第三章 ・ 約束
王宮の東翼にある小さな談話室には、午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。
窓辺の長椅子に腰掛けたレオンハルト王太子は、手元の書類から顔を上げると、向かいに座るアレクシスを眺めた。
「それで、ベルフォール侯爵令嬢とはどうだ?」
「どう、とは?」
「とぼけるな。婚約者候補との仲は順調なのかと聞いている」
レオンハルトは穏やかな笑みを浮かべた。
アレクシスとは幼い頃から共に過ごしてきた。一つ年下の従弟であり、友人でもある彼が、必要以上に感情を表に出さない男だということもよく知っている。
だからこそ、最近のアレクシスには少しばかり興味があった。
「先日、王宮の夜会で一緒に過ごしました。今度は王都の美術街を案内する予定です」
「ほう。ずいぶんと熱心だな」
「婚約者候補なのだから、互いを知る機会を作るのは当然です」
「それはそうだが」
レオンハルトは素直にうなずいたあと、わずかに目を細めた。
「ところで、お前は彼女の好きなものを知っているのか?」
「音楽を好んでいる。演奏会にはよく足を運ぶそうだ。絵画や美術品にも詳しい」
「なるほど。では、彼女がお前の好きなものを知る機会は?」
アレクシスは、すぐには答えなかった。
「……それは、これから」
「そうか」
レオンハルトはカップを持ち上げた。
「相手を知るのは大切だが、自分のことを知ってもらうのも同じくらい大切だ。お前は少し、自分のことを話すのが苦手だからな」
「余計なお世話です」
「幼い頃から知っている従兄の助言だ。ありがたく受け取っておけ」
アレクシスは小さく息をついた。
けれど、レオンハルトの言葉を否定する気にはなれなかった。
「……参考にさせてもらいます」
「それはよかった」
レオンハルトは満足そうに笑った。
「美術街の散策が、実りあるものになるといいな」
「いきなりなんですか」
「さてな」
レオンハルトはそれ以上追及せず、再び書類に目を落とした。
アレクシスも立ち上がり、談話室を後にした。
次にリディアと会うときには、彼女の知らない自分の一面も、少しは見せてみよう。
そんなことを考えながら。
◆
約束の日。
王都の西側に広がる美術街は、貴族や裕福な商人たちが好んで訪れる、落ち着いた雰囲気の一角だった。
磨き上げられた石畳の両側には、由緒ある画廊や宝飾店、骨董品を扱う店が並んでいる。店先の看板も派手さを競うものではなく、家紋や繊細な装飾が施された品のよいものばかりだった。
ヴァレンティン公爵家の馬車が、予約していた画廊の前に静かに停まった。
先に降りたアレクシスが手を差し出すと、リディアはその手を取り、優雅に馬車を降りた。
今日は淡い藤色のドレスに、薄い銀糸を織り込んだショールを合わせている。華美すぎない装いだったが、上質な生地と繊細な刺繍が、侯爵令嬢らしい気品を引き立てていた。
アレクシスは微笑んだ。
「本日は、私の行きつけの画廊にご案内しようと思いまして」
「アレクシス様の行きつけなのですか?」
「ええ。ここには、個人的に気に入っている作品が何点かあるのです」
リディアの瞳が輝いた。
「まあ……楽しみですわ」
その表情を見て、アレクシスは自分の選択が間違っていなかったことを知った。
画廊の扉が開かれると、静謐な空気が二人を迎えた。
高い天井から柔らかな光が落ち、壁には風景画や肖像画、静物画が間隔を十分に取って飾られている。どの作品も、作者の名声だけで選ばれたものではない。構図や筆致、色彩の扱いに優れた品々が、画廊主の確かな審美眼によって集められていた。
出迎えた画廊主は、二人に恭しく一礼した。
「ヴァレンティン公爵令息。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。ゆっくり拝見させていただきます」
「もちろんでございます。どうぞ、ご自由にお楽しみください」
案内を受けながら、リディアは一枚一枚の絵に目を向けた。
ある肖像画では、人物の表情よりも手元の描写に感心し、別の静物画では、果実に落ちる影の微妙な色の変化に足を止めた。
「この画家は、光の扱いが本当に巧みですわね」
リディアは、窓辺に置かれたガラスの花瓶を描いた作品の前で言った。
「透明なガラスそのものを描くというより、そこを通り抜ける光と、周囲に映る色で形を浮かび上がらせているのですね。花瓶の輪郭が必要以上に強調されていないのに、存在感があります」
「なるほど。輪郭ではなく、光で形を見せているのですね」
「はい。写実的でありながら、どこか柔らかい印象があるのも、そのためだと思います」
アレクシスは作品を見つめ、それからリディアに視線を戻した。
音楽について語るときと同じだ。
彼女はただ美しいと感嘆するだけではない。どうして美しいと感じるのかを、自分の言葉で丁寧に解き明かそうとする。
「リディア嬢は、絵画を学ばれたのですか?」
「家庭教師から教わりましたし、父が美術品を好みますので、幼い頃からよく見ておりました。けれど、知識を増やすことよりも、自分が何を感じるのかを大切にしたいと思っています」
「それは、音楽についても同じですか?」
「ええ。技術や作曲の背景を知ることも大切ですけれど、それだけでは説明できないものがありますでしょう?」
リディアは少し考え、微笑んだ。
「絵画でも音楽でも、作者が何を考えていたのか、何を伝えたかったのか。そういうことを想像するのが好きなのです。たとえ、正解がわからなくても」
アレクシスは、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
正解がわからなくても、想像する。
それは、彼がセレスタンとして音楽を奏でるとき、聴衆に望んでいることでもあった。
すべてを理解してほしいわけではない。
ただ、自分の音から何かを受け取ってもらえたなら。
それだけで、演奏する意味があると思えるのだ。
「……素敵な考え方ですね」
思わず口にした言葉に、リディアは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます」
二人はさらに奥へと進んだ。
そして、最後の展示室に差しかかったとき。
リディアの足が、ふと止まった。
そこに飾られていたのは、月明かりに照らされた湖畔の風景画だった。
湖面には銀色の光が細く伸び、対岸には濃紺の森が静かに広がっている。水辺には一本の木が立ち、その枝が夜空へ向かって伸びていた。
華やかな色彩はない。
それなのに、目を離しがたい絵だった。
リディアは、しばらく何も言わずに見つめていた。
「……美しいですね」
やがて、静かにそう口にした。
アレクシスも絵に目を向けた。
作品の題名は『月光の湖畔』。作者は、風景画の分野で高く評価されている老画家だった。
「お気に召しましたか?」
「はい。静かな絵なのに、寂しいだけではないのですね」
リディアは一歩近づいた。
「湖面の光はとても冷たく見えるのに、森の奥にはわずかに温かみのある色が残されています。それに、この木の周りには何も描かれていないでしょう? だからこそ、ここに立っている木が、ずっと何かを見つめているように感じられます」
彼女は少し首を傾けた。
「誰かを待っているのかもしれませんし、大切な思い出を抱えているのかもしれません。けれど、悲しみに沈んでいるというより……その思いを胸に抱いたまま、静かに前へ進もうとしているような気がします」
アレクシスは息を止めた。
その言葉は、あまりにも思いがけないところに触れていた。
彼は、この風景を知っている。
ヴァレンティン公爵家の別荘からほど近い場所にある湖だ。
幼い頃から何度も訪れた。公爵家の跡取りとして振る舞うことに疲れたときも、誰にも言えない思いを抱えたときも、あの湖のそばに座れば、不思議と心が静まった。
夜の湖面に月が映る様子を眺めながら、楽器を手にしたこともある。
まだ誰にも知られていない旋律を、ひとつずつ音にしていったことも。
セレスタンとして奏でる曲の中には、あの場所で生まれたものがある。
この絵を描いた画家が、どの季節に湖を訪れたのかは知らない。
けれど、描かれた風景には、アレクシス自身が感じてきたものと通じる何かがあった。
そして今、リディアもまた、その絵から何かを感じ取っている。
「……そのように感じられたのは、どうしてですか?」
アレクシスは、できるだけ平静な声で尋ねた。
リディアは彼を振り返った。
「どうして、と言われると難しいのですけれど……」
もう一度、絵に視線を戻す。
「この絵を見ていると、セレスタン様の音楽を思い出すのです」
心臓が、ひとつ大きく脈打った。
「セレスタン氏の?」
「はい。以前、演奏会で聴いた曲にも、こんな雰囲気のものがありました。静かで、少し切なくて……でも、最後まで聴くと、どこかに温かいものが残るのです」
リディアは、懐かしいものを思い出すように微笑んだ。
「悲しいだけの音楽ではないのですよね。まるで、失いたくないものを大切に抱えながら、それでも明日へ進んでいくような……そんな気持ちになるのです」
アレクシスは、すぐに返事をすることができなかった。
彼女が話しているのは、自分が作った曲のことだ。
誰にも明かしていない思いを、音に託したもの。
それを彼女は、曲が生まれた場所も知らず、作曲者が誰なのかも知らないまま、ここまで受け取っている。
偶然なのだろうか。
それとも、彼女の感性が、彼の音楽に込めたものを捉えているのだろうか。
「……リディア嬢は、セレスタンの音楽を本当に大切に聴いているのですね」
ようやくそう言うと、リディアは少しだけ頬を赤らめた。
「ええ。もちろんですわ」
そして、照れくささを隠すように絵へ向き直った。
「ですから、この絵が好きなのかもしれません。音楽を聴いたときに感じたものと、似た何かがあるのです」
アレクシスは彼女の横顔を見つめた。
彼女はまだ知らない。
自分が思いを込めて作った旋律と、この風景がつながっていることを。
けれど、彼女は確かに、彼が大切にしてきたものの一端に触れていた。
そのことが、思いのほか嬉しかった。
「実はこの湖は、ヴァレンティン公爵領にあるのです」
アレクシスは、絵から目を離さずに言った。
「公爵家の別荘から、それほど遠くない場所に」
「まあ……そうなのですか?」
リディアは驚いて、彼を見上げた。
「アレクシス様は、実際にご覧になったことがおありなのですね」
「ええ。何度も」
彼は、絵に描かれた湖面の光を見つめた。
「私にとっても、思い出のある場所です」
それは、彼が今日、リディアに初めて明かした自分自身のことだった。
リディアはその言葉を大切に受け止めるように、そっと微笑んだ。
「そうなのですね……。アレクシス様にとって、大切な場所なのですね」
「はい」
それ以上は語らなかった。
けれど、リディアは無理に尋ねようとはしなかった。
ただもう一度、絵を見つめる。
その沈黙が、不思議と心地よかった。
しばらくして、アレクシスは彼女へ向き直った。
「……もし、よろしければ」
「はい」
「いつか、一緒に行きませんか?」
リディアは目を見開いた。
「この絵のモデルになった場所へ、ですか?」
「ええ。実際にご覧になれば、きっと気に入られると思います」
アレクシスは、ほんの少しだけ笑った。
「私がご案内します」
一瞬、リディアは言葉を失った。
アレクシスの大切な場所。
それも、彼自身が何度も訪れてきたという場所へ、一緒に行こうと誘ってくれたのだ。
それは単なる観光のお誘いよりも、ずっと特別なことのように思えた。
「……ぜひ、ご一緒させてください」
リディアの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当に、楽しみですわ」
「では、約束ですね」
「はい。約束です」
アレクシスは、彼女の嬉しそうな笑顔を見つめた。
あの湖のそばで、彼女はどんな表情を見せるのだろう。
月明かりに照らされた水面を見たら、何を感じるのだろう。
そして、もしもあの場所で自分が楽器を手にしたなら、彼女はどんなふうに耳を傾けてくれるのだろう。
そこまで考えて、アレクシスは小さく息をついた。
まだ、何も決まっていない。
けれど、いつか彼女をあの場所へ連れていきたいと、そう思った。
◆
画廊を出た二人は、予約していた会員制のサロンへ向かった。
公爵家や侯爵家の人々が商談や社交に利用するその店は、表通りの喧騒から少し離れた場所にあった。
案内された個室には、繊細な金彩を施した磁器のカップと、銀のティーポットが用意されていた。窓辺には季節の花が飾られ、テーブルの上には小さな菓子が美しく並べられている。
紅茶が注がれると、リディアはカップを手に取り、ほっと息をついた。
「とても素敵な画廊でしたわ。お誘いいただいて、本当にありがとうございます」
「楽しんでいただけたなら何よりです」
「特に、あの湖の絵が忘れられません」
リディアはカップをソーサーへ戻した。
「絵を見ているだけなのに、そこに流れる時間まで感じられるようでした。実際の景色は、もっと美しいのでしょうね」
「そうですね。季節によっても、ずいぶん印象が変わります」
「春や夏も素敵でしょうけれど……私は、月の出ている夜に見てみたいですわ」
アレクシスは、わずかに目を細めた。
「月の出ている夜、ですか」
「はい。あの絵のように、湖面に月の光が映るところを見てみたいのです」
「でしたら、なおさらご案内しなくてはいけませんね」
その言葉に、リディアは嬉しそうに笑った。
それから二人は、今日見た作品について語り合った。
リディアは画家ごとの筆致や構図の違いを話し、アレクシスは建築や美術品の配置によって空間の印象が変わることについて意見を述べた。
彼もまた、ただ家柄にふさわしい教養として美術を身につけているわけではなかった。
作品が置かれる場所や、光の入り方、周囲との調和。
そうした細部にまで目を向ける彼の話は、リディアにとっても興味深かった。
「アレクシス様とお話ししていると、同じ作品でも違う見方ができるのですね」
「私も、リディア嬢のお話から学ぶことが多いですよ」
「本当ですか?」
「ええ。私が見落としていたものに、気づかされることがあります」
アレクシスは、彼女の目をまっすぐに見た。
「今日もそうでした」
リディアは少し驚いたあと、はにかむように微笑んだ。
彼の言葉は、社交辞令のようには聞こえなかった。
自分が好きなものを、こんなふうに真剣に受け止めてもらえる。
そして、自分の話を聞いたうえで、彼自身の考えも聞かせてもらえる。
それが、こんなにも楽しいことだとは思わなかった。
◆
帰りの馬車が用意される頃には、窓の外の光も傾き始めていた。
画廊で見た絵画のこと。
アレクシスが語ってくれた美術品のこと。
そして、いつか一緒に湖を訪れるという約束。
リディアの心には、今日の思い出がいくつも残っていた。
「本日は、本当に楽しかったです」
馬車へ乗り込む前に、リディアはアレクシスを振り返った。
「アレクシス様のお好きなものを、少し知ることができた気がします」
「私も、リディア嬢のことを以前より知ることができました」
アレクシスは穏やかに答えた。
「また、ご一緒しましょう」
「はい。ぜひ」
リディアが馬車に乗り、扉が閉じられる。
窓越しに彼女が微笑むのを見届けてから、アレクシスは一礼した。
やがて馬車がゆっくりと走り出す。
その姿が通りの向こうへ消えるまで見送ってから、アレクシスはふと空を見上げた。
今日は、あの湖の絵を久しぶりにじっくりと見た。
何度も訪れた場所なのに、リディアが語った言葉を聞いてから思い返すと、少し違った景色に思える。
あの湖を、彼女と一緒に眺める日が来る。
そう考えると、不思議と心が弾んだ。
まだ見せていない自分の一面を、少しずつ彼女に知ってもらいたい。
そして、自分もまた、彼女の知らない一面をもっと知りたい。
アレクシスは、交わした約束を大切にするように、静かに微笑んだ。
月光の湖畔を、今度は二人で訪れる。
いずれその日が来ること、いつの間にか楽しみなっていた。
◆
午後の陽射しが、ベルフォール侯爵家の客間に柔らかな光を落としていた。
窓辺には淡い色の花が飾られ、磨き上げられた銀のティーセットからは、淹れたばかりの紅茶の香りが漂っている。
リディアはソファに腰掛け、向かいに座る親友のクラリスを見つめていた。
「それでね、最後の展示室にあった絵画が本当に素敵だったの!」
話し始めてから、もうずいぶん経つ。
けれどリディアの声は、少しも勢いを失っていなかった。
「月光の湖畔、という作品だったの。深い青の森と、静かな湖が描かれていて……月明かりが水面に落ちているところなんて、息を呑むほど美しかったわ」
「へえ。それは見てみたいわね」
クラリスは紅茶をひと口飲み、にこやかに頷いた。
リディアとは幼い頃からの付き合いだ。彼女が美しい絵画を前にすると、どれほど熱心に語り始めるかもよく知っている。
だから、ここまではいつもどおりだった。
問題は、そのあとである。
「それで、アレクシス様がね、その湖はヴァレンティン公爵家の領地にあるのだと教えてくださったの」
「……あら」
クラリスの手が、カップの縁で止まった。
「それで?」
「子どもの頃から、何度も訪れていらっしゃる場所なのですって。思い出のある場所だとおっしゃっていたわ」
「それで?」
「……クラリス、さっきから同じことしかおっしゃっていないわ」
「だって、そこがいちばん大事なところでしょう?」
クラリスはカップをソーサーに戻した。
そして、期待に満ちた目でリディアを見つめる。
「まさか、それだけで終わったわけじゃないわよね?」
リディアは、ふっと頬を緩めた。
「ええ。いつか、一緒に行きませんか、と誘ってくださったの」
「まあ!」
クラリスは身を乗り出した。
「それで、あなたは?」
「もちろん、お受けしたわ」
「もちろん、ねえ……」
意味ありげな声に、リディアは首を傾げる。
「何かしら?」
「いいえ、別に?」
クラリスは笑顔で紅茶を飲んだ。
その表情を見たリディアは、ようやく何かがおかしいと気づいたらしい。
「……クラリス?」
「はい、リディアお嬢様」
「その顔はやめてちょうだい」
「あら、どんな顔かしら?」
「何かを企んでいる顔よ」
「失礼ね。私はただ、友の幸せを願っているだけなのに」
「幸せって……」
リディアは言葉を詰まらせた。
するとクラリスは、ここぞとばかりに微笑んだ。
「ねえ、リディア」
「……何?」
「あなた、アレクシス様のことが好きになってきたんじゃない?」
リディアの手から、カップが危うく滑り落ちそうになった。
「なっ……!」
慌てて持ち直し、テーブルの上に置く。
「何をおっしゃるの、突然!」
「突然じゃないわ。ずっと思っていたもの」
「ずっとって……いつから?」
「そうねえ。アレクシス様と演奏会に行った話をしていたときから、少し怪しいと思っていたのよ」
リディアは目を瞬かせた。
「でも、あのときはセレスタン様の演奏が素晴らしかったから……!」
「ええ、ええ。あなたがセレスタン様をどれほどお好きか、私はよーく存じ上げておりますとも」
クラリスは大真面目に頷いた。
「初めて演奏を聴いた時から、毎回のように演奏会へ通って、曲目や演奏の細かな違いまで手帳に書き留めていらっしゃるものね」
「それは、セレスタン様の音楽を理解したいからよ。演奏を聴くたびに新しい発見があるのだもの」
「はいはい。そこは疑っていないわ」
クラリスはくすくすと笑った。
「でもね。最近のあなたは、セレスタン様のお話をしているときと同じくらい、アレクシス様のお話をしているのよ」
「……え?」
「しかも、アレクシス様のことを話しているときのあなたは、少し違うの」
「違う?」
「ええ。なんだか、とても楽しそう」
リディアは、思わず黙り込んだ。
楽しかった。
美術街を一緒に歩いたことも、絵画について語り合ったことも、会員制のサロンでお茶を飲みながら話したことも。
アレクシスは、リディアの好きなものをただ聞いてくれるだけではなかった。
彼自身の考えを話してくれた。リディアが気づかなかった美しさを教えてくれた。そして、彼自身の大切な思い出がある場所へ、いつか一緒に行こうと誘ってくれた。
あの約束を思い出すと、胸の奥がふわりと温かくなる。
「……アレクシス様は、とてもお優しい方なの」
リディアは、そっと言った。
「私が大切にしているものを、否定なさらないわ。それに、ご自分のことも少しずつお話しくださるの。私ばかりが話しているのではなくて、アレクシス様のことも知ることができるのが……嬉しいのよ」
「うん」
「一緒にいると、思っていた以上に自然にお話しできるし……」
そこまで言って、リディアは口を閉じた。
クラリスが、実に優しい顔でこちらを見ていたからだ。
「……何?」
「いいえ。続きをどうぞ?」
「もう、からかわないで!」
リディアは頬を赤くして抗議した。
クラリスは笑いながらも、それ以上は茶化さなかった。
代わりに、少し声を落として尋ねる。
「ねえ、リディア。セレスタン様のことを考えるときと、アレクシス様のことを考えるとき。あなたの気持ちは、同じなの?」
リディアは、すぐには答えられなかった。
セレスタンの音楽は、ずっと彼女の心を捉えてきた。
初めてその音色を聴いた日のことを、今でも覚えている。弦から生まれる深い響き。静かな旋律の中に秘められた情熱。音が途切れたあとも、胸の奥に残り続ける余韻。
演奏会へ通うたびに、彼の音楽をもっと知りたいと思った。
彼がどんな人なのか、どんな思いであの音を奏でているのか。仮面の下にある素顔を想像したことだって、一度や二度ではない。
けれど。
アレクシスのことを考えるとき、胸に浮かぶものは少し違っていた。
彼がどんな音楽を好むのか、何を美しいと思うのか、どんな思い出を大切にしているのか。
もっと知りたい。
また会って、話をしたい。
あの湖へ一緒に行く日が、待ち遠しい。
そう考えている自分に気づくと、どうしてか、胸が落ち着かなくなるのだった。
「……わからないわ」
リディアは、正直に答えた。
「ただ、アレクシス様とお会いするのは楽しみなの。次はどんなお話ができるのかしらって、考えてしまうこともあるわ」
「そう」
クラリスは、穏やかに頷いた。
「それなら、今はそれでいいんじゃない?」
「え?」
「無理に答えを出す必要はないでしょう? 将来結婚するかもしれない人として、知り合った方なのだから、これからもっと知っていけばいいのよ」
リディアは、ほっとしたように微笑んだ。
「……そうね。ありがとう、クラリス」
「どういたしまして」
クラリスは、そこでにっこりと笑った。
「でも、ひとつだけ言わせてちょうだい」
「何かしら?」
「あなたが湖へ行く日を、今からそんなに楽しみにしているのなら、そのときはきっと、今日よりもっと素敵な顔をしていると思うわ」
「クラリス!」
リディアの抗議に、クラリスは声を上げて笑った。
ひとしきり笑ったあと、二人はしばらく近況を語り合った。
クラリスは社交界で耳にした噂話を披露し、リディアは最近読んだ美術書について話した。幼い頃から何度も繰り返してきた、気兼ねのない時間だった。
やがて、クラリスが帰る時刻になった。
玄関まで見送りに出たリディアは、馬車に乗り込む直前の親友に声をかけられた。
「リディア」
「何?」
「今度アレクシス様にお会いしたら、湖のお話をもっと聞かせていただくといいわ」
「……ええ。そうするわ」
「それから、自分の好きなものだけじゃなくて、自分の気持ちも、少しずつ伝えていくのよ」
リディアは、瞬きをした。
クラリスはいつもの明るい笑みを浮かべていたが、その瞳は真剣だった。
「相手のことを知るのと同じくらい、自分のことを知ってもらうのも大切でしょう?」
「……そうね」
「では、またね。次に会うときには、もう少し進展していることを期待しているわ」
「もう、クラリスったら!」
リディアが頬を膨らませると、クラリスは楽しそうに手を振り、馬車へ乗り込んだ。
馬車が門を出ていくのを見送ってから、リディアはひとり、庭へと戻った。
秋の風が木々の葉を揺らしている。
アレクシスと歩いた美術街。月光の湖畔。そして、いつか一緒に訪れると約束した湖。
思い出すたびに、心が弾む。
「……次にお会いできるのは、いつかしら」
小さく呟いた声は、風に溶けて消えた。
リディアはまだ、その気持ちに名前をつけることができない。
けれど、次にアレクシスと会える日を、心待ちにしている自分がいる。
それだけは、もう否定できなかった。
◆
同じ頃、王宮の東棟にある談話室では、レオンハルトが向かいに座るアレクシスの右手に目を留めていた。
「……どうしたんだ? その手」
アレクシスは、包帯の巻かれた手を軽く持ち上げた。
「剣の稽古で、少し」
「剣の稽古?」
「手元が狂っただけです。大したことはありません」
レオンハルトは眉を上げ、包帯を眺めた。
「珍しいな。お前がそんな怪我をするなんて」
「誰にでもあることでしょう」
「まあ、そうだな」
レオンハルトは頷き、何かを思い出したように口元を緩めた。
「リディア嬢のことでも考えていたんじゃないのか?」
「……うるさいですよ」
あまりにも即座の返答だった。
「それはーー」
「違います」
「まだ何も言っていないが?」
レオンハルトは、笑いを漏らした。
アレクシスは黙って紅茶を口に運んだ。
レオンハルトは、しばらく楽しそうに彼を眺めていたが、やがて包帯の巻かれた手を指先で示した。
「おまえのお遊びも、しばらくお預けだな」
「うるさいですよ」
「二度も言わなくてもわかっている」
「殿下が同じようなことを二度おっしゃるからでしょう」
「おや。ずいぶん機嫌が悪いな」
「誰のせいだと思っているんですか」
レオンハルトは笑いながら、椅子の背にもたれた。
「まあ、楽師の指だ。無理はするなよ」
「ええ……わかっています」
今度の返事は、先ほどよりも静かだった。
アレクシスは、包帯に覆われた指へ視線を落とした。
明日は、セレスタンとしての演奏会が控えている。
指の痛みはまだ残っていたが、演奏できるかどうかは、医師の診断を待つしかない。
もし出られなければ、楽しみにしている聴衆を失望させることになるだろう。
そして、おそらく客席にいるはずの令嬢も。
舞台を真っすぐに見つめる、熱心な眼差し。
彼女は、明日の演奏会を楽しみにしているだろうか。
そう考えた瞬間、アレクシスは小さく息を吐いた。
――まったく。
いつから、自分はこんなにも彼女のことを考えるようになったのだろう。
答えはまだ、見つからなかった。




