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第一章 ・ 縁談



 翌朝。


 王都の東部に広がる貴族街の一角に、白亜の壮麗な屋敷が朝日に照らされていた。


 尖塔のある屋根に、手入れの行き届いた庭園。正門から玄関へと続く石畳の両脇には、季節の花々が美しく咲き誇っている。


 ここは、ベルフォール侯爵家の本邸。


 王国の建国時代から続く由緒正しい名門であり、代々、王家に忠誠を誓ってきた家柄である。


 そんな格式ある屋敷の一室で、リディア・ベルフォールは朝から真剣な表情を浮かべていた。


「……やっぱり、昨日の第三楽章の最後の部分が素晴らしかったわ」


 机の上に広げられているのは、上質な紙を綴じた一冊の手帳。


 表紙には何の文字も記されていない。


 けれど、その中身を見れば、持ち主がどれほど熱心な人物なのかは一目瞭然だった。


 過去三年間にわたる演奏会の日付と会場。


 セレスタンが演奏した曲目。


 曲ごとの特徴や、以前の演奏との細かな違い。


 さらには、彼が新しい曲を披露した際の感想まで、びっしりと書き込まれている。


 もはや記録というより、研究資料に近い。


 リディアは羽根ペンを手に取り、昨夜の演奏について新たな一文を書き加えた。


『《月影の誓い》。中盤から終盤にかけての旋律には、これまでにない強い意志が感じられた。まるで、誰かに何かを誓うような……』


 そこまで書いたところで、リディアはペンを止めた。


「……セレスタン様は、どんなお気持ちであの曲をお作りになったのかしら」


 想像するだけで、胸がいっぱいになる。


 音楽に込められた想いを、いつか本人に尋ねることができたなら。


 どんなに幸せだろう。


 そんなことを考えながら、リディアはもう一度、手帳に目を落とした。


 仮面の楽師セレスタンは、王国中で人気を集める謎の楽師だ。演奏会でその姿を見ることはできても、直接言葉を交わす機会はほとんどない。


 だからこそ、リディアは彼の音楽に耳を傾け、その想いを想像する時間を大切にしていた。



 ◆



「お嬢様」


 控えめなノックのあと、侍女のマリーが扉を開けた。


「朝食のお時間でございます。それと、旦那様がお食事のあと、書斎へお越しくださるようにと」


「お父様が?」


「はい。大切なお話があるそうです」


「大切なお話……?」


 リディアは首を傾げた。


 父から呼び出されること自体は珍しくない。


 領地のことや王宮での出来事を話すこともあれば、侯爵家の娘として知っておくべき事柄を教えられることもある。


 けれど、朝食の直後にわざわざ書斎へ呼ばれるとなると、少しばかり気になる。


 まさか。


 リディアの脳裏に、ある言葉が浮かんだ。


「……お見合い?」


 慌てて手帳を閉じる。


 ここ最近、父は何かにつけて結婚について話をするようになっていた。


 十八歳。


 侯爵令嬢としては、そろそろ婚約者が決まっていてもおかしくない年齢である。


 リディア自身、それは理解していた。


 良家へ嫁ぎ、両家の絆を深めることは貴族の娘に求められる役割のひとつだ。


 けれど。


 けれど、である。


 セレスタンの演奏会に通うことは、今のリディアにとって何よりの楽しみだった。


 けれど、もし結婚することになったら、今までどおり演奏会へ足を運べるのだろうか。


 相手が音楽に理解のある方ならいいけれど、そうでなかったら。


「……演奏会は、これからも通いたいのだけれど」


「お嬢様、何かおっしゃいましたか?」


「いいえ、何でもないわ」


 リディアは手帳を引き出しの奥へしまい、鍵をかけた。


 父に呼ばれた理由が本当に縁談だったら。


 そう思うと、これからのことが少し気がかりだった。


 リディアは小さく息をつき、朝食へ向かう支度を始めた。



 ◆



 朝食を終えたリディアは、父の書斎へ向かった。


 重厚な扉を開けると、窓際の机に座っていた父、アルベルト・ベルフォール侯爵が顔を上げた。


 茶色の髪に、穏やかな灰青色の瞳。


 年齢を重ねても威厳を失わない父は、王宮でも信頼の厚い人物として知られている。


「来たか、リディア。座りなさい」


「はい、お父様」


 リディアはソファに腰を下ろした。


 父の向かいには、母のエレノアも座っていた。母は優雅に微笑んでいる。


 リディアは二人の様子を見ながら、静かに父の言葉を待った。


「実はな、リディア。お前に縁談の話が来ている」


 リディアは小さく息をついた。


 予想していたこととはいえ、いざ告げられると、少しばかり緊張する。


「……どちらの方なのですか?」


「ああ。先方はヴァレンティン公爵家だ」


「ヴァレンティン……公爵家?」


 その名に、リディアはわずかに目を見開いた。


 ヴァレンティン公爵家。


 王国でも指折りの名門であり、広大な領地と長い歴史を持つ貴族の家柄だ。


 王宮の要職を歴代務めてきた一族で、現当主も国王から厚い信頼を寄せられているという。


 ベルフォール侯爵家と同じく、王国の歴史に深く名を刻んできた家である。


 そんな家から、縁談が持ち込まれるとは。


「先方は、アレクシス・ヴァレンティン殿。二十歳で、次期公爵家当主となる方だ」


「二十歳……」


 リディアはその名と年齢を心の中で繰り返した。


 名前を聞いても、まだ具体的な人物像は浮かばない。


 貴族の名前なら、王宮の名簿や社交界の噂話で耳にすることもある。けれど、アレクシス・ヴァレンティンという青年について、彼女は詳しく知らなかった。


「お父上とは、以前から交流があってな。先日、正式にお話をいただいたのだ」


「お父様と公爵様は、お親しいのですか?」


「若い頃からな。ヴァレンティン公爵とは、王宮で共に仕事をしたこともある」


 父は一度言葉を切り、リディアを見つめた。


「もちろん、これはお前の人生に関わる話だ。親同士で勝手に決めるつもりはない。まずは一度、ご子息と会ってみてほしい」


 リディアは膝の上で指を組んだ。


 相手は公爵家の嫡男。


 家柄も申し分なく、年齢も離れていない。


 父の話から察するに、評判も悪くないのだろう。


 侯爵令嬢として考えれば、これ以上ないほど恵まれた縁談なのかもしれない。


 けれど、リディアは一度ためらい、それから意を決したように口を開いた。


「……お父様」


「何だ?」


「あの……ヴァレンティン公爵家のご子息様は、音楽が、お好きなのでしょうか?」


 父は一瞬、意外そうな顔をした。そして、母と視線を交わす。


「音楽か。たしか、幼い頃から楽器を嗜んでおられると聞いているが……」


「そうなのですね」


 リディアは静かに頷いた。


 音楽を嗜む方なら、演奏会に通う楽しみも理解していただけるだろうか。


 そうであれば、これからもセレスタンの演奏を聴きに行けるかもしれない。


「どのようなお人柄なのでしょう?」


「そうだな。非常に優秀で、冷静沈着。公爵家の後継者として申し分のない人物だと聞いている」


 父は満足そうに頷いた。


「容姿も整っているそうだぞ」


 リディアは、返答にわずかな間を置いた。


「……そうですか」


 それ以上は何も言わなかったが、父の言葉はしっかりと記憶に留めておいた。


 母が、そんな娘を面白そうに眺める。


「リディアは、ずいぶん熱心にお相手のことを尋ねるのね」


「これからお会いする方ですもの。少しでも知っておきたいと思うのは、当然ではありませんか?」


 リディアは穏やかに答えた。


「それもそうね」


 母は微笑んだまま、それ以上は追及しなかった。


 けれど、母の目にはまだ、どこか楽しげな色が残っていた。


「では、一週間後の午後、ヴァレンティン公爵家のご子息を屋敷にお招きしよう。まずは顔合わせということでな」


「一週間後、ですか」


 思っていたよりも早い日取りに、リディアはわずかに目を見開いた。


 急な話ではあったが、準備する時間がまったくないわけではない。


 侯爵令嬢として、初対面の相手に失礼があってはならない。ドレスを選び、身だしなみを整え、会話の話題も考えておく必要がある。


 相手は、公爵家の嫡男なのだから。


「承知いたしました、お父様。謹んでお会いさせていただきます」


 リディアは立ち上がると、背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。



 ◆



 父と母のもとを辞したリディアは、自室へ戻り、窓辺の椅子に静かに腰を下ろした。


 一週間後には、婚約者の候補であるアレクシス・ヴァレンティンと顔を合わせることになる。


 父の話では優秀で冷静沈着な人物らしい。実際に会えば、また違った印象を抱くかもしれない。


「お嬢様、お見合いのお召し物はどうなさいますか?」


 侍女のマリーに尋ねられ、リディアは少し考えた。


「そうね……初対面ですもの。失礼のない装いにしたいわね」


「では、いくつか候補をご用意いたしましょうか」


「ええ、お願いね」


 リディアは窓の外へ目を向けた。


 これから自分の人生を共に歩むかもしれない相手。どのような方なのか、会って話をするのが楽しみでもあった。


 ふと、彼女の頭に浮かんだのはセレスタンのことだった。


 彼の演奏会へ通うことは、リディアにとって何よりの楽しみだ。これからも変わらず、大切にしていきたい。


 ふと、父の話を思い出す。


「……楽器を嗜まれるのなら、音楽のお話もできるかしら」


 リディアはそう呟き、少しだけ表情を和らげた。


 まだ会ったこともない相手だ。実際にどうなるかは分からない。


 それでも、そんな小さな期待を胸に、一週間後の顔合わせを待つことにした。



 ◆



 翌週の午後。


 リディアは鏡の前で、何度も身だしなみを確かめていた。


 淡い水色のドレスに、控えめな真珠の耳飾り。いつもより丁寧に整えた髪には、小さな銀細工の髪飾りが添えられている。


「お嬢様、とてもお綺麗ですよ」


 侍女のマリーが微笑んだ。


「ありがとう、マリー。でも……少し憂鬱だわ」


「どのような方なのか、楽しみですね」


「楽しみではあるけれど、やっぱり緊張するものね。どんな方なのか、まだ何も分からないのだもの」


 リディアは鏡に映る自分の姿を見つめた。


 相手は名門ヴァレンティン公爵家の嫡男。両親の話では、優秀で冷静沈着な方らしい。


 けれど、実際に会ってみなければ、人柄までは分からない。


 どんな話をすればいいのだろう。失礼のないように振る舞えるだろうか。


 考え始めると、次々に気になることが浮かんでくる。


「……いつもどおりにしていればいいのよね」


 そう自分に言い聞かせ、リディアは最後に髪飾りの位置を整えた。


 それから、緊張を振り払うように小さく息を吐き、部屋を出た。



 ◆



 ベルフォール侯爵家の応接室に、アレクシス・ヴァレンティンが姿を現したのは、それから間もなくのことだった。


 濃紺の上着に、銀糸の刺繍。背筋の伸びた立ち姿と、落ち着いた物腰。


 銀色の髪と深い青の瞳が、彼の端正な顔立ちをいっそう際立たせている。


 リディアは思わず息をのんだ。


 ――綺麗な人……。


 噂には聞いていたけれど、実際に目の前にすると想像以上だった。


「初めまして、ベルフォール侯爵令嬢。アレクシス・ヴァレンティンです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。リディア・ベルフォールです」


 リディアは優雅に礼をした。


 その姿を見た瞬間、アレクシスの胸に、ある記憶が鮮明によみがえった。


 ラベンダー色のドレス。


 演奏が始まると、まるで一音も聞き逃すまいとするように舞台を見つめる紫の瞳。


 曲が終わったあとも、余韻が消えるまで席を立とうとしなかった、あの令嬢。


 ――彼女だったのか。


 アレクシスは表情を変えず、心の中で静かに確信した。


 セレスタンとして初めて舞台に立ってから三年。


 彼の演奏会には多くの観客が訪れてきたが、彼女の姿は特に印象に残っていた。


 いつも熱心に聴いてくれる。


 演奏の細かな変化にまで気づいているようで、曲によって表情が変わる。


 時には、こちらが少し戸惑うほど真剣な眼差しを向けてくることさえあった。


 ――あんな顔で聴かれると、弾きにくくなる。


 以前、舞台の上でそう思ったことを、アレクシスは思い出した。


 まさか、その令嬢が自分の見合い相手だったとは。


 もちろん、そんな驚きを顔に出すわけにはいかない。


「お噂は伺っております、ベルフォール侯爵令嬢」


「そ、そうなのですか?」


 リディアの頬がわずかに赤くなる。


 アレクシスほどの人物に、自分のことを知られているとは思わなかった。


「ベルフォール家は、長い歴史を持つ名門ですから」


「まあ……。我が家の歴史など、少し古いだけですわ」


「その『少し』が、なかなかの年月なのでは?」


 穏やかな口調で返され、リディアはくすりと笑った。


 思っていたよりも話しやすい人かもしれない。


 そんな印象を抱きながら、彼女は両親とともにアレクシスとの会話を続けた。


 しばらくして、二人は庭園を散策することになった。


 両親たちの勧めもあって、少し話をする時間を設けたのだ。


 秋の風が庭の木々を揺らし、整えられた花壇には季節の花が咲いている。


「ベルフォール家のお庭は、とても美しいですね」


「ありがとうございます。祖母が庭園を大切にしておりまして、季節ごとに花を植え替えているのです」


「なるほど。手入れが行き届いているのも納得です」


 アレクシスは庭を眺めながら、自然な調子で言った。


 会話に困ることはなかった。


 彼は相手の話をよく聞き、必要なところで言葉を返してくれる。家柄を鼻にかける様子もない。


 リディアは少しずつ緊張を解いていった。


「ご子息様は、普段どのようにお過ごしなのですか?」


「公爵家の仕事を学ぶことが中心ですね。父の執務を手伝ったり、領地の報告書を読んだり。あとは、個人的な勉強でしょうか」


「お忙しいのですね」


「そうですね。ただ、時間を忘れてしまうような趣味もありますよ」


「趣味、ですか?」


 リディアの瞳が、ぱっと輝いた。


 趣味。


 それは、彼女がぜひとも聞いてみたかった話題だった。


「差し支えなければ、どのような趣味なのか教えていただけますか?」


「そうですね……」


 アレクシスは、わずかに口元を緩めた。


「音楽に関わること、とだけ申し上げておきましょうか」


「まあ! 音楽!」


 リディアは思わず声を弾ませた。


 しまった、と思ったときには遅かった。


「あ……失礼いたしました。私、音楽が好きなものですから、つい」


「いえ。好きなことについて話すときは、自然と声が弾むものです」


 アレクシスは、彼女の反応を注意深く見ていた。


 演奏会で見かける彼女は、舞台に向かっているときこそ生き生きとしていた。


 今も音楽という言葉ひとつで、表情がぱっと明るくなった。


 その変わらなさが、なんだかおかしかった。


「ベルフォール侯爵令嬢は、どのような音楽がお好きなのですか?」


「いろいろ聴きますけれど……特に、古楽器の演奏が好きですわ」


「古楽器ですか」


「はい。なかでも、ヴィオラ・ダ・ガンバが大好きなんです」


 リディアは胸の前で、そっと手を重ねた。


「弦の響きがとても豊かでしょう? 低い音には深い落ち着きがあるのに、高い音になると、まるで声のように繊細で……。弓の使い方ひとつでも表情が変わりますし、同じ曲でも演奏する方によってまったく違う物語が生まれるんです」


 話し始めると、言葉が次々とあふれてくる。


「それに、旋律の間に生まれる沈黙も素敵で……音が止まっているのに、音楽が終わっていないように感じることがあって。そういう瞬間が、私、とても好きなんです」


 そこまで話して、リディアははっとした。


「……申し訳ありません。私ばかり話してしまいましたわ」


「いいえ。もっと聞きたいくらいです」


 アレクシスは、ごく自然に答えた。


 その言葉に嘘はなかった。


 彼女が語っているのは、単なる楽器の知識ではない。


 音をどう聴き、どこに心を動かされるのか。そのひとつひとつが、彼には興味深かった。


 そして、今の話を聞いて、確信はさらに深まった。


 この令嬢は、ただ演奏会に通っているだけではない。


 自分の音楽を、本当に聴いている。


「最近も演奏会へ?」


「えっ……」


 リディアの心臓が跳ねた。


 しまった。ここでその話題になるなんて。


「ええ、まあ……時々」


「お好きな楽師はいらっしゃいますか?」


 アレクシスの声は、あくまで穏やかだった。


 けれど、リディアにとっては難問だった。


 好きな楽師。


 そんなもの、決まっている。


 この三年間、彼女が最も心を奪われてきた演奏家。黒い仮面の向こうに素顔を隠し、ヴィオラ・ダ・ガンバを奏でる謎の楽師。


 セレスタン。


 名前を口にするだけで、胸の奥がくすぐったくなる。


 しかし、初対面の婚約者候補に向かって、いきなり推しへの愛を語るわけにはいかない。


「……何人か、気になる演奏家はおりますわ」


「そうですか」


「ええ。皆さん、それぞれに素晴らしい演奏をなさいますから」


 なんとか上品に取り繕ったものの、リディアは自分の返答が少し不自然だったことに気づいていた。


 アレクシスは、そんな彼女を見ていた。



 ――セレスタンの名を出さないのか。


 あれほど熱心に聴いてくれているのだから、話題に出れば真っ先に名前を挙げると思っていた。


 けれど、考えてみれば無理もない。


 ここにいるのは、演奏会場で夢中になっている一人の観客ではなく、侯爵家の令嬢として自分と向き合っている女性なのだ。


 彼女にも、彼女なりの慎みがあるのだろう。


 それにしても。


 舞台の上から何度も目にしてきたあの令嬢と、こうして庭園を歩いているというのは、なんとも不思議な気分だった。


 アレクシスは胸の内の笑みを隠し、話題を変えた。


「ご令嬢は、結婚後も音楽を楽しまれたいですか?」


 リディアは少し驚いたように彼を見た。


「……はい。できれば、これからも演奏会には通いたいと思っています」


 さっきまでの弾んだ声とは違い、今度は慎重な響きだった。


「もちろん、家の務めをおろそかにするつもりはありません。ただ……音楽は、私にとって大切なものですから」


 彼女はアレクシスの顔を見つめた。


 ここで否定されたら、きっと悲しい。


 結婚は家同士の結びつきでもある。自分の好きなことばかりを主張するわけにはいかないと、リディアも理解していた。


 それでも、セレスタンの演奏を聴く時間だけは、手放したくなかった。


「私は、あなたが大切にしているものを、理由もなく奪いたいとは思いません」


 アレクシスは静かに答えた。


「結婚するのであれば、お互いの生活や考え方を理解することが大切でしょう。私の望みだけを押しつけるつもりはありません」


「ご子息様……」


「もちろん、何もかもが思いどおりになるとは限りません。ですが、まずはお話しすることから始めたいと思っています」


 その言葉は、リディアの胸にすっと染み込んだ。


 華やかな家柄や美しい容姿だけではない。


 彼は、こちらの気持ちをきちんと聞こうとしてくれている。


 それが、何よりもうれしかった。


「ありがとうございます。わたくしも、あなたのお考えをきちんと知りたいです」


「ええ。私もそう思います」


 二人の間に、穏やかな空気が流れた。



 ◆



 庭園を一周し、応接室へ戻る頃には、リディアの緊張もすっかり和らいでいた。


 別れ際、アレクシスは彼女に向き直った。


「本日は、楽しい時間をありがとうございました」


「こちらこそ。私も、とても楽しかったです」


「音楽のお話も、また聞かせてください」


「……本当ですか?」


 リディアの顔が、思わず明るくなる。


 アレクシスは、その表情を見て微笑んだ。


「もちろんです。あれほど楽しそうにお話しされるのですから、聞いているこちらも楽しくなります」


「そ、そんなに話しておりましたか……?」


「少しだけ」


「まあ……」


 リディアは恥ずかしそうに目を伏せた。


 演奏会のこととなると、どうしても夢中になってしまう。初対面の相手にまで、それが伝わってしまったらしい。


 けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


「それでは、またお会いできる日を楽しみにしております」


 アレクシスが一礼する。リディアも丁寧に礼を返した。


「私もです、ヴァレンティン公爵子息様」


「よろしければ、アレクシスとお呼びください」


 リディアは少しだけ表情を和らげた。


「では、アレクシス様。わたくしのことも、リディアと呼んでいただけませんか?」


「ええ、喜んで。リディア嬢」


「はい。ありがとうございます、アレクシス様」


 二人は微笑みを交わし、最後にもう一度、丁寧に礼をした。


 アレクシスが両親に挨拶をして屋敷を後にすると、リディアは小さく息を吐いた。


 思っていたよりも、ずっと素敵な人だった。


 穏やかな物腰で、こちらの話を遮ることなく聞いてくれる。結婚後のことについても、リディアの希望を頭ごなしに否定せず、理解しようとしてくれた。


 別れ際には、互いを名前で呼び合う約束もした。思い返すと、自然と頬が緩む。


 アレクシスのことを、もっと知りたい。


 リディアは、彼との縁談を前向きに考えていた。



 ◆



 一方、屋敷を出たアレクシスは、馬車に乗り込む直前にふと足を止めた。


 思い浮かぶのは、庭園で音楽について語っていたリディアの姿。


 そして、演奏会場の薄暗がりの中、舞台を見つめていた彼女の真剣な眼差しだった。


 ――まさか、婚約者候補があの熱心な観客とは。


 アレクシスは小さく息を吐いた。


 リディアは、思っていたよりも話しやすく、好感の持てる女性だった。婚約者候補として、もう少し彼女を知りたいとも思う。


 しかしまだ、セレスタンとしての活動をやめるつもりはないし、その正体を誰かに明かすつもりもなかった。


 となれば、これから先、彼女の前でどう振る舞うべきか。


 少しばかり頭を悩ませながら、アレクシスは馬車へと乗り込んだ。

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