プロローグ
弦が、震えた。
王都の王立歌劇場。その舞台の中央に、ひとりの楽師が立っていた。
銀色の髪に、顔の上半分を覆う黒い仮面。
手にしているのは、古風な弦楽器――ヴィオラ・ダ・ガンバ。
彼の名は、セレスタン。
三年前、突如として王都の音楽界に現れた、謎多き天才楽師だった。
素顔も、家柄も、詳しい経歴も知られていない。ただ、その演奏を聴いた者は、誰もが彼の音色を忘れられなくなるという。
そして今夜も、劇場は満席だった。
客席の一角で、リディア・ベルフォール侯爵令嬢は舞台を見つめていた。
淡い金髪を上品にまとめ、淡いラベンダー色のドレスをまとった彼女の膝の上には、小さな手帳が置かれている。紫の瞳には、演奏を待ちわびる静かな期待が浮かんでいた。
膝上の手帳は、これまで訪れた演奏会の日付や曲目、心に残った音の響きまで、細かく書き留めてきたものだ。
隣に座るのは、幼い頃からの友人、クラリス・エヴァレット。こちらは伯爵家のご令嬢だ。
クラリスもまた、リディアに誘われて何度もセレスタンの演奏会を訪れていた。彼の音楽が素晴らしいことは、彼女自身もよく知っている。
けれど、リディアが彼をどれほど特別な存在として想っているかも、同じくらいよく知っていた。
舞台の上で、セレスタンが弓を構える。
その瞬間、リディアの背筋がすっと伸びた。
やがて、最初の音が響いた。
低く、深く、どこか懐かしい音色。
まるで夜の湖面に月明かりが落ちていくように、静かな旋律が劇場を満たしていく。
リディアは息をすることさえ忘れそうになりながら、彼の指先を見つめた。
弓の返し方。音を切る寸前の、ほんのわずかな間。次の旋律へ移るときの、繊細な強弱。
そのすべてが美しかった。
ただ美しいだけではない。
彼の音楽には、言葉にならない感情が宿っている。
寂しさも、喜びも、誰かを想う切なさも。ひとつひとつの音が、胸の奥に直接触れてくるようだった。
リディアは、彼の演奏を初めて聴いた三年前の夜を思い出す。
あの日から、彼女はセレスタンの出演する演奏会に通い続けていた。
新しい曲が発表されれば、何度も手帳を読み返す。以前の演奏と違うところを見つければ、その理由を考える。彼の音楽をもっと深く理解したくて、楽譜や楽器の歴史まで調べるようになった。
それでも、聴くたびに新しい発見がある。
今夜の演奏も、きっとそうだ。
最後の旋律が、ゆっくりとほどけていく。
そして――。
静寂。
ほんの一瞬、誰もが息を潜めた。
次の瞬間、劇場を揺るがすような拍手が巻き起こった。
リディアも夢中で手を叩いた。胸がいっぱいで、今すぐにでも感想を叫びたいほどだったけれど、どうにかその気持ちを抑える。
舞台の上で、セレスタンが一礼した。
黒い仮面の向こうにある瞳が、客席をゆっくりと見渡す。
その視線が、自分のいる一角を通り過ぎたとき。
リディアは、ほんの一瞬、彼と目が合ったような気がした。
どきり、と心臓が跳ねる。
もちろん、客席は満員だ。彼が自分ひとりを見つめたはずなどない。
それでも。
「……セレスタン様……」
声にならないほど小さく、リディアはその名をつぶやいた。
セレスタンはもう一度、深く頭を下げる。
その姿を目に焼きつけながら、リディアはいつまでも拍手を送り続けた。
やがて演奏会が終わり、観客たちが劇場を後にし始めた頃。
リディアは、ようやく大きく息を吐いた。
「……素晴らしかったわ」
隣で手袋を整えていたクラリスが、微笑ましそうに彼女を見た。
「ええ。本当に。あなたが夢中になる理由がわかる気がしたわ」
「でしょう? 特に最後の曲……あの終盤の旋律、以前の演奏とは少し違っていたの。音の重ね方も、最後の余韻の残し方も……!」
「ふふ。始まったわね」
「クラリス、聞いて。あれはきっと――」
「聞くわよ。馬車に乗ってから、ゆっくりね」
クラリスは笑いながら、リディアの腕に自分の腕を絡めた。
「それにしても、三年も通っているのに、あなたの熱は冷めないのね」
「冷めるわけがないでしょう? セレスタン様の音楽は、いつだって新しいもの」
リディアは、舞台のあった方を振り返った。
もう、そこに彼の姿はない。
それでも、耳の奥にはまだ、あの音色が残っていた。
「……また、すぐにでも聴きたいわ」
その声には、飾り気のない願いがこもっていた。
クラリスは、そんな親友の横顔を見つめて、そっと笑った。
「次の演奏会も、一緒に来ましょう」
「ええ!」
リディアの顔が、ぱっと明るくなる。
その笑顔を見て、クラリスもつられて笑った。
ふたりは、夜の劇場を後にした。
◆
演奏会を終えたセレスタンは、舞台裏の控室で静かに仮面を外した。
銀色の髪が額に落ちる。
仮面の下から現れたのは、端正な顔立ちと、深い青色の瞳だった。
彼はヴィオラ・ダ・ガンバを丁寧にケースへ収め、演奏会の余韻を胸に刻むように、しばらく目を伏せた。
やがて身支度を整え、劇場の裏口へ向かう。
そこには、一台の馬車が待っていた。
黒塗りの車体には細やかな金細工が施され、扉には見事な装飾が刻まれている。磨き上げられた車輪も、馬具のひとつひとつも、上質な素材と職人の技を感じさせた。
御者は彼の姿を認めると、すぐさま馬車の扉を開いた。
「お帰りなさいませ」
セレスタンは短くうなずき、楽器のケースを抱えて乗り込んだ。
扉が閉まると、外の喧騒が遠のいた。
座席は柔らかな革張りで、窓には厚手のカーテンが掛けられている。揺れをほとんど感じさせない乗り心地も、馬車そのものの造りのよさを物語っていた。
仮面をつけた謎の楽師を乗せるには、あまりに豪奢な馬車だった。
けれど、彼はそれを当然のことのように受け止めている。
セレスタンは窓の外へ目を向けた。
夜の王都には、まだ多くの灯りがともっていた。
ふと、客席の光景が脳裏によみがえる。
ラベンダー色のドレスを着た令嬢。
何度か演奏会で見かけたことがある。彼女はいつも、舞台から目を離すことなく、ひたむきに音楽を聴いていた。
今夜も、その姿が客席の一角にあった。
熱心な観客がいることは、演奏家にとって嬉しいものだ。
彼はそれ以上考えることなく、視線を窓の外へ戻した。
やがて馬車は、王都の中心部から少し離れた一角へと進んでいった。
高い鉄門がゆっくりと開く。
その先に広がっていたのは、手入れの行き届いた庭園だった。左右に並ぶ街灯が石畳を照らし、奥には白亜の大邸宅がそびえている。
均整の取れた柱、広々とした正面階段、夜の闇に浮かび上がる幾つもの大きな窓。
その建物は、王都でも指折りの貴族の邸宅といわれても不思議ではないほど、壮麗なものだった。
馬車が玄関前に停まると、扉の両脇に控えていた使用人が頭を下げた。
セレスタンは軽くうなずき、楽器のケースを手に降り立った。
誰も、彼がどこで何をしてきたのかを問いたださない。
まるで、これが日常の一部であるかのように。
彼は広い廊下を抜けて自室へ向かった。
部屋に入ると、まずヴィオラ・ダ・ガンバを所定の場所に置く。それから上着を脱ぎ、机の上に届いていた封書に目を留めた。
差出人は、領地にいる父だった。
セレスタンは椅子に腰を下ろし、封を切った。
手紙には、領地の近況や両親の様子が記されていた。
その末尾に差しかかったところで、セレスタンは小さく息を吐いた。
――アレクシス。おまえの婚約について、そろそろ真剣に考えてもらいたい。
セレスタンこと、アレクシス・ヴァレンティン公爵家の嫡男は、またか、と思った。
公爵家の跡取りである以上、結婚は本人ひとりの問題ではない。これまでにも幾度か縁談の話は持ち上がっていたが、アレクシスはそのたびに、もう少し時間が欲しいと返事を先延ばしにしてきた。
彼には、結婚よりも優先したいものがあった。
音楽界を賑わせている謎の楽師、セレスタン。
仮面をつけ、素性を明かさずに演奏する彼の姿は、アレクシスが音楽を奏でるときの、もうひとつの名だった。
始まりは、従兄である王太子に勧められたことだった。
仮面をつけて演奏してみてはどうか。
そんな何気ない提案から始まった遊びのようなものが、まさかこれほど世間に知られる存在になるとは、勧めた王太子も、アレクシス自身も思っていなかった。
しかし、今ではセレスタンとしての活動も、アレクシスにとって欠かせないものになっていた。
しかし、それをいつまでも結婚を避ける理由にできるわけではなかった。
今回、父が名を挙げたのは、王都でも古い歴史を誇る侯爵家。
家格は申し分ない。王都における影響力もあり、両家が結びつけば、互いの立場をより強固なものにできる。
家同士の利益を考えれば、断る理由は見当たらない。
手紙の文面も、以前のものより明らかに踏み込んでいた。
アレクシスは手紙の続きを読み進めた。
令嬢の名は、リディア・ベルフォール。
十八歳。侯爵家の長女で、幼い頃から幅広い教養を身につけ、芸術にも親しんでいるという。
そして、手紙にはもうひとつ、薄い封筒が添えられていた。
中に収められていたのは、一枚の絵姿だった。
絵姿に描かれていたのは、柔らかな笑みを浮かべた若い令嬢。
まっすぐこちらを見つめる瞳には、落ち着いた知性がうかがえた。
アレクシスは絵姿に目を落とした。
「……なるほど」
それ以上、感想は口にしなかった。
肖像画だけで相手の人柄までわかるはずもない。家柄も教養も申し分ないのだろうが、実際に会ってみなければ、相性まではわからない。
これまでの縁談も、結局は家同士の条件が先に立っていた。
今回も、ベルフォール侯爵家との縁組が両家にもたらす利益を考えれば、父が乗り気なのも無理はない。
ただ、これまで何度も返事を先延ばしにしてきたアレクシスに、今度こそ話を進めるつもりなのだろう。
アレクシスは手紙を机に置き、椅子の背にもたれた。
「……父上も、とうとう痺れを切らしたか」
苦笑が漏れる。
家のために果たすべき役目があることは、アレクシスも十分に理解していた。
ただ、結婚相手を家同士の都合だけで決めることには、どうしても積極的になれなかった。それでも、いつまでも先延ばしにはできない。
アレクシスは再び手紙に目を落とした。
「ベルフォール侯爵家、か。……簡単に断れる相手ではないですね」
まだ見ぬ令嬢がどのような人物なのか、想像もつかなかった。
「……まずは、話をしてみるか」
今度こそ、縁談から逃げるわけにはいかなかった。




