第五章 ・ 思慕
王宮の東翼にある、小さな談話室。
窓辺の長椅子に腰掛けたレオンハルトは、向かいに座るアレクシスを眺めながら、手にしていた紅茶のカップをソーサーに戻した。
「ところで、アレクシス」
「なんですか? 殿下」
「セレスタンの演奏、そろそろ聴きたいんだが」
あまりにも率直な言葉に、アレクシスは思わず眉を上げた。
「……急になんです?」
「急じゃないだろう。最後の演奏会から、もう半年だぞ」
「半年……」
口に出してみると、思っていた以上に長い時間だった。
右手の怪我は、とうに治っている。
弓を持つことも、指を動かすことも、もう問題はない。
それでも、アレクシスはセレスタンとして舞台に立っていなかった。
「あの音色を半年も聴けていないのは、なかなか寂しいものだ」
「……殿下、セレスタンのファンだったんですか」
「今さら何を言っている。おまえの演奏会を、私がどれだけ楽しみにしているか知っているだろう」
「知りませんでした」
「嘘をつけ」
レオンハルトは呆れたように笑った。
幼い頃から知っている従兄の、こういうところは昔から変わらない。
王太子としての立場を離れれば、レオンハルトは遠慮なくアレクシスにものを言う。
セレスタンのことも、彼がただの気まぐれで始めた道楽ではないと、誰よりもよく知っていた。
「それに、母上も気にしていたぞ。セレスタンはいつ戻ってくるのか、と」
「……王妃様までですか」
アレクシスが小さく息を吐くと、レオンハルトは楽しそうに笑った。
けれど、その笑みはすぐに穏やかなものへと変わった。
「まあ、急かすつもりはない。おまえにはおまえの事情があるのだろう」
「……はい」
「ただ、ひとつ教えてくれ」
レオンハルトは、まっすぐにアレクシスを見つめた。
「おまえはもう、弾きたくないのか?」
アレクシスは、すぐには答えられなかった。
弾きたくないわけではない。
楽器を手に取れば、指は自然と動く。旋律を思い浮かべれば、頭の中には音が鮮やかに広がる。
音楽そのものを嫌いになったことなど、一度もなかった。
ただ、黒い仮面をつけ、セレスタンとして舞台に立つ自分を思い描くと、以前のように心が動かなかった。
「……わかりません」
ようやく口にした答えは、自分でも驚くほど正直なものだった。
「弾きたくないわけではありません。でも、以前と同じように舞台に立てるかと聞かれると……自信がないんです」
「以前と同じである必要があるのか?」
「え?」
「おまえは、いつもそうだ。何かを始めると、納得できる形になるまで徹底的にこだわる。セレスタンもそうだったのだろう」
レオンハルトは、カップの中で揺れる紅茶に目を落とした。
「だが、半年も経てば、人の気持ちだって変わる。おまえ自身が変わったのなら、演奏だって変わっていいんじゃないか」
アレクシスは黙って聞いていた。
「……まあ、これはセレスタンファンとしての意見だがな」
「最後に余計なことをつけ加えないでください」
「大事なことだろう?」
レオンハルトは悪びれもせず笑った。
レオンハルトはそれ以上、セレスタンの復帰を求めなかった。
けれど、帰りの馬車に乗り込んだあとも、アレクシスの心には、従兄弟の問いが残り続けていた。
――おまえはもう、弾きたくないのか?
答えは、まだ見つからなかった。
◆
数日後。
アレクシスはリディアを誘い、王都で開かれる室内楽の演奏会へ出かけた。
セレスタンの出演する演奏会ではない。宮廷楽師と、近頃評判の若い演奏家たちによる、小規模な催しだった。
会場は、貴族たちが音楽を楽しむために設けられた瀟洒な音楽堂だった。大広間ほど華やかではないものの、磨き上げられた床や柔らかな色合いの壁紙が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
客席に並んで腰を下ろすと、リディアはプログラムを開いた。
「今回は弦楽器が中心なのですね」
「ええ。前半は弦楽四重奏、後半はヴィオラ・ダ・ガンバも加わる編成だそうです」
「まあ。それは楽しみです」
リディアの顔がぱっと明るくなる。
その表情を見て、アレクシスも自然と笑みを浮かべた。
彼女は、本当に音楽が好きなのだ。
誰かに勧められたからでも、貴族令嬢として教養を示すためでもない。旋律を聴き、その響きから何かを感じ取ること自体を楽しんでいる。
それは、セレスタンの演奏会に来ていたときも、こうして別の演奏家の音楽を聴いているときも変わらなかった。
やがて、楽師たちが舞台に現れた。
最初の曲は、穏やかな旋律が幾重にも重なっていく、繊細な弦楽四重奏だった。
リディアは背筋を伸ばし、音楽に耳を傾けた。
第一ヴァイオリンが主旋律を奏でると、ヴィオラがその後ろを支え、チェロが深い響きを添える。旋律が受け渡されるたびに、曲全体の表情が少しずつ変わっていった。
曲が終わると、リディアは小さく息をついた。
「素敵でしたね」
「ええ。特に中盤、チェロが主旋律を受け取るところが印象的でした」
「私もそう思いました。最初はヴァイオリンの音色が曲を引っ張っているのに、チェロに旋律が移った途端、同じ曲なのに景色が変わるようでした」
「景色、ですか」
「はい。最初は陽の光が差し込む庭のようだったのに、途中から木陰に入ったような……。でも、暗くなるわけではないのです。少しだけ、落ち着いた気持ちになるというか」
リディアは言葉を探すように、プログラムの端を指でなぞった。
「同じ旋律でも、誰がどんな音色で奏でるかによって、受け取る印象が変わるのですね」
「そうですね」
アレクシスは、彼女の横顔を見つめた。
音楽を聴いたあと、彼女はいつもこうして、自分の中に生まれた感情を丁寧に言葉にする。
演奏の巧拙だけではない。どの音に心を動かされ、どんな景色を思い浮かべたのか。
彼女の話を聞くことは、アレクシスにとっても、ひとつの楽しみになっていた。
「アレクシス様は、どのように感じられましたか?」
「私は……」
答えようとして、少し考える。
「旋律が受け渡されるたびに、同じ言葉を違う人が語っているように感じました。それぞれの楽器に違う個性があるからこそ、ひとつの曲に奥行きが生まれるのでしょうね」
「まあ……素敵な表現です」
「リディア嬢の言葉を聞いて、私も考えたくなっただけですよ」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「こうして、演奏会のあとに感想をお話しできるのも楽しいですね。同じ曲を聴いていても、感じ方は少しずつ違いますから」
「私も、そう思います」
アレクシスは穏やかに答えた。
以前は、誰かと音楽を聴きに行くこと自体、さほど多くなかった。
セレスタンとして舞台に立つときは、演奏する側だった。客席にいる人々が何を感じているのか、想像することはあっても、ひとりひとりに尋ねる機会はない。
けれど、リディアと一緒に演奏会へ出かければ、同じ音楽を聴き、互いの感想を交わすことができる。
そんな時間が、思っていた以上に心地よかった。
後半の演奏が終わる頃には、窓の外の陽も傾き始めていた。
最後の曲は、ヴィオラ・ダ・ガンバが主旋律を担う、静かで美しい作品だった。
深く柔らかな音色が、ほかの弦楽器の響きと溶け合っていく。
リディアは、最後の一音が消えるまで、じっと舞台を見つめていた。
やがて演奏が終わり、客席から拍手が湧き起こる。
リディアも微笑みながら手を叩いた。
「本当に素晴らしかったです」
「お気に召したようですね」
「はい。特に最後の曲は、もう一度聴きたいと思いました。ヴィオラ・ダ・ガンバの音色は、深いのに、どこか人の声に似ている気がします」
「人の声、ですか?」
「ええ。言葉にはならないけれど、何かを伝えようとしているような……そんな響きがあるのです」
アレクシスは、ふと黙った。
自分もまた、音楽で何かを伝えようとしてきた。
けれど、いまの自分は何を伝えたいのだろう。
その問いが浮かんだとき、客席のあちこちで人々が立ち上がり始めた。
リディアもプログラムを閉じ、膝の上に置いていた手袋を手に取る。
そのときだった。
視線が、ほんの一瞬だけ、舞台袖へと向いた。
演奏を終えた楽師たちが退場していく。その向こうに、次の演奏家が現れる気配はない。
リディアは、すぐにアレクシスのほうへ視線を戻した。
――また、いつか聴けるかしら。
心の隅に、そんな思いがよぎった。
セレスタンの音楽を、もう半年も聴いていない。
今でも、彼の演奏を思い出すことはある。あの深い音色や、旋律の合間に生まれる独特の間。最後の一音が消えたあとも、しばらく心に残り続ける余韻。
どうして演奏会に現れなくなったのか、理由はわからない。
ただ、また元気な姿で舞台に立ってくれたらいいと、そう思っていた。
けれど、その気持ちは、いま目の前にいるアレクシスとの時間を損なうものではなかった。
こうして一緒に音楽を聴き、感想を交わす時間も、リディアにとって大切なものになっている。
アレクシスは、彼女の視線が舞台袖へ向かったことに気づいていた。
ほんの一瞬のことだった。
何かを探すようにも見えたが、すぐに戻ってきた彼女の表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
彼は何も尋ねなかった。
「参りましょうか」
「はい」
アレクシスが差し出した手に、リディアはそっと自分の手を重ねた。
◆
帰りの馬車の中。
窓の外には、夕暮れの街並みが流れていた。店先には明かりが灯り始め、通りを行き交う人々の姿も、昼間とは少し違って見える。
「今日はありがとうございました、アレクシス様」
リディアが、向かいに座る彼へ微笑みかけた。
「とても楽しかったです」
「それなら、よかった。私も楽しめました」
「また、こうして演奏会にご一緒できたら嬉しいです」
「もちろんです。リディア嬢がお好きそうな演奏会を見つけたら、お誘いしますよ」
「ふふ、楽しみにしています」
リディアは嬉しそうに笑った。
アレクシスも、つられるように口元を緩める。
彼女と一緒にいると、音楽を楽しむということが、少し違った意味を持つようになった。
演奏することだけが音楽ではない。
誰かと聴き、感じたことを話し、相手の言葉から自分にはなかった景色を見つける。
そんな楽しみ方があることを、彼はリディアと過ごすうちに知った。
そして、彼女の隣にいるときの自分を、以前よりも気に入っていることにも気づいていた。
セレスタンではなく、アレクシスとして。
公爵家の跡継ぎでも、仮面の天才楽師でもなく、ただひとりの人間として。
彼女と過ごす時間は、そんな自分を許してくれるような気がした。
それでも、心のどこかには、まだ答えの出ない問いが残っていた。
自分はもう一度、セレスタンとして舞台に立ちたいのだろうか。
その答えは、馬車がヴァレンティン公爵家の屋敷に到着しても、見つからなかった。
◆
その夜。
夕食を終えたアレクシスは、自室に戻ると、しばらく書斎の机に向かっていた。
けれど、手元の書類を読んでいても、文字が頭に入ってこない。
ふと窓の外へ目を向ける。
夜の帳が降りた庭には、月明かりが淡く差し込んでいた。
静かな夜だった。
アレクシスは椅子から立ち上がり、部屋の奥へと歩いていった。
そこには、長らく開けていない楽器ケースが置かれていた。
ヴィオラ・ダ・ガンバ。
セレスタンとして舞台に立つとき、いつも手にしていた楽器だ。
彼はケースの前で立ち止まった。
蓋を開ければ、すぐに楽器が目に入るだろう。
弓を持ち、弦に触れれば、音を奏でることだってできる。
何も難しいことはない。
それなのに、ここ数か月、アレクシスはその蓋を開けることさえためらっていた。
楽器を見れば、きっと弾きたくなる。
そして弾いてしまえば、また自分が何者なのか、考えずにはいられなくなる。
セレスタンとして音楽を奏でていた自分。
アレクシスとして、リディアと穏やかな時間を過ごしている自分。
どちらも自分自身なのに、いまは以前のように、ふたつの顔を簡単に使い分けることができなかった。
「……困ったものですね」
小さく呟き、アレクシスはケースの留め具に手をかけた。
かちり、と音がする。
蓋を開くと、見慣れた楽器が静かに横たわっていた。
弦も、木の艶も、以前と変わらない。
アレクシスはそっと楽器を取り出し、椅子に腰掛けた。
膝の上に構える。
弓を手に取る。
その一連の動作は、身体が覚えていた。
まるで、昨日も演奏していたかのように自然だった。
彼はまず、弦をひとつずつ確かめるように音を出した。
低く、柔らかな響きが部屋に広がる。
次に、調弦を整える。
弦の張り具合を確かめ、わずかなずれを直し、もう一度音を出す。
耳を澄ませる。
問題はなかった。
指も動く。弓の運びも滑らかだった。怪我をする前と何ひとつ変わっていない。
アレクシスは、試しに短い旋律を奏でてみた。
それは、セレスタンとして何度も演奏してきた曲の一節だった。
指は迷うことなく音をたどり、弓は弦の上を流れていく。
久しぶりに奏でたはずなのに、音は驚くほど鮮明だった。
やがて彼は、もう少し長く弾いてみようと思った。
曲の続きを奏でる。
旋律は静かに部屋を満たし、途切れることなく流れていった。
最後の音を弾き終えたとき、アレクシスはしばらく動かなかった。
――弾ける。
当たり前のことだった。
それでも、改めて確かめる必要があったのだろう。
自分の指は、まだ音楽を覚えている。
この楽器を弾くことを、身体は忘れていない。
彼は楽器を構え直した。
今度は、別の曲を弾いてみる。
少し前に演奏した曲。さらに昔、セレスタンとして初めて舞台に立った頃に弾いた曲。
ひとつ弾き終えるたびに、次の曲が頭に浮かんだ。
気がつけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
それでも、アレクシスは楽器をケースに戻さなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
時計の針は、とうに日付が変わったことを示していた。
アレクシスは弓を下ろし、指先を軽く動かした。
疲労はある。
けれど、もう弾くのをやめようとは思わなかった。
彼は、今日の演奏会を思い出していた。
リディアが、音楽を聴きながら目を輝かせていたこと。
同じ旋律を聴いても、自分とは違う景色を思い浮かべていたこと。
そして、最後の曲について、音色が人の声に似ていると話してくれたこと。
言葉にならない何かを、音楽で伝えようとしているようだった、と。
アレクシスは、もう一度弦に弓を当てた。
今度は、決まった曲を弾くつもりではなかった。
ただ、頭の中に浮かんだ音を、ひとつずつ確かめる。
低い音から、ゆっくりと旋律を組み立てる。
少し弾いては止まり、音の並びを考える。
別の音を重ね、気に入らなければ最初からやり直す。
それは、かつて新しい曲を作るときに、何度も繰り返していた作業だった。
けれど、今夜の彼は、いつもとは少し違っていた。
以前なら、頭の中に明確なイメージを描き、それを音にすることを考えていた。
だが今は、弾きながら、音がどこへ向かうのかを探している。
静かな湖畔。
月明かりに照らされた水面。
隣に座り、楽しそうに音楽について語るリディアの横顔。
彼女が、左手だけで奏でたリラの音色を美しいと言ってくれたこと。
自分の大切な場所を、彼女も好きになりたいと言ってくれたこと。
思い出すたび、旋律の表情が変わった。
穏やかな音が続いたかと思えば、ふと、胸の奥にある何かを掬い上げるような響きが生まれる。
寂しさだけではない。
喜びだけでもない。
大切なものが増えていくことへの戸惑いと、それでも手放したくないと思う気持ち。
それらが、まだ名前のない旋律の中に、少しずつ溶け込んでいった。
アレクシスは、夢中になっていた。
弾いて、止まり、考える。
そしてまた、弾く。
時間の感覚は薄れていた。
以前から、音楽に没頭すると周囲が見えなくなることはあった。
けれど、こんなふうに、何かに導かれるように弾き続けたのは久しぶりだった。
ようやく窓の外が白み始めた頃、アレクシスは弓を止めた。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
部屋には、夜通し奏でられた音の余韻が、まだ残っているような気がした。
アレクシスは楽器を膝に置いたまま、しばらくその場に座っていた。
指先に、かすかな疲れを感じる。
けれど、胸の奥は不思議なほど満たされていた。
こんなにも長い時間、弾き続けていたことに、自分でも驚いていた。
復帰するかどうか。
セレスタンとして、もう一度舞台に立つのか。
その答えは、まだ出ていない。
仮面をつけて、人々の前に立つ自分を想像しても、以前と同じ気持ちにはなれなかった。
けれど――。
アレクシスは、膝の上の楽器を見つめた。
音楽を奏でている間、彼は何も考えずにいられた。
誰かに期待されているからでもない。
セレスタンという名前を守らなければならないからでもない。
ただ、弾きたかった。
音を探し、旋律を紡ぎ、その先にある何かを見つけたかった。
それだけだった。
「……そうか」
小さく呟く。
自分は、音楽が好きなのだ。
その気持ちは、何ひとつ消えていなかった。
アレクシスは、ゆっくりと息を吐いた。
それから、まだ完成していない旋律を、もう一度だけ奏でた。
夜明けの光の中で、柔らかな音色が静かに広がっていく。
最後の一音が消えたあとも、彼はしばらく弓を下ろさなかった。
指先がじんじんと疼いていた。
弦を押さえていた指をそっと曲げる。皮膚が擦れ、熱を持っている。半年もの間、ほとんど触れていなかったのだから、無理もない。
それでも、弾いている最中は気にならなかった。
痛みを忘れるほど、夢中になっていたのだ。
アレクシスは赤くなった指先を見つめ、苦笑した。
「……少し、やりすぎたな」
そう呟きながらも、胸の奥は不思議なほど満たされていた。




