第六章 ・ 素顔
リディアのもとにアレクシスからの手紙が届いたのは、午後の陽射しが窓辺を明るく照らしている頃だった。
「リディアお嬢様、アレクシス様からお手紙が届いております」
侍女のマリーが銀の盆に載せた封筒を差し出す。
見慣れた、端正な文字。それだけで、リディアの頬は自然と緩んだ。
「ありがとう、マリー」
封を切り、便箋を取り出す。
そこには、近いうちに開かれる演奏会への誘いが記されていた。
アレクシスが興味を持った演奏会があるらしく、都合がよければ一緒に聴きに行かないか、という内容だった。
「演奏会……」
リディアは思わず声を弾ませた。
アレクシスと出かけるのは楽しみだった。彼とは絵画や芸術について話すのも好きだし、音楽を聴いたあとに感想を交わす時間も心地よい。
手紙の最後には、こんな一文が添えられていた。
――あなたの感想を聞けるのを楽しみにしています。
「ふふ……アレクシス様ったら」
自分の好きなものを覚えていてくれて、こうして誘ってくれる。その心遣いが嬉しかった。
どんな演奏会なのだろう。
アレクシスが選んだものなら、きっと新しい発見があるに違いない。
リディアはすぐに返事を書き、喜んでお供したいと伝えた。
◆
演奏会当日。
リディアは華やかなブルーのドレスに身を包み、銀糸の織り込まれたショールを肩に掛けていた。
鏡の前で髪を整えながら、自然と笑みがこぼれる。
アレクシスと一緒に演奏会へ出かけるのは、これが初めてではない。けれど、何度出かけても、彼と音楽を楽しめる時間は嬉しかった。
迎えに来たアレクシスは、いつものように落ち着いた装いだった。
「お待たせしました、アレクシス様」
「よくお似合いですよ、リディア嬢」
「ありがとうございます」
さらりと告げられた言葉に、リディアは微笑みながら馬車へ乗り込んだ。
会場へ向かう道すがら、二人は最近見た絵画や、王都で開かれている展覧会の話をした。
「そういえば、先日お話しした絵画展ですが、来週から展示作品が少し入れ替わるそうですよ」
「それは興味深いですね。もしよろしければ、今度ご一緒しませんか?」
「ぜひ!」
そんな約束を交わすうちに、馬車は演奏会場へと到着した。
案内されたのは、貴族や音楽愛好家が集う、格式ある演奏会場だった。
客席にはすでに多くの人々が集まり、開演を待っている。
リディアは係の者からプログラムを受け取った。
出演者の名を目で追い、演目に目を通していく。
そして、ある名前の前で指が止まった。
「……えっ」
思わず、もう一度確かめる。
そこに記されていたのは、半年近く目にしていなかった名前だった。
セレスタン。
「……本当に……?」
リディアはプログラムを見つめたまま、小さく呟いた。
見間違いではない。
確かに、今日の出演者としてセレスタンの名が記されている。
「どうかなさいましたか?」
隣のアレクシスが、そっと尋ねた。
リディアは顔を上げ、プログラムを差し出した。
「アレクシス様、こちらをご覧になってください。セレスタン様が……出演なさるんです」
「ああ、本当ですね」
「私、また演奏を聴けるなんて思っていませんでした」
リディアの瞳が喜びに輝いた。
突然の休演から、長い時間が過ぎた。こうして再び彼の名前を目にする日が来るとは、思ってもいなかった。
思いがけない知らせに、胸がいっぱいになる。
「今日は、存分に楽しんでください」
アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「はい!」
リディアは嬉しそうに頷き、もう一度プログラムを眺めた。
セレスタン様は、どんな曲を演奏してくれるのだろう。
半年の間に、何か変わったのだろうか。
考えるだけで期待が膨らんだ。
やがて照明が落ち、演奏会が始まった。
最初の演奏者が舞台に立ち、澄んだ音色が会場を満たしていく。
リディアは音楽に耳を傾けながら、プログラムに記されたセレスタンの名前を何度も思い返していた。
もうすぐ、あの音色が聴ける。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。
いくつかの演目が終わり、次の演奏者への準備が進められていた頃だった。
アレクシスが、そっとリディアへ顔を向けた。
「申し訳ありません。少し席を外します」
「どうかなさいましたか?」
「少々、用事がありまして。あとで戻ります」
リディアは少し不思議に思ったものの、すぐに微笑んだ。
「わかりました。お気をつけて」
「ありがとうございます」
アレクシスは静かに席を立ち、客席の後方へと歩いていった。
その背中を見送りながら、リディアは小さく首を傾げた。
――このタイミングで?
もうすぐセレスタンの演奏が始まるというのに。
少し気になったものの、今は理由もわからない。戻ってきたら、あとで尋ねてみよう。
そう思いながら、リディアは舞台へと視線を戻した。
半年ぶりに聴く、セレスタンの音色。
胸の奥が、期待にそっと弾んだ。
やがて会場のざわめきが静まり、司会者が次の演目を告げる。
「それでは、続きまして――セレスタン氏の演奏です」
客席のあちこちから、期待に満ちたざわめきが起こった。
リディアは息を呑んだ。
舞台の袖から、一人の演奏者が姿を現す。
いつもの黒いマントに仮面。
静かな足取り。
そして、抱えられたヴィオラ・ダ・ガンバ。
半年ぶりに見るその姿に、リディアの胸が熱くなった。
「……セレスタン様」
誰にも聞こえないほど小さく、その名を呼ぶ。
彼は舞台の中央へ進み、客席へ向かって一礼した。
その仕草は、以前と変わらない。
けれど、長い休演を経て再び舞台に立つ彼の姿は、リディアの目にいつも以上に鮮やかに映った。
どれほど、この瞬間を待っていただろう。
もう一度、あの音色を聴きたい。
その願いが、今、叶おうとしていた。
セレスタンは椅子に腰を下ろし、楽器を構えた。
弓を弦へと近づける。
最初の一音が生まれるまでの、ほんの短い沈黙。
リディアは息をすることさえ忘れそうになりながら、舞台を見つめた。
そして――音が響いた。
◆
深く、澄んだ音色だった。
懐かしい。
けれど、ただ懐かしいだけではない。
静かな湖面に朝の光が差し込むような、柔らかな温もりがあった。
以前のセレスタンの演奏にも、もちろん優しさはあった。けれど今日の音色には、どこか違うものが宿っている。
深い静けさの奥に、確かな熱がある。
悲しみだけではない。孤独だけでもない。
何かを大切に抱きしめながら、それでも前へ進もうとするような響きだった。
リディアは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
弓が弦の上を滑る。
音はゆっくりと広がり、会場を満たしていく。
セレスタンは、以前と同じように楽器を操っていた。
けれど、その旋律は、以前の彼が奏でていたものとは少し違う。
技術も、音の美しさも、何ひとつ失われてはいない。
むしろ、長い沈黙を経たからこそ生まれた深みがあった。
音の合間に置かれる短い休符さえ、まるで言葉のように意味を持っている。
リディアは、ひとつひとつの音を心に刻んでいた。
弓の返しも、旋律の移ろいも、音が消えたあとの余韻も。
以前と同じように、細やかなところまで聴き逃したくなかった。
けれど、今夜はそれだけではない。
胸がいっぱいで、うまく言葉にできなかった。
嬉しい。
戻ってきてくださって、嬉しい。
その思いが、何度も胸の中を巡っていた。
舞台の上で、セレスタンは弾き続ける。
そして、ある旋律の終わり。
彼の視線が、客席へと向けられた。
その目が、リディアのいる席を捉える。
ほんの一瞬。
けれど、確かに。
リディアは目を見開いた。
セレスタンの瞳が、わずかに柔らかくなったように見えたからだ。
以前の演奏会で、自分へ向けられたあの視線を思い出す。
あのときと同じように、胸が跳ねた。
彼は何も語らない。
ただ、旋律を途切れさせることなく、再び弓を動かした。
また、この音色に出会えた。
こうして再び、セレスタンの演奏を聴くことができた。
待っていてよかった。
心から、そう思った。
半年ぶりの旋律が、会場いっぱいに広がっていく。
最後の一音が消えた瞬間、会場は一瞬、静まり返った。
次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。
あちこちから称賛の声が飛び交い、指笛も鳴り響く。立ち上がって拍手を送る者も次々と現れ、会場は熱狂に包まれていった。
半年もの間、待ち望んでいた音色が、ついに戻ってきたのだ。
リディアもまた、立ち上がり、夢中で拍手を送っていた。
胸がいっぱいだった。
再びセレスタンの演奏を聴けたことが、ただただ嬉しい。
舞台の中央で、セレスタンは静かに観客を見渡した。
惜しみない拍手も、熱のこもった歓声も、すべてを受け止めるように、彼はゆっくりと頭を下げた。
鳴りやまない拍手の中、しばらくその姿勢を保っていた彼が、やがて顔を上げる。
そして――黒い仮面へと、そっと手を添えた。
その仕草に、観客たちの歓声が少しずつ静まっていく。
リディアもまた、彼の手元に目を留めた。
いったい、何を……?
長い間、その素顔を隠してきた仮面。
セレスタンは、ほんのわずかなためらいも見せず、それをゆっくりと外した。
その下から現れたのは、さらりと流れる銀色の髪と、深い青の瞳。
リディアは、その顔を知っていた。
何度も会い、言葉を交わしてきた人の顔。
けれど、どうして今、その人の顔が舞台の上にあるのか――。
理解が追いつかないまま、リディアは舞台の上の彼を見つめた。
「……アレクシス……様……?」
会場に、どよめきが広がった。
思いがけない出来事に、観客たちは互いに顔を見合わせた。
セレスタンが素顔を明かすなど、誰も予想していなかったのだろう。驚きと戸惑いが会場のあちこちに広がっていく。
けれど、アレクシスは周囲の反応を気に留めることなく、リディアを見つめた。
そして、ゆっくりと歩き出し、舞台横の段を下りると、まっすぐ彼女のもとへ向かう。
客席の人々が、不思議そうに彼の姿を目で追う。
アレクシスは迷うことなく進んでいった。
その姿を見つめながら、リディアの唇がかすかに震える。
彼が目の前まで来ても、リディアはその場に立ち尽くしていた。
つい先ほどまで、彼女も周囲の観客とともに拍手を送っていた。
けれど、今はもう、手を動かすことさえ忘れてしまっていた。
ただ、銀色の髪と深い青の瞳を見つめていた。
「あ……アレクシス様……?」
確かめるように名前を呼ぶ。
アレクシスは、ほんの少し困ったように微笑んだ。
「……はい」
聞き慣れた声だった。
何度も隣で聞いてきた、穏やかで落ち着いた声。
その声が、今は舞台の上から聴いていたセレスタンの音色と、ひとつにつながっていく。
リディアの瞳が揺れた。
「……セレスタン様……?」
アレクシスは一瞬だけ目を伏せた。
「……ええ」
照れたような、それでいてどこか覚悟を決めたような微笑みを浮かべる。
「……はい」
その答えを聞いた瞬間、リディアの中で、ばらばらだった記憶が一気につながった。
初めて会ったときから、アレクシス様は音楽の話を嫌がらなかった。
セレスタンの演奏について夢中で語る自分を、いつも穏やかな顔で聞いてくださった。
演奏会の途中で席を外したこともあった。
セレスタンが自分に向けてくれたと思っていた、あの小さな合図。
湖畔の屋敷で、左手だけで奏でてくださった美しいリラの音色。
そして、手紙に添えられていた言葉。
――次の演奏会をお楽しみに。
まさか。
まさか、ずっと……?
思い返すほどに、頬が熱くなっていく。
セレスタンがどれほど素晴らしい楽師なのか、何度も語った。
どの演奏が好きなのか、どんな音色に心を動かされたのか、細かなところまで熱心に話した。
そのすべてを、隣にいたアレクシス様が聞いていらしたのだ。
「……ちょっと……」
「……ちょっと待ってください!」
リディアは両手で顔を覆った。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
恥ずかしい。
とにかく、恥ずかしい。
これまでの自分の言動を思い出すと、今すぐどこかに隠れてしまいたくなる。
けれど、それ以上に――。
胸の奥には、驚きと一緒に、言葉にできないほど大きな感情が渦巻いていた。
ずっと憧れてきた人。
その音色を、何年も追いかけてきた人。
そして今、自分の目の前にいるのは、結婚相手として出会ったアレクシス様。
別々の人だと思っていたふたりが、ひとりの人だった。
リディアは顔を覆ったまま、何も言えずにいた。
アレクシスもまた、彼女を急かすことはしなかった。
ただ、目の前に立ち、彼女が落ち着くのを静かに待っている。
やがて、彼は少しだけ声を落とした。
「……リディア嬢」
名前を呼ばれ、彼女の肩が小さく揺れる。
「触れる許可を……いただけますか」
その言葉に、リディアはゆっくりと顔を上げた。
まだ頬は赤い。瞳には戸惑いが残っている。
それでも、目の前の彼から視線をそらさなかった。
ほんの少し迷ったあと、リディアは小さくうなずいた。
アレクシスはそっと腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
突然のことに、リディアの身体は一瞬だけ強張った。
けれど、すぐに力が抜けていく。
目の前にある胸元から、いつもの香りがした。
演奏会の帰り道に隣を歩いたときも。
湖畔で、リラの音色を聴かせてくれたときも。
いつだって、彼はアレクシス様だった。
そして、セレスタン様でもあった。
「……申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
頭上から、申し訳なさそうな声が降ってくる。
リディアは彼の胸元に顔を寄せたまま、小さく首を振った。
「……驚いたのは、そうですけれど……」
その先は、まだ言葉にならなかった。
聞きたいことは、たくさんある。
どうして仮面をつけていたのか。
どうして正体を明かさなかったのか。
あの演奏会も、あの湖畔のリラも、あの手紙も。
ひとつずつ確かめたい。
けれど、今はまだ、うまく言葉にできそうになかった。
一方、会場では、ふたりの様子を見守っていた観客たちの間に、少しずつざわめきが広がり始めていた。
舞台を下りた楽師が、ベルフォール侯爵令嬢に歩み寄り、その名を呼ばれ、抱きしめている。
その光景を見て、ようやく気づき始めた者もいた。
「……今、アレクシス様って呼ばなかった?」
「えっ、アレクシス様って、ヴァレンティン公爵家の?」
「じゃあ、まさか……セレスタンって……」
驚きの声が、会場のあちこちへと広がっていく。
けれど、アレクシスはその声に振り返らなかった。
リディアもまた、周囲のざわめきに気づいてはいても、今は彼の腕の中から離れようとはしなかった。
会場では、人々の驚きも、戸惑いも、少しずつ大きくなっている。
けれど、ふたりの間には、静かな時間が流れていた。
仮面の向こうにいた人が、ずっと隣にいた人だった。
その事実を、リディアはまだ受け止めきれずにいる。
それでも、腕の中にいる彼の温もりだけは、確かだった。




