になった今でも楽しみを隠しきれず、目を輝かせているのだから。
アレクシスはもう一度、その一文に目を落とした。
『私、運命の人を見つけてしまいました!!』
「……ふふ」
こみ上げる笑いを抑えきれない。
◆
そのとき、背後から声がした。
「アレクシス様?」
振り返ると、リディアが扉の前に立っていた。
「リディア。お帰りなさい」
「ただいま戻りました。……あら?」
彼女の視線が、アレクシスの手元に落ちる。
次の瞬間、その顔がさっと青くなった。
「そ、そそそ、それは……!」
リディアが駆け寄ろうとするより早く、アレクシスは手帳を持ち上げた。
「~~~~っ!!」
リディアは声にならない声を上げ、真っ赤になって手帳に手を伸ばす。
「お返しくださいませーーー!」
必死に背伸びをするリディアを、アレクシスは手帳を高く掲げてかわした。
口元には、どこか楽しげな笑みが浮かんでいる。
「ま、まま、まさか……読まれました?」
掲げた手帳に視線を向け、アレクシスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ありません。私の手帳とよく似ていたもので、てっきり自分のものかと。開いて初めて、リディアの手帳だと気づいたのです」
「それで……どこまで?」
「……十五歳の頃のリディアは、ずいぶん情熱的だったのですね」
「~~~~っ!!」
アレクシスは、真っ赤になったリディアを見つめて、少しだけ笑みを深めた。
「私と知り合う前とはいえ……この情熱は、ちょっと妬けました」
そう言いつつ、アレクシスの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「アレクシス様!!」
彼はリディアへ視線を戻した。
「しかし。セレスタンが、リディアの運命の人とは」
「ち、違っ……、そこは忘れてくださいませ! もう、アレクシス様!!」
リディアはとうとうアレクシスの腕をつかみ、手帳を取り返した。
そして涙目で胸元にぎゅっと抱きしめる。
「……意地悪ですわ!」
「申し訳ありません。あまりにも可愛らしかったもので」
アレクシスは、愛おしそうに目を細めた。
「可愛らしいだなんて……!」
リディアは俯いた。
まさか、あの頃の自分が書いた文章を、よりにもよって。
仮面の楽師、セレスタンの正体はアレクシスだ。つまりセレスタン本人に、この手帳の存在を知られてしまうだなんて。
穴があったら入りたい。
いや、できることなら、十五歳の自分のところへ戻って、手帳を書く前に止めてやりたい。
けれど、そんなことができるはずもなかった。
アレクシスは、胸元に手帳を抱えた妻を見つめて微笑んだ。
「嬉しいですよ」
「……え?」
「私が、あなたの運命の人だったことが」
からかうような笑みが消え、優しい眼差しがリディアを捉える。
リディアは一瞬、言葉を失った。
それから、ますます赤くなって顔を伏せる。
アレクシスは、リディアの顔を覗き込むように少し身をかがめた。
「そういうことを、急におっしゃらないでくださいませ……」
「では、これからは何度でもお伝えしましょう。私はリディアに出会えて、とても嬉しい」
「もう……!」
リディアは彼から顔をそらした。
そんな彼女を見て、アレクシスは目を細める。
「その手帳には、まだ私の知らない可愛いリディアがたくさんいるのでしょうね」
「だ、だめです! これ以上は読ませません!」
リディアは手帳を抱えた腕に、ぎゅっと力を込めた。
この手帳だけは、もう二度とアレクシスに見せてはならない。
そう心に誓ったのだった。
リディアの黒歴史回収でした。
推し活手帳を、推し本人に読まれる地獄。




