70.取引の完了とブライトン号の帰国
取引の完了とブライトン号の帰国
その日の午後、日本の回船を使い、源太と二人の商人が、ブラックスワン号を訪問した。
毎年、恒例となった『えにし』の取引である。
昨夜、ジャン達が運び込んだ『えにし』の数量は既に確認が終わり、後は支払いの手続きだけだった。
「銭屋殿、今年の支払いは、金と銀、どちらを多くしたら良いですか?」
グレイの問いに、
「そうですね。今年は銀を少し多めに頂けますか?」
「では、金塊を二十と銀塊を三十五でよろしいですか?」
「はい、それでお願いします。」
「では、本間様と源太殿への清算はお任せします。」
「かしこまりました。」
「で、続いての相談ですが、松江藩のご家老より依頼のありました、四千両について、こちらは、金塊四十と、銀塊六十でお願いできませんか?」
グレイの申し出に、他の三人がそれぞれ、驚きの声を上げた。
「それでは、多すぎるでしょう。四千両ではなく、五千両の価値になってしまいますよ。」
「いいえ。余った金子は、『えにし』の里にお渡し願いませんか?
明日より私共の職人たちが、『えにし』の製法を学ぶため、里に御厄介になります。
製法を習得出来るまで、どれ程の期間がかかるか、分かりません。
その間、私も加えて、職人を十二人も里に置いて頂く間の費用ですよ。」
「グレイ殿。それでも多すぎますよ。粗末な里の屋敷と日々の費えに、そんな大金は不要です。」
「いや、源太殿、受けた方がよろしいですよ。
きっと、作業小屋の普請なり、思わぬ費用が掛かる場合もありましょう。
金子は、この銭屋がお預かりして、必要に応じて、必要な額を、その都度お渡しいたします。」
銭屋五兵衛が請け負った。
「銭屋殿、かたじけない。お願い致します。」
グレイは、深々と頭を下げた。
「それよりも…」
本間久四郎が、少し思案顔で言い淀んだ。
「何でしょうか?」
源太が、本間に問いかけた。
「実は、公儀の隠密に動きが有りそうなのですよ。」
「隠密が、ですか?」
「はい。松江藩の石高は、十八万六千石と称されておりますが、実際の石高はそれには及ばないと幕府は睨んでおります。
しかし、あの酷い飢饉の後でも、領民の年貢を上げる事も無く、商人からの大きな借財も無い。もちろん、宗衍公とご家老の朝日様の藩政改革の結果と知られては居りますが。
公儀は、それ以外にも何か収入があると疑っている様で…。」
「そこに、異国人が十人以上も住まう里があると知られれば、『えにし』製造の秘密も知られかねないと?」
しかし、源太は気に掛ける風もなく、
「何。心配はございません。我が里は、古くからの隠れ里。大丈夫で御座います。」
「今回は、職人達が製法を身に付けるまで、私も里の守りに付きます。十分に気を付けさせて頂きます。」
グレイが、重ねて本間と銭屋に安心するように伝えた。
「そうですな。私共も秘密が漏れないように、これまで以上に気を付けて参りましょう。」
無事に『えにし』をブライトン二世号に乗せ換え、グレイは、ブラックスワン号の食堂に全乗員を集めていた。
「みんな。集まってくれて、ありがとう。
本日、無事に『えにし』の里と、商人たちとの取引が終わった。
ブライトン商会が、ずっと頼んでいた、『えにし』の製法も教えてもらえる事になった。
しかし、製法について開発部が把握し、帰国した後に再現できるようになるまでにどの程度の期間が係るか、予想できない。
そこで、ブラックスワン号の乗組員については、ブライトン二世号で帰国してもらいたい。
製法の研究が終わるまで、ブラックスワン号は、無人でこの場所に隠しておく。
今日の内に、船内は厳重にロックし、移乗を済ませてくれ。」
グレイの指示に従って、全員が一斉に動き始める。
見習い水夫の五人組と、マルジン達開発部の六人は、この間まで里で過ごしていた五人から、日本の服の着方の講習を受ける。
「日本人の男性は、下履きにこの、『ふんどし』を締めます。付け方はこの要領で…。」
トーマスとジョーイが、それぞれに見本を見せる。
「ふうん。何かすうすうするね。」
「これは、トイレットに行くときに脱がないの?」
「慣れるまでは少し違和感があると思いますが、慣れてしまえば楽ですよ。」
着物の前の合わせ方の作法から、帯の締め方、『草履』なる、足の親指と人差し指の間に紐を挟むサンダル、『わらじ』という、山歩き用の靴の代わり。
どれ一つを取っても、エウロパの衣装とは異なっていた。
「ああ、この『ハカマ』は、ズボンと似ているんだ。でも、ベルトはしなくていいんだね。」
ワイワイと騒ぎながら取り合えず、一通り衣装を身に付けるのに一時間以上が過ぎていた。
そこへ、見事に侍の衣装を着こなしたグレイが現れた。
「全員。服は着られたな?」
「はい。船長。」
「船長は、慣れているんですね。」
エドモンドが、驚いている。
「日本に来るのは初めてじゃないからな。」
「通りで、日本語も流暢に使いこなしていたんだ。」
航海中に日本語の習得にてこずっていたサムが、妬ましそうに言った。
サムの言葉を無視し、グレイが指示をする。
「迎えの船が来ている。さっさと行くぞ。」
後部の甲板上では、ハンスが待っていた。
「ハンス。後の事は任せる。よろしく頼む。」
「はっ。グレイ船長。行ってらっしゃい。」
ハンスに答礼したグレイは、全員が迎えに来ていた和船に乗り込んだ事を見届け、船を降りた。
和船は、四角い帆を上げて、滑るように海上を行く。
少し離れた位置には、ブライトン号が停泊し、最後の戸締りをしているハンスを待っていた。
和船の方は、そのまま境港への進路を取り、昼を過ぎた頃に港に入った。
そこからは、内海用の小舟に二組に分かれて移乗し、広い内海を船頭が櫓を漕ぎながらのんびりと進み続けた。
ここまでは、全て、回船問屋の本間の手配したものだ。
夕刻近くになると、内海に注ぎ込む川に船は進み入れられた。
「皆様。そちらの岸に船を付けますので、降りて下さい。」
船頭は、そう言うと源太が待ち受ける岸に船を付けた。
「かたじけない。」
深編笠を被ったグレイが、礼を言うと、二隻の船頭に二分銀を一枚ずつ渡した。
船は、すぐに港へ向けて漕ぎ去り、一行は、源太の先導で、すぐ側の街道を、少人数ずつに分かれて、少しの距離を置いて歩き始める。
五、六町歩いた所で、源太が周囲に人目の無い事を確認し、街道脇の森の中へと分け入って行った。
すでに時刻は日没を迎えようとしている。
森の奥には、しめ縄の張られた、不気味さを漂わせる洞窟が口を開けていた。




