第七章 ・ 告白
控え室へ続く廊下には、まだ演奏会場のざわめきがかすかに響いていた。
アレクシスはリディアの手を取り、静かな部屋へと彼女を導いた。
扉が閉まると、外の喧騒が少し遠のいた。
ふたりきりになった途端、リディアは自分の手が彼の手に包まれていることに気づいた。
演奏会が始まるまで、隣に座っていたアレクシス様。
そして、半年ぶりに舞台へ戻ってきた、愛してやまないセレスタン様。
そのふたつの姿が、どうしてもひとつにつながらなかった。
「……リディア嬢」
アレクシスが、そっと彼女の名を呼んだ。
「まずは、あなたを驚かせてしまったことを謝らせてください」
彼はリディアの手を握ったまま、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「私は、仮面をつけセレスタンとして演奏してきました。身分も名前も明かさず、ただ音楽だけで人とつながれることが、私にとって大切だったのです」
リディアは黙って耳を傾けた。
「けれど、あなたと出会ってから……少しずつ、変わっていきました」
アレクシスは、言葉を選ぶように一度視線を落とした。
「あなたが私の演奏をどれほど大切に聴いてくださっていたか、私は知っています。あなたがセレスタンを語るときの表情も、その音楽から何を感じ取ってくださったのかも」
「……はい」
「それなのに、私はあなたの隣で、何も知らないふりをしていました」
その声には、後悔がにじんでいた。
「あなたが私をどう思うのか、怖かったのかもしれません。セレスタンとしての私を知っているあなたに、アレクシスとしての私も受け入れていただけるのか……自信がなかったのです」
リディアは、彼の手を見つめた。
湖畔でリラを奏でてくれたこと。
自分の好きな絵画を一緒に眺め、何気ない話に耳を傾けてくれたこと。
演奏会でセレスタンの話をするたび、アレクシスはいつも穏やかに微笑んでいた。
あのときも、このときも。
すぐそばにいた彼は、どんな気持ちで自分の話を聞いていたのだろう。
「……アレクシス様」
リディアはゆっくりと顔を上げた。
「あの……まだ、驚いております。正直に申し上げれば、何からお尋ねすればよいのかもわかりません」
「……ええ」
「けれど……」
彼女は、握られた手にそっと力を込めた。
「わたくしがアレクシス様と過ごしてきた時間まで、偽りだったとは思いません」
アレクシスの瞳が、わずかに揺れた。
「湖畔で聴かせてくださった曲も、絵画について語り合った時間も、わたくしの話を聞いてくださったことも……どれも、わたくしにとって大切な思い出ですから」
「リディア嬢……」
「ですから、どうか聞かせてください。セレスタン様のことも、アレクシス様ご自身のことも。わたくし、ちゃんと知りたいのです」
アレクシスはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、張り詰めていた表情が、ゆっくりとほどけていく。
「……ありがとうございます」
その声は、舞台の上で音楽を奏でるときよりも、ずっと柔らかかった。
そして彼は、リディアの手をそっと離した。
「リディア嬢。その前に、もうひとつ、あなたに伝えたいことがあります」
いつになく真剣な眼差しに、リディアは自然と背筋を伸ばした。
アレクシスは彼女の前に立つと、静かに片膝をついた。
「……アレクシス様?」
突然のことに、リディアは目を見開いた。
彼は彼女を見上げ、少しだけ緊張した面持ちで微笑んだ。
「私たちは、家同士の勧めによって、婚約者候補として出会いました」
「……はい」
「けれど、今の私の気持ちは、家の意向とは関係ありません」
アレクシスは、まっすぐにリディアを見つめた。
「あなたと話す時間が好きです。あなたが何かを見て、心を動かされる瞬間が好きです。私の知らない世界を教えてくださるところも、私の話を楽しそうに聞いてくださるところも」
彼は小さく息を吸った。
「あなたと過ごすうちに、私はもっとあなたを知りたいと思うようになりました。私の好きなものを、あなたにも知ってほしいと思うようになりました」
湖畔でリラを奏でた日のことが、脳裏をよぎる。
彼女が自分の音楽を聴いてくれたときの、あの穏やかな笑顔。
あの瞬間、アレクシスは、自分の音楽を聴いてもらう喜びだけではないものを感じていた。
彼女と過ごす時間を、これからも重ねていきたい。
彼女の隣に、自分の居場所を見つけたい。
その願いは、もう迷いようのない気持ちになっていた。
「リディア嬢。私は、あなたを愛しています」
リディアの頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「セレスタンとしての私も、アレクシスとしての私も、あなたに知っていただきたい。そして、これから先の人生を、あなたと共に歩みたいのです」
アレクシスは、彼女の手をそっと取った。
「どうか、私と結婚してください」
リディアは、息をするのも忘れたように彼を見つめていた。
これまで、結婚は家と家を結ぶものだと思っていた。
もちろん、アレクシスとの見合いを受け入れたときも、彼の人柄に好感を抱いていた。彼となら穏やかな家庭を築けるかもしれないと、そう思っていた。
けれど、今、目の前にいる彼は違う。
家のためでも、義務のためでもなく。
自分自身の気持ちを伝えるために、こうして膝をついてくれている。
リディアの胸が、いっぱいになった。
「……はい」
小さな声が、ふたりきりの部屋に響いた。
彼女は恥ずかしさに頬を染めながら、微笑んだ。
「喜んで」
一瞬、アレクシスが息をのんだ。
次いで、その表情に、心からの喜びが広がった。
「……ありがとうございます、リディア」
彼は立ち上がり、彼女をそっと抱き寄せた。
リディアの頬が、彼の胸元に触れる。
近くで感じる体温も、耳元に響く鼓動も、すべてが今までとは違って思えた。
「ア、アレクシス様……」
「すみません。……どうしても、こうしたかったのです」
いつも落ち着いている彼の声に、わずかな照れが混じっていた。
リディアはますます顔を赤くした。
けれど、離れたいとは思わなかった。
ためらいがちに、彼の背中へ腕を回す。
アレクシスはその仕草に気づくと、愛おしそうに彼女を抱きしめた。
長い間、言葉にできなかった想いが、ようやくふたりの間で形になった。
もう、婚約者候補というだけの関係ではない。
ふたりは自分たちの意思で、これからの人生を共に歩むことを選んだのだ。
◆
――そのとき。
控え室の扉が、控えめにノックされた。
「アレクシス、入ってもいいかい?」
聞き覚えのない声に、リディアははっと顔を上げた。
アレクシスも扉へ目を向ける。
「……殿下?」
「演奏会のことで、少し話がしたくてね」
レオンハルトは、扉の隙間から室内を覗いたところで動きを止めた。
真っ赤な顔をしている見知らぬ令嬢を腕に抱いているアレクシス。
そして、ふたりの間に漂う、どう見ても今まさに大切な約束を交わしたばかりの空気。
レオンハルトは一瞬目を丸くした。
それから、事情を察したように、穏やかな笑みを浮かべる。
「……なるほど。今は、取り込み中だったな」
「殿下」
アレクシスの声が、少し低くなった。
「入室許可の返事を待ってください」
「それは失礼した」
レオンハルトは素直に謝りながらも、扉を閉める気配はなかった。
「だが……ようやく君が彼女を紹介してくれなかった理由が、わかった気がするよ」
「……殿下」
「以前から一度お会いしたいと言っていたのに、君はいつも、もう少し先でいいと言っていたからね」
リディアは、アレクシスの胸元から慌てて顔を上げた。
そして、自分がまだ彼に抱き寄せられたままであることに気づくと、さらに頬を赤くした。
「も、申し訳ございません……!」
リディアはそっとアレクシスから離れ、ドレスの裾を整えた。
突然の王太子殿下の来訪に胸は落ち着かなかったが、侯爵令嬢としての礼儀を忘れるわけにはいかない。
彼女は背筋を伸ばし、優雅に一礼した。
「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。ベルフォール侯爵家のリディアでございます。王太子殿下にお目にかかれて、光栄に存じます」
「これはご丁寧に。どうか、そんなにかしこまらないで」
レオンハルトは柔らかく微笑んだ。
「私のほうこそ、ようやくお会いできてうれしいですよ。アレクシスから、あなたのお話は聞いていましたから」
「……わたくしの、話ですか?」
リディアは思わずアレクシスを見た。
彼は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……殿下。余計なことはおっしゃらなくて結構です」
「余計なことではないだろう。君は彼女の話をするとき、いつも楽しそうだったからね」
「殿下」
「はいはい。わかったよ」
レオンハルトは、苦笑しながら両手を軽く上げた。
それから、改めてリディアに向き直る。
「実は、今夜はあなたにもお会いしたかったのです。半年ぶりに戻ってきたセレスタンの演奏を聴けただけでもうれしかったのですが……まさか、こんな形でアレクシスの秘密まで明かされるとは思いませんでした」
「……殿下は、セレスタン様を以前から?」
「ええ。私も、彼の演奏が好きなのですよ」
レオンハルトは、舞台での音色を思い返すように目を細めた。
「この半年、いつ戻ってくるのかと待っていました。本人がどれほど悩んでいたかも知っていましたからね」
その言葉に、リディアは静かに耳を傾けた。
「けれど、今夜の演奏を聴いて、安心しました。彼は、ようやく自分の音楽を取り戻したのだと感じましたから」
レオンハルトは、ちらりとアレクシスを見た。
「……そして、どうやら音楽以外にも、大切なものを見つけたようだね」
「殿下」
アレクシスは、困ったように眉を寄せた。
けれど、その耳がほんのり赤くなっていることに、リディアは気づいてしまった。
レオンハルトは、それ以上ふたりをからかうことなく、穏やかな表情に戻った。
「さて。私はそろそろ失礼しましょう。ふたりには、まだ話したいことがおありでしょうから」
「……いいかげんにしてください、殿下」
アレクシスが答える。
レオンハルトは満足そうにうなずき、扉の外へ出る前に、もう一度だけリディアを振り返った。
「リディア嬢。これからも、我が従弟をよろしくお願いします」
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リディアは、今度は少しだけ落ち着いた笑顔で答えた。
レオンハルトはそれを見届けると、静かに扉を閉めた。
再び、控え室にふたりきりの静けさが戻ってくる。
リディアは、ほっと息をついた。
「……驚きました」
「私もです」
アレクシスが、少し困ったように笑う。
「殿下は、昔からああいう方なのです」
「ふふ……そうなのですね」
リディアは微笑んだあと、ふと、彼を見上げた。
「アレクシス様」
「はい」
「……先ほどのお言葉、本当にうれしかったです」
アレクシスの表情が、静かに和らいだ。
「私も、あなたの返事が聞けて、うれしかった」
彼は、今度は確かめるように、そっとリディアの手を取った。
リディアもその手を握り返す。
仮面の向こうにいた人も、隣で微笑んでくれた人も、湖畔で音楽を奏でてくれた人も。
すべて、同じひとりの人だった。
そして今、リディアが手を取っているのは、誰かに決められた相手ではなく、自分の意思で人生を共にしたいと願った人。
アレクシスもまた、彼女の手を握りながら、静かに微笑んでいた。
秘密を抱えた楽師と、その音色に恋をした令嬢。
ふたりの物語は、仮面の向こうに隠された真実を知ったことで、ようやく新しい一歩を踏み出したのだった。




