文車妖妃は本を捨てない(1)
初めて入った大学の図書館は、想像していたよりも広く、天井が高く、静かだった。
館内のフリースペースには、紙の擦れる微かな音と、キーボードを叩く音だけが響いている。
「定員科目が先着順だなんて、聞いてないぞ……」
履修登録のウェブサイトでは、すでに定員に達した講義が選択できないようになっていた。
事前にシラバスを読んで目星をつけていた選択科目も、いくつかは埋まっている。
必修科目はあらかじめ週7コマ割り振られていた。
その時間と重ならないように選択必修科目を組み込むだけでも、至難の業に思えた。
それに、できれば1限の講義も避けたい。
寝坊するつもりはないが、起きるつもりで起きられないことを寝坊というのだから備えておくに越したことはない。
履修登録の締切が迫っていることもあって、図書館にはノートパソコンと履修要覧を交互に見る学生がちらほらいた。
隣の席からは、押し殺した笑い声とともに、
「この教授、出欠取らないらしいから、絶対取った方がいいよ」
という非常に興味深い話が聞こえてきた。
残念ながら、どの講義の話をしているのかまでは分からない。
入学式の後に行われたオリエンテーションでは、同じ学部の3年生がチューターとして履修登録のノウハウを教えてくれたらしい。
入学式もオリエンテーションもすっぽかした俺は、勘を頼りに選ぶしかなかった。
それもこれも、山本先輩のせいだ。
アパートに出た、あの地縛霊の先輩。
(寝坊したのは自業自得か……。それにしても、これはあんまりじゃないか……)
幽霊なんか見えたって、ろくなことがない。
◇
最初の違和感は、小学2年生の時だった。
通学路にある公園の隅で、こげ茶色の犬がいつも俺を待っていた。
手を伸ばせば指を舐め、甲高い声で鳴く。
ある日、その犬のことをクラスで話すと、何人かが見に行きたいと言った。
誰かが飼ってくれるかもしれない。
そう期待して、放課後にみんなを公園へ連れていった。
犬は、いつもの場所にいた。
「ほら、あそこ」
俺が指差すと、クラスメイトたちは顔を見合わせた。
「何もいないじゃん」
「いるよ。今、俺の手を舐めてる」
「なんでそんな嘘つくの?」
翌日から、俺は嘘つきと呼ばれた。
当時の俺には、みんなが嫌がらせで見えないふりをしているようにしか思えなかった。
違和感が確信に変わったのは、中学生になってからだ。
人と距離を置くようになった俺は、放課後を図書室で過ごすことが多かった。
そこで、図書委員のコウタ先輩と少しだけ言葉を交わすようになった。
ある日、本を借りるために先輩の家を訪ねると、母親が玄関まで迎えに来た。
「いらっしゃい。コウタが友達を連れてくるなんて、珍しいわね」
穏やかに笑う人だった。
先輩は鞄を置くと、隣の和室へ入っていった。
俺も後に続く。
線香の匂いがする部屋だった。
仏壇には、一枚の写真が飾られていた。
カメラへ向かって微笑む女性。
ーーさっき、俺を出迎えた人だ。
その後のことは、よく覚えていない。
適当な理由をつけて家を飛び出し、それから図書室へも行かなくなった。
俺の目には、幽霊も人間と同じ姿に見える。
誰が生きていて、誰が死んでいるのか、外見では分からない。
見えるからといって、分かるとは限らない。
俺の場合は、見えるからこそ分からなかった。
それまで話してきた相手は、本当に生きていたのか。
家族は?
クラスメイトは?
今、すれ違ったおじさんは?
本当に、生きている人間か……?
疑い始めれば、きりがなかった。
だから俺は、人と関わらないことにした。
孤独でいることが、自分の見ている世界を誰にも否定されずに済む、一番簡単な方法だった。
◇
「はぁ……」
ため息と一緒に、わずかに残っていたやる気も、図書館の高い天井へ散っていった。
根を詰めても仕方がない。
昼食にしようと荷物を片づけ、席を立った。
「フットサルやりませんかー!」
「映画撮りませんかー! 映研こっちでーす!」
「インカレでーす! 週イチで飲み会やってまーす!」
図書館を出て食堂へ向かう途中、キャンパス中央のイチョウの木を囲むように、サークルの勧誘合戦が繰り広げられていた。
アメフト、テニス、写真、落語。
歩きながら看板へ目を通してみたが、これといって興味を引かれるサークルはなかった。
山本先輩はサークルに入れと言っていた。
けれど、どの看板も俺とは別世界のものに見えた。
食堂で一番安いかけうどんをかき込み、図書館へ戻るか、このまま帰るか悩みながら外へ出た時だった。
「お前、影山玲司だろ?」
唐突に名前を呼ばれ、声の方へ目を向けた。
俺より頭半分ほど背の高い、金髪の男が立っていた。
「俺が分かるか?」
(知り合い……?)
どこかで見た覚えがあるような気もするが、すぐには思い出せない。
正直に覚えていないと言うべきか。
それとも、適当に思い出したふりをするべきか。
「……そりゃ、話したことないから覚えてないよな! いいって、気にすんなよ!」
「ごめん……」
「久山高校で、普通科4組だった佐伯ナオヤ」
名前に聞き覚えはなかった。
けれど、もしかして――。
「卒業式の後、校門で俺の名前を呼んだ?」
「そう! 俺が呼んだ。卒業式の日、担任と進路の話をしてるのが聞こえてさ。常陽大に行くんだって思って、声かけようとしたんだけど、思いっきり無視されたわ」
「……名前を呼ぶような友達はいなかったから、俺じゃないと思ってた」
「そうらしいな……。でも、今こうして話してる。大学に地元のやつがいてくれて、嬉しいよ」
佐伯ナオヤは、去り際に口頭で電話番号を教えてくれた。
俺は言われた番号をスマートフォンへ打ち込み、連絡先へ登録する。
家族以外の連絡先が増えたのは、何年ぶりだろう。
縁もゆかりもない東京で、同郷の人間と出会えたことが、少しだけ嬉しかった。
◇
もう帰ろうかとも思った。
それでも、入学式をすっぽかした分、履修登録だけはしくじるまいと、図書館へ戻ることにした。
午前中と比べると人はまばらで、図書館らしいページの擦れる音だけが静かに響いていた。
なんとか時間割を埋め終え、ふと中庭へ目をやると、街灯に明かりが灯っている。
閉館時間も近い。
あとは送信するだけだ。
最後に見落としがないか明日もう一度確認してから送ろうと、今日のところは帰ることにした。
受付脇を通りかかった時、張り紙のされたブックワゴンが目に入った。
『除籍資料です。ご自由にお持ち帰りください』
(タダと言われると、つい貰っていきたくなるんだよなぁ)
中を覗くと、古い文庫や専門書、全集の端本、雑誌のバックナンバーなどが並んでいた。
その中に、一際年季の入ったビニールカバーに覆われた本があった。
『降霊と交霊の民俗学』
今さら、この手の情報が俺に必要だとも思えない。
ただ、もし本当に降霊ができるのなら、会ってみたい人はいる。
なぜか、一度気になると背表紙から目を離せなかった。
(貰うだけ貰っておくか……)
結局、その本を手に図書館のゲートを出た。
館内からは、閉館を知らせるアナウンスが聞こえている。
昼間のサークル勧誘が嘘だったかのように、キャンパスは静かだった。
「その本を、返してください」
背後から、女性の声がした。
人の気配がないせいか、間近で囁かれたように、よく通る声だった。
足を止めて振り返ると、学生らしき女性が立っていた。
白いブラウスに、膝丈まであるベージュ色のスカート。
黒髪は肩のあたりで切りそろえられ、きちんとした身なりが真面目そうな印象を与えていた。
手に持っている『降霊と交霊の民俗学』を、貸出図書だと勘違いしているのかもしれない。
「本って、これですか? 持ち帰り自由と書いてありましたよ」
「それは大切な本です。返してください」
どうにも会話が噛み合わない。
とはいえ、俺も無理に持ち帰りたいわけではなかった。
図書館の手違いなら、素直に返せばいい。
「分かりました。図書館に返却すればいいんですね?」
「そうです」
そう答えると、女性はつかつかと歩き、図書館の中へ入っていった。
理由の説明もなく、返してほしいの一点張りだったことに、どこか腑に落ちないものを感じた。
後を追って図書館へ戻る。
けれど、白いブラウスの女性の姿は見当たらない。
受付にいた初老の男性職員から、
「閉館時間なので、返却以外は受け付けられませんよ」
と注意されてしまった。
「さっき、あそこのワゴンからこれを貰ったんですけど、返すように言われまして……」
本を差し出すと、職員はバーコードを読み込み、画面を確認した。
「おかしいな。これは除籍になっていますね。誰から返すように言われました?」
白いブラウスに、ベージュ色のスカートを履いた若い女性。
そう伝えても、職員には心当たりがないようだった。
持ち帰るのか、返却するのかと聞かれた。
返してほしいと言う人がいる以上、このまま持ち帰るのも気が引ける。
俺はその場で返却することにした。
男性職員へ礼を言い、再び図書館を出る。
どうもおかしい。
返してほしいと言っておきながら、本人はいない。
そもそも、本は返却する必要すらなかった。
もしかして――とも思った。
けれど、関わるとろくな目に遭わないことを思い出し、考えるのをやめた。
校門へ向かって歩いていると、慌ただしく駆けてくる男女二人組とすれ違った。
校門を出てしばらく歩いたところで、
「ちょっと待って!」
と、後ろから呼び止められた。
振り返ると、先ほどの二人がこちらへ駆け寄ってくる。
「さっき、図書館で『降霊と交霊の民俗学』って本を返却したよね? なんで返したの?」
女性の方が、いきなり問いただしてきた。
少し遅れて追いついた男性は、息を弾ませながら言った。
「透子くん、そんな剣幕で問い詰めたらかわいそうだろう。ほら、怯えてるじゃないか」
「私、そんなに怖い顔してました?」
そう言いながらも、眉間にしわを寄せて男性を睨んでいる。
「そりゃ怖いさ。なぁ?」
なぁ、と同意を求められても困る。
「急に呼び止めて悪かったね。僕らが調べている本を、ついさっき君が返したと聞いて追いかけてきたんだ。どうして、あの本を返したんだい?」
「部長、こういう時は、まず名乗るのが筋じゃないですか? すごく怪しまれてますよ」
「おっと、それもそうだね。僕はオカ研部長の真壁宗介。文芸学部3年だ。こちらは副部長の透子くん」
「教育学部3年の水瀬透子です。よろしく」
オカ研。
オカルト研究会ということか。
二人の快活な姿は、俺が思い描いていたオカルト研究会のイメージとは、ずいぶんかけ離れていた。
「えっと……経営学部1年の影山玲司です。確かに、持ち帰ろうとした本を受付へ返しました。返してほしいって、女性に言われたので」
「本当!? どんな人だったか、詳しく教えて!」
図書館を出たところで、白いブラウスの女性から声をかけられたこと。
大切な本だから返してほしいと、真剣な顔で頼まれたこと。
仕方なく受付へ返却したことを伝えた。
顔の特徴も聞かれた。
けれど個人を特定できるような特徴は思い出せず、少しつり目で、あまり化粧をしていない、大人びた印象としか言えなかった。
「分かるのは、それくらいです。話していたのは一分足らずだったので……」
「いや、十分だよ。とても有益な情報だ」
「部長、図書館から出てくる学生に聞き込みをしましょう。その女性が、まだ近くにいるかもしれません」
「うん。この機会を逃す手はない。行こうか、ワトソンくん」
「助手扱いしないでくださいホームズ部長!」
漫才のような掛け合いを聞きながらも、俺は先ほどの疑念を拭えずにいた。
これから二人が探そうとしている女性は、俺にしか見えない幽霊だったのかもしれない。
そうだとしたら、二人は存在しない人物を探すことになる。
そして俺は、また嘘つきになってしまう。
嘘つきと呼ばれることには慣れている。
けれど、この二人に無駄足を踏ませることは本意ではなかった。
「……あの本の、何を調べているんですか?」
二人は顔を見合わせた。
水瀬副部長が、少しだけ間を置いて答える。
「あの本はね、いわゆるイワクツキってやつなの。あなたがどういうつもりで返したのかは、まだ分からないけど」
「その前に、もう一つだけ質問してもいいかな?」
水瀬副部長の話を遮るように、真壁部長が身を乗り出した。
「君は、怪異の存在を信じるかい?」
「怪異って……幽霊とかですか?」
「そう。幽霊でも、妖怪でも、都市伝説でもいい。平たく言えば、見えないものの存在を信じているかどうかだよ」
「……存在しているかどうかは、僕だけでは分かりません。いたとしても、誰にも認められないなら、いないのと同じなので」
「はー! まったくその通りだ! どうしたら、そんな考え方へ至るんだろうねぇ、透子くん!」
真壁部長は笑った。
ただ、その目だけは一瞬、こちらを確かめるように細められた気がした。
「急に何を言い出すんですか。とにかく、私たちはあの本の噂を調べているの」
「なんでも、あの本に触れると必修単位を落とす呪いにかかるとか」
「やめてください! 新入生に一番効く冗談を言うの!」
水瀬副部長が、真壁部長の脇腹を肘で小突いた。
「冗談なんですか?」
「半分は」
「全部です」
即答だった。
「気にしないで。この人、基本いつも適当だから」
「だが、噂があるのは本当だ。処分用のワゴンへ出されても、翌朝には必ず元の書架へ戻っているらしい」
真壁部長は、そこで初めて声の調子を落とした。
「僕らは、それを『再履本』と呼んでいる」
「再履本? 再履修の本、ということですか?」
さっきまで読んでいた履修要覧にも書いてあった。
必修科目の単位を落とすと、再履修が必要になる。
「そう。単位を落とした学生が講義へ戻されるように、除籍された本が棚へ戻される。学生なら再履修。本なら再履本。いつまで経っても図書館を卒業できないという意味では、なかなか洒落が効いていると思わないか?」
「部長、そういうことを新入生の前で楽しそうに言わないでください。学生も少なくなってきていますし、探すなら急いだ方がいいですよ」
「おっと、そうだった。透子くんは、彼の連絡先を聞いておいてくれるかい?」
真壁部長はそう言い残すと、こちらへ手を振り、小走りで図書館へ向かった。
俺と水瀬副部長は、スマートフォンのチャットアプリで連絡先を交換した。
「それじゃ、何か思い出したら、いつでも連絡してね」
そう言って歩き出した水瀬副部長は、数歩先でぴたりと足を止めた。
「大事なことを伝え忘れてた。はい、これ!」
鞄から一枚の紙を取り出し、俺へ差し出す。
コピー用紙には、『常陽大学オカルト研究会 部員募集中』とモノクロで印刷されていた。
背景には何か写真が使われているようだが、何度もコピーを繰り返したせいか、原形を留めていない。
不気味さだけが際立っていた。
「部員は少ないけど、けっこう真面目に活動してるの。見学だけでも大歓迎だから」
そう言って、水瀬副部長は今度こそ図書館へ向かった。
帰宅してからも、あの女性のことが気になっていた。
本を返すように言ってきた白いブラウスの女性は、人間ではないかもしれない。
そして、『再履本』を調べている人たちもいる。
これ以上踏み込めば、誰も見ていない人間を見たと言い張る、ただのほら吹きだと思われるかもしれない。
かつての同級生たちが、そうだったように。
それでも、貰ったチラシを捨てることはできなかった。
(二人とも、話しやすくて感じのいい人だったな……)
部員募集のチラシに印刷された二次元コードを読み込むと、オカルト研究会が運営している動画チャンネルが表示された。
合宿の様子。
都市伝説の考察。
心霊スポットからのライブ配信。
意外と言っては失礼だが、かなり活発に活動しているらしい。
「その本を、返してください」
白いブラウスの女性の、真剣な眼差しが脳裏から離れない。
『再履本』を棚へ戻しているのも、あの人なのか。
だとしたら、どうして。
もやもやした気持ちを整理できないまま眠り、目が覚めても、まるで寝た気がしない朝だった。




