第四章 ・ 消失
今日はセレスタンが出演する演奏会の日。
リディアは朝から、どこか落ち着かなかった。
鏡の前で髪飾りを選び、ドレスを決め、何度も手帳を開いては、今夜の演奏会の予定を確かめる。
鏡に映る自分を眺めながら、リディアは自然と頬を緩めた。
「……今夜は、どんな曲を聴かせてくださるのかしら」
セレスタンの演奏会。
それは、リディアにとって何よりも心待ちにしていた時間だった。
初めて彼の音楽を聴いて以来、演奏会へ通うことは生活の一部になっていた。
あの深く、温かみのある音色。弓が弦をなぞるわずかな違いで変わる旋律の表情。静かな曲の奥に潜む、言葉にならない感情。
聴くたびに新しい発見がある。
そして最近は、もうひとつ楽しみが増えていた。
アレクシスと過ごした時間を思い返すこと。
初めて庭を歩いた日のこと。隣で一緒に演奏を聴いた夜のこと。そして、美術街で訪れたギャラリーで、月光の湖畔という絵画を見たこと。
いつか、あの湖へ一緒に行こう。
そう約束してくれたアレクシスの声を思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。
「お嬢様、そろそろお支度を終えませんと」
侍女のマリーに声をかけられ、リディアははっと我に返った。
「あら、もうそんな時間?」
「ええ。今夜はよほど楽しみなのですね」
マリーが微笑む。
リディアは少し恥ずかしくなり、ショールの端を整えた。
「だって、セレスタン様の演奏会ですもの」
「はいはい。存じておりますよ」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
やがて馬車の準備が整い、リディアは屋敷を出た。
夕暮れの街には、夜の社交へ向かう人々の姿が見える。
馬車の窓から流れる景色を眺めながら、リディアは今夜の曲目を思い浮かべていた。
また知らない曲だろうか。
それとも、以前演奏した曲を、新しい気持ちで聴かせてくれるのだろうか。
どちらにしても、楽しみだった。
今夜もまた、セレスタンの音楽に触れられる。
その喜びを胸に、リディアは演奏会場へと向かった。
◆
会場には、すでに多くの聴衆が集まっていた。
上品な衣装をまとった貴族たちが談笑し、開演を待っている。壁に飾られた燭台の灯りが、磨き上げられた床を柔らかく照らしていた。
リディアは案内された席に腰を下ろすと、まず舞台へ目を向けた。
演奏者のための椅子。譜面台。そして、中央に用意された楽器。
いつもと変わらない光景だった。
やがて開演を告げる鐘が鳴り、客席のざわめきが静まっていく。
最初の演奏者が登場し、優雅な旋律が会場を満たした。
リディアは音楽に耳を傾けながらも、心のどこかで待っていた。
このあと、セレスタンが現れる。
仮面をつけ、ヴィオラ・ダ・ガンバを携えて舞台へ上がる、あの姿を。
そして、彼の奏でる音色が、今夜も自分の心をどこか遠くへ連れていってくれることを。
演奏が終わり、拍手が響く。
次の演奏者が登場した。
リディアは、曲目の順番を思い返す。
セレスタンの出番は、次のはずだった。
胸が弾む。
書き留めるため、膝の上に置いた小さな手帳のページをそっと開いた。
そのときだった。
舞台袖から、進行役の男性が現れた。
彼は客席の中央へ向かって一礼すると、静かな声で告げた。
「皆様に、お知らせがございます」
会場の空気が、わずかに変わった。
「本日出演を予定しておりましたセレスタン氏は、やむを得ない事情により、出演を見合わせることとなりました」
一瞬、リディアは言葉の意味を理解できなかった。
セレスタン様が。
出演を、見合わせる。
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
「……え?」
思わず、小さな声がこぼれた。
周囲の聴衆も、驚きを隠せない様子だった。
「セレスタン氏が欠席だって?」
「いったい、どうしたのだろう」
「これまで、こんなことはなかったが……」
ざわめきが広がっていく。
リディアは舞台を見つめたまま、動けなかった。
何かの間違いではないだろうか。
急な事情があったとしても、少し遅れて登場するのではないだろうか。
けれど、進行役はそれ以上の説明をすることなく、深く一礼して舞台袖へ戻っていった。
その夜、セレスタンは現れなかった。
演奏会はそのまま続いた。
別の演奏者たちが美しい音楽を奏で、聴衆はそれぞれに拍手を送った。けれどリディアの視線は、どうしても舞台袖へ戻ってしまう。
あの場所に、彼はいない。
何かあったのだろうか。
体調を崩されたのかしら。それとも、ご家族に何か……?
考えても、答えは出なかった。
セレスタンは、何もなく演奏会を欠席するような人ではない。
少なくとも、リディアが知る限り、彼はいつも舞台に立っていた。
どれほど大勢の聴衆が集まっても、どれほど期待が寄せられても、仮面の楽師は変わらず自分の音楽を奏でてきた。
その彼が、姿を見せなかった。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
演奏会が終わる頃には、リディアの手帳にはほとんど何も書き込まれていなかった。
帰りの馬車の中でも、彼女は窓の外を眺めていた。
楽しみにしていた夜だった。
けれど、今は音楽の余韻よりも、ひとつの疑問が頭から離れない。
「……どうなさったの?」
誰に聞かせるでもなく、リディアは呟いた。
答える者はいなかった。
◆
その頃、ヴァレンティン公爵家の屋敷では、アレクシスが書斎の椅子に腰掛けていた。
窓の外はすっかり暗くなっている。
机の上には、医師が置いていった薬と、包帯の替えが用意されていた。
右手の指は、まだ包帯に覆われている。
剣の稽古で負傷した直後、アレクシスは大したことではないと思っていた。
少し休めば、翌日の演奏会には間に合うかもしれない、と。
けれど、診察した医師の見解は違った。
細かな指の動きを必要とする楽器を弾くのは、しばらく控えるべきだという。
無理に演奏すれば、回復を遅らせる可能性がある。
そう告げられたとき、アレクシスは反論しなかった。
演奏できないことを認めるのは、簡単ではなかった。
それでも、無理に舞台へ立つわけにはいかない。
セレスタンとしての出演は、取りやめるしかなかった。
机の端には、黒い仮面が置かれている。
いつもなら、演奏会の前には楽器の状態を確かめ、曲の細部を思い返し、舞台へ向かう準備を整えていた。
今夜は、その必要がない。
静かな書斎に、時計の針が進む音だけが響いていた。
アレクシスは、包帯の巻かれた手を見つめた。
演奏会は、もう終わった頃だろう。
聴衆は失望したに違いない。
そして――。
彼は、ふと考える。
あの令嬢は、どうしただろう。
セレスタンの演奏会を、誰よりも楽しみにしていた彼女。
舞台を見つめる、あの真剣な眼差し。
新しい曲を聴けば、誰よりも深く耳を傾け、演奏のわずかな違いさえ見つけてくれる。
今夜も、客席にいたはずだ。
自分が現れなかったことに、驚いただろうか。
がっかりしただろうか。
そう考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
自分が演奏できないことを、残念に思うのは当然だった。
けれど、それだけではない。
彼女の期待を裏切ってしまったことが、思いのほか気にかかっている。
「……困ったものだな」
アレクシスは小さく呟いた。
以前の自分なら、ここまで気にすることはなかっただろう。
セレスタンの音楽を聴いてくれる人々を大切に思ってはいた。けれど、特定の誰かがどんな顔をするかまで、こんなにも気にかけたことはなかった。
今は違う。
彼女が、どう感じたのか知りたい。
そう思ってしまう。
アレクシスは目を閉じ、椅子の背にもたれた。
指の痛みは、まだ残っている。
けれど、それ以上に心に引っかかっているものがあった。
音楽を届けられなかったこと。
そして、彼女の前にセレスタンとして現れなかったこと。
今夜はただ、怪我のせいで舞台に立てなかっただけだ。
指が治れば、また演奏できる。
そう考えていた。
このときは、まだ。
◆
翌朝、セレスタンの欠席は、貴族たちの間で小さな話題になっていた。
理由は公表されていない。
体調不良ではないかという者もいれば、何らかの事情で王都を離れているのではないかと推測する者もいた。
確かなことは、誰にもわからなかった。
リディアは朝食を終えると、自室へ戻り、机の上に置いた手帳を開いた。
昨夜の演奏会について書き留めるつもりだった。
けれど、ページを開いても、何を書けばよいのかわからない。
そこにあるのは、予定していた曲目と、開演時刻だけ。
セレスタンの演奏について書くはずだった余白は、空いたままだった。
リディアはペンを手に取った。
そして、しばらく迷ったあと、短く書き込んだ。
――セレスタン様、出演見合わせ。
それだけ書くと、ペン先が止まった。
どうして。
その言葉を書き足そうとして、やめた。
理由はわからない。
わからないまま、彼が現れなかったという事実だけが残っている。
リディアは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
また、あの音色を聴きたい。
それは変わらない。
けれど今は、ただ寂しいだけではなかった。
何かあったのなら、無事でいてほしい。
また元気に舞台へ戻ってきてほしい。
そう、心からそう願っていた。
◆
ヴァレンティン公爵家の領地にある湖は、午後の光を静かに映していた。
風が吹くたび、水面に細かな波紋が広がる。湖を囲む木々は緑を深め、遠くの森からは鳥のさえずりが聞こえてきた。
「……本当に、絵のとおりなのですね」
リディアは湖畔に立ち、感嘆の息を漏らした。
以前、王都の画廊で見た絵画『月光の湖畔』。深い青の森と、月明かりを受けて輝く湖。その静けさの中に、言葉にできない温かさが宿っているような絵だった。
今、目の前にある景色は、あの絵の面影を確かに残している。
「絵の中では、もっと静かで、少し寂しい場所に見えました。でも……実際に来てみると、寂しいだけではないのですね」
リディアが水面を眺めながら言うと、隣に立つアレクシスが彼女を見た。
「寂しいだけではない、ですか」
「はい。静かなのに、どこかほっとするんです。ずっとここにいたくなるような……そんな感じがします」
「私も、ここに来ると落ち着きます」
アレクシスは湖へ視線を戻した。
「子どもの頃から、何度も訪れている場所ですから。考え事をしたいときも、何も考えたくないときも、ここに来ていました」
「アレクシス様にとって、大切な場所なのですね」
「ええ」
彼は穏やかに微笑んだ。
「だから、あなたにも見ていただきたかったのです」
その言葉に、リディアの胸が温かくなる。
自分の好きなものを知ってほしいと思うのと同じように、アレクシスもまた、自分にとって大切な場所を見せたいと思ってくれた。
それが、何より嬉しかった。
「ありがとうございます。私、アレクシス様のお好きなものを、もっと知りたいです」
リディアが素直にそう告げると、アレクシスは一瞬、言葉を失った。
彼女は気づいていない。
何気なく口にしたその言葉が、彼にとってどれほど嬉しいものだったのか。
「……それなら、もう少しだけ付き合っていただけますか?」
「もちろんです」
アレクシスは彼女を湖畔の小道へと案内した。
木々の間を抜けた先には、湖を見渡せる小さな東屋があった。そこから少し歩けば、別荘の庭へと続いている。
ふたりは景色を楽しみながら、ゆっくりと別荘へ戻った。
別荘の小さなサロンには、古い家具と、手入れの行き届いた調度品が並んでいた。窓からは湖の一部が見え、陽の光が床に柔らかな模様を落としている。
その片隅に、リディアが見慣れない楽器を見つけた。
「これは……?」
「リラといいます。小さい頃、ここに来ると時々触っていました」
アレクシスは楽器のそばへ歩み寄り、そっと弦に触れた。
「ずいぶん長いこと弾いていませんでしたが」
「アレクシス様が、演奏なさるのですか?」
「少しだけ。今は右手を使えませんから、片手で弾けるものがないかと思いまして」
右手にはまだ包帯が巻かれている。怪我は回復に向かっているものの、医師からは無理をしないよう念を押されていた。
アレクシスは椅子に腰を下ろし、左手でリラを構えた。
そして、ふとリディアを見上げる。
「セレスタンには敵いませんが、一曲、お耳汚しを」
「まあ……!」
リディアは思わず笑みをこぼした。
「お耳汚しだなんて。アレクシス様の演奏を聴けるなんて、嬉しいです」
アレクシスは照れたように目を細め、弦に指を置いた。
最初の一音が、サロンに静かに響く。
高音の澄んだ音色だった。
指が弦を弾くたび、柔らかな響きが重なり、短い旋律が生まれていく。片手だけで奏でるため、複雑な和音や華やかな装飾はない。
それでも、次にどの音を置けば旋律が最も美しく響くのか、彼は迷わなかった。
音と音の間に生まれる静けささえ、音楽の一部のようだった。
それは、湖畔の景色によく似合う旋律だった。
どこか懐かしく、穏やかで、聴いていると胸の奥がじんわりと温かくなる。
リディアはいつしか聴き入っていた。
演奏が終わる。
最後の音が消えても、しばらくのあいだ、リディアは何も言わなかった。
「……素晴らしいです……とても美しい曲ですね」
やがて、彼女はそっと口を開いた。
アレクシスは、わずかに目を見開いた。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
「音色が、外の湖と溶け合うようでした。聴いているうちに、さっき見た景色まで、少し違って感じられるんです」
リディアは窓の向こうを見つめた。
「ここがアレクシス様にとって大切な場所だということも、少しわかった気がします。……今、私もその思い出の一部を分けていただいたような気がして」
アレクシスは、すぐには答えられなかった。
彼はこれまで、幾度となく人前で演奏してきた。技術を褒められることも、音色を称賛されることも珍しくはない。
けれど、今のリディアの言葉は、それらとは違っていた。
彼女はただ、演奏が上手だと言ったのではない。
彼がこの場所で過ごしてきた時間まで、音楽を通して感じ取ろうとしてくれたのだ。
「……あなたに聴いていただけて、よかった」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
リディアは少し頬を染め、嬉しそうに微笑む。
「また、聴かせていただけますか?」
「もちろんです。次は、もう少し長い曲を」
「楽しみにしていますね」
その笑顔を見て、アレクシスは心の奥が静かに満たされるのを感じた。
リディアに聴いてほしい。
自分の音を、彼女のために。
そんな気持ちが、自然に湧き上がっていた。
◆
湖畔での一日から、数日が過ぎた。
アレクシスは書斎の窓辺に座り、右手をゆっくりと握ったり開いたりしていた。
包帯は、もうない。
医師からも、日常生活に支障はなく、演奏も少しずつなら再開してよいと告げられていた。
試しに指を動かしてみる。痛みはない。動きに引っかかりもなく、以前と変わらず滑らかだった。
「ようやく、ですね」
アレクシスは小さく呟いた。
長く休んでいたヴィオラ・ダ・ガンバを手に取る日が来たのだ。
彼は楽器をケースから取り出し、丁寧に調弦した。
弦の張りを確かめ、弓を手にする。
久しぶりの感触だった。
そして、静かに弓を滑らせた。
低く、深みのある音色が書斎に満ちる。
続いて旋律を奏でる。指は迷わず動き、弓の運びも滑らかだった。長年積み重ねてきた技術は、少しも失われていない。
音程も、音のつながりも、思い描いたとおり。
怪我をする前と何も変わらなかった。
ひとつの曲を最後まで弾き終え、アレクシスは弓を下ろした。
これなら、演奏会に戻れる。
セレスタンとして、舞台に立てる。
そう思うのが当然のはずだった。
けれど、胸の内に湧き上がったのは、安堵だけではなかった。
もう一度、仮面をつける。
正体を隠し、名前を伏せ、観客の前に立つ。
その光景を思い描いたとき、彼の心は不思議なほど静かだった。
以前なら、舞台に戻れることを考えるだけで、胸が高鳴ったはずなのに。
アレクシスは楽器を見つめた。
セレスタンとして演奏することは、彼にとって大切なものだった。
公爵家の跡取りという立場から離れ、ただ音楽だけで人々とつながることができる。誰も彼の家柄を知らず、彼もまた、周囲の期待に応える必要がない。
仮面の下では、自由でいられた。
その時間を失いたいわけではない。
音楽をやめたいわけでもない。
それなのに、なぜ今は戻る決心がつかないのだろう。
ふと、湖畔での出来事が脳裏をよぎった。
リラを片手で奏でたとき。
リディアは、真剣な眼差しで彼の音楽を聴いてくれた。
そして、言ってくれたのだ。
ここがアレクシスにとって大切な場所だということが、少しわかった気がすると。
彼女は、セレスタンの名も、仮面も必要としなかった。
ただ、アレクシスが奏でる音を聴き、その音に込められた思いを受け取ってくれた。
あのときの喜びが、まだ胸に残っている。
セレスタンとして舞台に立つことと、アレクシスとして誰かに音楽を聴かせること。
今まで、彼の中では、それぞれ別のものだった。
けれど、本当にそうなのだろうか。
「……私は、何を迷っているのでしょうか」
小さく呟いても、答えは出なかった。
もし、リディアが真実を知ったら。
自分がセレスタンだと知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。怒るだろうか。
それとも、あの熱心な眼差しで、自分を見つめるのだろうか。
彼女が愛しているのは、仮面の向こうにいるセレスタンの音楽だ。
では、アレクシス自身は?
自分の音楽を聴いてほしいと願う気持ちは、同じなのだろうか。
答えを見つけられないまま、アレクシスは楽器をケースへ戻した。
演奏する力は戻った。
けれど、舞台に戻る心の準備は、まだできていなかった。
◆
一方、ベルフォール侯爵邸では、リディアが自室の机に向かっていた。
机の上には、いつもの愛用の手帳が開かれている。
セレスタンの演奏会について書き留めるための、大切な手帳だ。
けれど、ここしばらくは新しい記録が増えていなかった。
「……セレスタン様、どうなさっているのかしら」
ぽつりと呟き、リディアはペンを置いた。
演奏会で、セレスタンは姿を現さなかった。
その日から一ヶ月、仮面の楽師は表舞台から消えてしまった。
やむを得ない事情があったのだろう。そう思ってはいるものの、理由がわからない以上、やはり気になってしまう。
体調を崩されたのだろうか。
何か困ったことが起きたのだろうか。
考えても、答えが出るはずはなかった。
「……また、素敵な演奏を聴かせていただけたらいいな」
リディアはそう言って、手帳を閉じた。
心配ではあるけれど、今の自分にできることは、セレスタンが無事でいてくださるよう願うことくらいだ。
それに、日々の暮らしには、楽しみなことがほかにもある。
先週の湖畔での時間を思い出すと、自然と頬が緩んだ。
アレクシス様が弾いてくださったリラの音色。
自分の大切な場所を見せてくれたこと。
そして、また演奏を聴かせてくださるという約束。
思い返すだけで、胸が温かくなる。
そのとき、侍女のマリーが一通の手紙を運んできた。
「リディアお嬢様。アレクシス様からお手紙が届いております」
「まあ!」
リディアは顔を輝かせた。
封蝋にはヴァレンティン公爵家の紋章が押されている。
丁寧に封を開き、便箋を取り出す。見慣れた端正な筆跡が目に入り、リディアは思わず笑みを浮かべた。
手紙には、湖畔で過ごした時間への礼と、怪我がすっかり回復したことが綴られていた。
『リディア嬢
先日は、湖畔で楽しい時間をありがとうございました。
おかげさまで、指の怪我もすっかり回復いたしました。
またお会いできる日を楽しみにしております。
楽器の練習をしておきますので、次の演奏会をお楽しみに。
アレクシス・ヴァレンティン』
「……ふふ、アレクシス様ったら」
リディアは便箋を胸元に寄せ、くすりと笑った。
演奏会だなんて、ずいぶん大げさな言い方をなさるのね。
けれど、あのときのリラの音色を思い出せば、次はどんな曲を聴かせてくださるのだろうと、期待せずにはいられない。
それに、また会える。
また、アレクシス様の好きなものを知ることができる。
そして今度は、自分の好きなものについても、もっと話してみたい。
リディアは手紙を大切に折りたたみ、机の引き出しにしまった。
次に会える日が、今から楽しみだった。




