最悪
●
神からの放送を聞いた僕たちはすぐさま三階に移動し、当面必要になると思われるもの――食べ物や飲み物は明君が出せるため、簡単な医薬品などがほとんどだ――を小さなナップザックにそれぞれ手早くまとめながら、今後の事を話し合っていた。
「とりあえず、今後は地図の更新時間までは一ヶ所に留まり、更新されると同時にその場から離れて別の隠れ家へ移動する、という感じで行こうかと思います」
「それが妥当ね。まあそのうちその作戦の裏をかかれたりすると思うから、いずれはもう少し変則的にしていかなければいけないと思うけど」
「じゃあぁ、手ごろな隠れ家をいくつか見つけておかないとねぇ……」
このデパートを拠点としてから数日の間に行った話し合いの場は数知れず、その中で出た話題に『何かしらの事情があって居場所を転々としなければいけなくなった際の事を想定してみよう』というようなものもあったため、余計な打ち合わせの時間を短縮できるのはとてもありがたい。
……まあ、本当なら役立ってほしくはなかったんだけど……。
と、自分がネガティブ思考の持ち主であったことを喜ぶべきか悲しむべきか悩んでいたところに、明君のつぶやくような声が届いてきた。
「……でもぉ、なんであの神はいきなりあんなことをしたんだろうねぇ……。いろいろ手出しして場をかき回すのは最小限に抑えたいタイプだと思ったんだけどなぁ……」
「まあ、それ以前に短気だったってことでしょうね。いつまでも進まないこの状況にイライラしてやったってだけだと思うわ」
「……どういうことぉ……?」
明君の疑問に答える形で声を放った音色さんに、意味をよく理解できなかったらしい明君が若干困り気味の笑顔を向ける。
それを荷物整理の手を止めることなく受け止めた音色さんは、『つまり――』と続け、
「あの神の目的は、ゲームを観察して楽しむ事にある。だからそのゲーム自体が遅々として進まない現状は、ルールの後付けという余計な影響を与えてでも回避したかったのよ」
「しかもあの神、脅しまでかけていきましたからね。本当に厄介ですよ」
とりあえず当面必要な物だけを詰め終えたナップザックを背に負って立ち上がりながら僕は首をかしげる明君に説明を続ける。
「今回のルール改正――改悪で、僕たちは『居場所を十二時間間隔で』周囲に知られてしまうようになりました。さらにその説明の最中、あいつは『今の段階では』という言葉を使いました。つまり――」
「――この先も似たような状態が続くようならぁ、地図の更新間隔をもっと短くしていく可能性もあるってことぉ……?」
「そう言う事ね。『良く考えて』なんて言って注意深い人に念を押してるあたり、かなり陰湿だわ」
全てを話さないで、理解できる者のみにヒントを与える。
理解できなかった者に対しては『チャンスは与えたのだから、それを活かしきれなかったお前が悪い』と言う事なのだろう。
そう言われてしまえばこちらは感情に任せた逆ギレしかできない分かなり性質が悪いが、まあ今の所嘘や紛らわしい事は言っていないだけマシだ。
「……さて、それじゃあとっとと出発しましょう。準備はできてますか?」
「私はもう大丈夫よ」
「ボクもぉ、大丈夫ぅ」
二人からの返事を聞いて、僕は『それじゃあ行きましょう』と声をかけようとして、
「それじゃあ、いっちょ行くとしようか!」
その場にいた僕たちの声のどれでもない声が、僕のセリフを奪った。
「――!?」
突然の事に混乱しそうになるが、それをこらえて僕は他の二人に背を向ける。
それを見た音色さんが同じように僕と明君に背を向け、少し遅れて明君もそれに習う。
全員で背を向けあって周囲を見回した僕の視界に、さっきまでなかったモノが映る。
それは、この部屋に光をしっかりと入れるために配置された大きな窓ガラスの向こう側に佇む影であり、
「……誰ですか、貴方は?」
「おいおい、人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るものだろ?」
と、気取ったようにフィクションでしか聞かないようなセリフを返してくる、一人の少年だった。
●
三人による索敵に引っかかったのは、窓の向こうにいる少年だ。
細見かつ中背な見た目からして僕と同じぐらいの年だろう。
着ている服も顔もごく普通の物で、人ごみですれちがっても何の印象も持たれない、個性がないのが個性であるという見た目だ。
唯一の特徴としては、その目付きだろうか。
勝気そうな性格を隠そうともせずに吊り上げられたその目は、絶対の自信を僕らに見せつけているようだった。
体格の割にどこか幼い印象を受けるのは、その言葉から生意気さがにじみ出ているからであろうか。
「――で、あんたらの名前は?」
にやにや笑いつつぶしつけにそう尋ねてきた少年に、僕らは軽く目配せし合った後、
「……聖神女学院高等部三年、金乃宮 音色よ」
「蜷局ヶ丘第一高校二年、板森 明だよぉ」
「山河台高校二年、有松 博だ。――こちらは質問に答えたんだ、君も僕らからの質問に答えてほしいね」
僕がそう言うと、少年は獰猛そうに笑いを深め、
「おお、おれっちの名前か? おれっちの名前は竜河 万、梁田祓高校一年だ。よろしくな、先輩たち!」
と、調子よさそうに答えた万君だったが、その目付きは相変わらずであり、発した言葉には最低限の礼儀以上の物は込められていないことが良くわかる。
まあ、これからしようとしている事が事だけに、相手をいちいち敬っていても仕方がない。
「……元気よく答えてくれたのに申し訳ないんだけど、僕が聞きたかったのは君の名前じゃなくて、もっと簡単な事なんだ」
「へぇ、それは早とちりしちまった。こっちも申し訳ないぜ先輩方。……で、おれっちに聞きたいことってのはなんだ? 後輩のおれっちにも答えられそうなことか?」
「ああ、むしろ君にしか答えられないと思うよ。質問は簡単さ。……なんで、君はそこにいるんだい?」
僕がそう問いかけた瞬間、彼の笑みはさらに深くなる。
生意気そうな笑みに、何か悪戯でも思いついたような黒い笑みが混ざったためだ。
「ん~、ちょっとテツガク的過ぎて意味がわからないなぁ……」
「そんなに難しく考えることはないさ。さっきから僕が気になっているのは、ここが大きな建物の三階だってことなんだ。なのに君は、今も窓ガラスの向こうから僕たちと話している。……普通ならそんなところに立っていられる訳がないのに」
僕はそこで言葉を切り、一息分の空白を経て、もう一度問いかける。
「繰り返して聞くよ。――どうして君は、そこに立っていられるんだい? もしかして、それが君の能力なのかい?」
その質問を待っていたのだろう。
万君は今までにないほど楽しそうな笑みを全面に出して、
「勿論そうさ! そうじゃなかったらこんなすごい事、人間にできるわけがないだろ!?」
と、自慢げに言い放った。
それはまるで――いや、実際にそうなのだろう――新しいオモチャを買ってもらったと自慢する子どものようだった。
「……なるほどね、だからこんなに早く僕らのもとに来れたのか。急いで支度すれば一番近くにいる人が真っ直ぐ来たとしても間に合うと計算していたんだけど、さすがに空を飛んでこられるのは予想外だったよ。でもまあ、空を飛びたいって欲望は結構良くある物だからね、計算していなかった僕に落ち度があったかな……」
「おいおいおいおい、頭脳派っぽい兄ちゃんなのに、ずいぶん的外れな勘違いかましてるじゃねえの。……いつ、だれが、おれっちの欲望が『空を飛びたい』だなんて言ったよ?」
かかった、と思いつつ、僕は意外そうに、
「へぇ、そうじゃなかったのかい? 空を飛んできたからこそ、この場所にいち早く来ることができたんだと思ったんだけど?」
と続ける。
自分の能力を自慢したくて自慢したくて仕方がないお子様は、ちょっとひねって尋ねてみたら案の定自分の能力を語りだしてくれた。
「へっ、確かにおれっちはさっきまでいたところからここまで飛んできたさ。だけど、それだけがおれっちの能力じゃねえんだ。あくまで浮遊術はおれっちの欲望の一面でしかない。おれっちの真の能力、それは――」
その能力の内容を聞き、僕は――いや、僕を含めた三人は、真の恐怖に包まれた。
……この能力は、いろいろな意味で最悪すぎる……!?
下手をすれば世界その物が壊れてしまいかねないすさまじい能力を振りかざす相手に、どう立ち向かっていけばいいのだろうか。
三人組になってから初めての敵との戦いは、いきなり危険な物となりそうだった。
●
博たち三人が恐るべき敵と対峙した同時刻、ゲーム空間の北東側を進む集団があった。
ビジネス街を模したのであろうビルが隙間なく立ち並ぶ区画、そのわずかな合間を縫って進む集団の人数は全員で六人だ。
年齢も性別もバラバラな彼らの共通点を無理に挙げるとするならば、体の各所に擦り傷や打ち身などの傷があることと、その割には衣服が綺麗であか抜けているという事だろう。
そんな彼らは今、コンクリートジャングルのただ中を歩いていた。
もちろんがやがやとかしましく歩いてはおらず、線が細い少年ときらびやかな少女を中心にした密集体型を崩さずに道を慎重に進んでいる。
先頭を行くのは顔立ちからしておそらく英国あたりの血が入っているのであろう金髪碧眼の青年と、黒髪黒目な日本人の青年。
海外の血のおかげか長身の身をパリッとしたスーツで包んだ青年は、ファッション誌の表紙を飾ってもいいぐらいに様になっている。
だが、その表情は疲れに染まっているし、何より顔の半分を覆うのではないかと言うほどのガーゼが張り付けられているため、いろいろ台無しになっている。
その横を行く日本人の青年は新品であるという点を除けばごく普通の半袖シャツ姿だが、半袖故に腕全体に巻いた包帯が痛々しく見えている。
最後尾を行くのは色黒の成人男性だ。
短髪に切りそろえられた頭髪は日光に当たるとわかる程度の焦げ茶色で、長身ながら若干細めの体を隠すためか、余裕のある薄手のシャツを着ているが、前が見えているのかもわからないほどの真っ黒なサングラスが目立ってしまい、それ以外の要素を塗りつぶしているのが現状だ。
そしてその前を進むのが、シャツにパーカーを羽織りホットパンツをはいた、いかにも活発そうな少女だ。
高価そうな飾りのついた髪ゴムによって少々雑にまとめられたポニーテールが歩くたびに左右に振れているが、時折痛むのか顔をしかめつつ腹部をかばうように手を添えている。
そんな彼らの文字通り中心にいるのが、ファッション雑誌から飛び出してきたかのようなきらびやかな少女と、一人だけ学ランに身を包んだ細身の少年だ。
着飾りすぎないように、しかし主張も忘れない、計算され尽くしたコーディネートに身を包んだ少女は、しかしその顔を不安げな色で一色に染め、常に周囲をきょろきょろと見渡している。
不安そうなのは彼女だけではなく、その隣にいる学ランの少年も同様だ。
自分は臆病者だ、という看板を背負って歩いているかのようにわかりやすく怯えている少年は、怯えた目で終始きょろきょろとあたりを見ている。
さすがにその少年ほど顕著ではないが、他の四人も全員似たような目つきで周囲を慎重に見ながら進んでいる。
その様は訓練された兵士――と言うより、猛獣に怯える小動物を連想させた。
「――止まれ、人が近付いてきている」
最後尾のサングラス男が静かにそう言った瞬間、全員が足をピタッと止める。
ビルとビルとの間の、わずか三メートルほどの幅しかない道のただ中で、不安そうな表情をさらにあらわにした五人は、迫りくる恐ろしい物を待ち構えるように身構える。
そして、その中でも一番怯えているであろう学ランの青年が、震えながらも声をあげる。
「――鉄心、さん。その人はいま、ど、どこにいます、か……?」
鉄心と呼ばれたサングラスの男は、特に周囲を見渡さずに、ただじっと何かに集中するようなそぶりを見せ、そして静かに口を開く。
「……前方三メートル付近、この隙間を抜けて大通りに合流するあたりに向かっている少女が一人。我々から見て右方からおおよそ五秒後に視認圏内に入る。一応危険物の類は持っていないようだが、そもそも逃げている暇はなさそうだな」
と、何かの報告を読み上げるかのようにそう言った鉄心の声を聴き、その場にいた全員が一切の疑いを持つことなく前を見据え、身構える。
鉄心以外の五人――いや、そもそも鉄心自身にも見えていないはずの情報を、彼らは全員真実だと認識しているらしい。
緊張に支配された空間を一筋の風が駆け抜け、道を舗装しているコンクリートの隙間から生えた名もなき雑草が静かに揺れる。
……逃げる暇がないのなら、出くわして相手が驚いている隙を突く。
それが彼らの思考であり、実際全員がそのように動こうとしている。
出会った瞬間に警戒されてしまわぬように武器の類はまだ出さないようにして、ただひたすらにその時を待つ。
そして――
「――んん~? なんかいっぱいいるぞぉ~?」
ヒョイッ、という効果音が付きそうなくらい気軽な様子で、六人の空間に新しい影が現れた。
そのあまりの気軽さと、そもそも体全てが見えていないという警戒心とが合わさり、六人は動くきっかけを無くしてしまう。
そんな狙いがあったのかも分からぬくらい気楽に、少女はふらりと狭い空間に飛び込んできた。
薄水色のワンピースを纏ったその少女は、背中の中頃まで流した髪の毛を楽しそうになびかせながら辺りをざっと眺め、
「ん~、いーち、にーい、さーん、しー、ごー、ろーく、ななー……」
そして六人が何かをする間もなく、畳み掛けるように何かを数えだす。
本人はひとさし指を対象に向けて数え上げているようなのだが、なぜかその指先はふらふらと宙をさまよっており、何をどんな順番で数えているのかは判明しない。
「――わぁ! 八つもある~。すごいすごーい!!」
なにがしかを数え終わったのか、その結果に対して喜びの声をあげる少女は、どこまでも緩かった。
「……あ、もしかして……」
少女の様子をじっと食い入るように見ていた六人のうちの一人、中心にいるきらびやかな少女が思わずと言った様子で声を漏らす。
「な、何かわかったんですか、鍔芽さん?」
隣に立つ学ランの少年にそう聞かれたきらびやかな少女――鍔芽は、尋ねる声に一瞬ビクリとしたのち、おどおどした様子を隠さずに口を開く。
「か、彼女、私と同じ高校の、同学年なんです。名前は確か、御使 天利、です……」
「す、すごい偶然ですね……」
そんな会話をしている間も、現れた少女――天利はふらふらと動き続けている。
『ん~、どれにしようかなぁ……』などとつぶやきながら、二歩ほど六人の方へと歩き出して六人の肝を冷やし、しかしすぐに道の端へと向かい、しゃがみ込む。
そして、そこに生えていた雑草を嬉しそうに見つめると、その表情のまますぐにその雑草を掴み、ゆっくりと力を加えながら引っ張っていく。
それを見て鍔芽は、
「……やっぱり、『草刈りあまちゃん』だ……」
とつぶやく。
そのつぶやきに周囲から怪訝な顔を向けられているとわかった鍔芽はすぐにアワアワと慌てだし、そしてつっかえながらも言葉を紡ぐ。
「え、えっと……。――あの子、私の学校のちょっとした有名人なんです。いっつもふらふらしてて何を考えてるのかわからない、気味の悪い子、って……」
少しずつ記憶の整理がついてきたのか、鍔芽は水のように言葉をすらすら吐き出すようになってきた。
「しかもあの子、なんでかしらないけど草むしりが好きで、休み時間のたびに校庭の隅や校舎裏なんかで草をむしってるんです。毎日先生と一緒に焼却炉でむしった草をごみと一緒に燃やすのが日課になってるぐらいで……」
鍔芽が言葉を紡いでいる間も、天利は休むことなく動いている。
絶妙な力加減で根を傷つけないように雑草を引っこ抜くと、根にこびりついた土を叩いて落とし、きれいにしてからそっと足元に置く。
そしてどこからか中身入りのペットボトルを取り出すと、無色透明なその中身をどばどばと引き抜いた雑草にかけ始めた。
「一体、なにやってるの?」
「さあね、さすがの僕にもさっぱり理解できないよ……」
「か、彼方さん、マートン君、油断しないで、くださいね……?」
彼方と呼ばれた活発そうな少女と、マートンと言うらしい金髪碧眼の青年は、学ランの少年の注意にびくりと反応し、急いで天利に注意を向け直した。
しかし、何をやっているかわからないままでは不安がつのるだけだと判断したのか、学ランの少年は先頭に立っていた日本人の青年に声をかける。
「……長史君、彼女が何をやってるか、わかりますか……?」
「――ッ、いや、良くわからない、です……」
一瞬肩を震わせつつもそう答えた長史の目の前で、空になったペットボトルをどこかに消した天利が、今度はその手に安っぽいライターを持ち出してきた。
シュボッ、っとライターに火をつけた天利が、ゆっくりとその火を草に近付けていく。
すると、その火が草に触れた瞬間、草全体に火が燃え広がった。
「何かの燃料、か……?」
あまりにも異常な燃え方にそう呟いた長史には全く目を向けず、天利はすごい速さで燃えていく草をとても楽しそうに見つめている。
それは、あふれ出る感情を抑えきれない子どものような無邪気な笑顔であり、しかしどこか虚ろで怪しい物でもあった。
「――一つ目」
小さくそんなことをつぶやいている天利を見ながら、鍔芽はぽつりとこぼす。
「……やっぱり、こんなところまで来てもあんなことをやってるんだ……」
呆れの色を隠さずにそうこぼした鍔芽の目の前で、燃え尽きて墨の塊になるまで草を見つめていた天利は、一度目をつむり何かをぼそりと呟くと、スッと立ち上がり六人の方へと体を向け、にっこりと笑顔を見せる。
それを見て危険がなさそうだと判断したのか、前列にいた長史、彼方、マートンの三人が天利に近付こうとほぼ同時に一歩を踏み出し、
「――それじゃあ~、貴方たちも死んじゃってねぇ~」
のんきな言葉と共に天利が手を無造作に振り、無手だったはずの彼女の手から放たれた鋭利な刃物を胴体に受けて、三人ともどさりと倒れ伏した。
「――ッ!?」
あまりにも急な出来事にあっけにとられるしかなかった学ランの少年と鍔芽たちを差し置いて、最初に動いたのは最後尾で何も見ずにすべてを『視て』いた鉄心だった。
彼は天利が鋭利な刃物――バタフライナイフだったり果物ナイフだったりと種類は様々だったが――を放った瞬間から彼女の危険性を察知し、すぐさま動き出した。
最初に取ったのは胴をねじり、後ろを向くこと。
次に右足を顔が向いている方向に出し、重心を思い切り前にかけ、最後に左足にすべての力を籠め、その場から走りだそうとする。
自分以外のすべてを見捨てて行われたその試み――要するに敵前逃亡――は、実に上手くいった。
「あ、て、鉄心さん……!?」
数瞬遅れて学ランの少年がその事に気が付いた時には、鉄心はもう数歩分の距離をあけていた。
例え今から走り出したとしても、初速の乗っている鉄心とはもはや条件が違う。
遅れて走り出した誰かが鉄心に追いつくのは、よほどの体力差がないと難しいだろう。
●
「――あは」
●
ここで鉄心が犯したミスは三つ。
一つ目は視線について。
最後尾にいた鉄心の事を視界に入れていた者は、他の五人の中には誰もいなかったが、六人と相対していた天利は、六人全員の事を視界におさめていた。
よって、よりにもよって一番ばれてはいけない相手である天利が、彼の逃亡にいち早く気が付いてしまったのだ。
まあ、この事を鉄心のミスに数え上げるのは、生まれつき目が見えない鉄心に対してあまりフェアではないのかもしれないが、それでもミスはミスだろう。
二つ目はこの世界のルールについて。
生まれつき目の見えない長田 鉄心という男が『世界を見てみたい』という欲望を持つことで、障害物などを無視してすべてを視通す能力を得たように、この世界ではこれまでの常識が通用しないという事だ。
よって、他の能力で支援を受けていない鉄心が逃げおおせるためには、普通以上の対策が必要だったのだ。
そして三つ目は、天利と言う存在について。
どうしようもなくどうしようもない程に禍ってしまっている彼女が、逃げようとする獲物を逃がすわけがない。
よって彼女は、ビルとビルとの間にある隙間から脱出しかけている鉄心を見て、にっこりと笑いながらその手を手近な壁へとそえる。
そしてスッと手を放すと、そこにはそれまでなかったはずのボタンがあり、
「――封殺」
何のためらいもなく、天利はそれを押す。
すると鉄心の足元がいきなりフッと暗くなった。
それを他の皆が察知するよりも前に、鉄心は自分の上に大きな何かが現れたことを察知する。
比較的大柄な自分を覆ってしまうほどに大きな影を落とす物体が己の五メートルほど上に現れたことを知った鉄心は、それがビルとビルとの隙間をほぼ完全に埋めてしまえるほどのコンクリート塊であることに気が付き、
「――――ぁ」
重力に従って落ちてきた数トンものコンクリート塊に、あっけなく潰された。
●
「――封殺、からの圧殺。これで二つ目」
おそらくは天利の能力によって生じた物であろう、狭い通路の一端を埋め尽くすかのように大きく、また普通では飛び越えられないほどに高いコンクリート塊の下部――地面とコンクリートの接地面から少しだけ漏れていた真っ赤な液体が、数瞬後にフッと消えたのを遠目で確認した鍔芽は、改めて同学年の少女を見た。
今、天利はここで最初に出会ったときと同じ笑顔を浮かべている。
いや、それどころか、草を抜いている時も、それを燃やしていたときも全く同じ笑顔だった。
そして今、一人の男を圧死させたというのに、その笑顔は全く変わっていない。
それを確かめた鍔芽は、改めて自分の置かれた状況を考えてみる。
前方には倒れ伏したままの三人がいて、その向こうにはこの状況を創り出した元凶たる天利がいる。
さらに後方には巨大な障害物があり、そちらからの逃走は困難であることがはっきりとわかる。
そして自分の隣にいるのは――
「……最悪ッ……!」
状況は全く自分に味方していない。
その事をはっきりと知覚した鍔芽は、その気持ちを正直に口に出すことしかできなかった。
●
博たちが恐ろしい敵と対峙していたちょうどその時、全く別の場所でも強敵と対峙する五つの影があった。
そしてついに、『曲々しいほど禍ってしまった少女』御使 天利が動き出す。
●




