シャキッとしなされ
ノックもせずに扉を開けて入ってきたその人は、重そうな革の往診カバンを手にし、呆れたような顔で私を見つめていた。
「えっと」
「はあ、どうなさいましたか。変な顔をして」
「変な顔は仕様です」
「シャキッとしなされ」
コホン、キリッ。私は表情筋を立て直した。
「シシ先生は、シシリーナなんですか?」
ぶふぉっ、とイーリアが勢いよく吹き出し、カオルは口に手を当ててサッと顔をそむけた。
「はあ? シシリーナ? 一体何なのですか、それは」
「ここは男子禁制らしいので」
「ああ…………」
シシは一瞬、言葉を探すように斜め上を見た。
「私は、男性機能を手放しております」
「あっ、そういう」
いわゆる宦官だった、ということか。王宮で幼い王子達の世話係をしていたなら、後宮というか、王妃の居住エリアにも入ることがあっただろう。その仕官条件にあってもおかしくない。
「この山を出るための条件だった、というだけです」
「あっ、そういう」
そうか、シシは特殊な血と能力を受け継いでいる稀有な存在だ。万が一悪いお貴族様に目をつけられ、血を利用されたりしたら大変だ。
それに山を出たシシ本人が奔放な生活をしたりする可能性もなくはない。気がついたらザハリのように何人も子が、とか洒落にならないもんな。
「理解しました。生まれが高貴だと大変ですね」
「憐れむのはよしていただきたい」
「憐んではいません。だって、先生は医学を学べたことや、王子殿下達のお世話係になれたことを後悔なさってませんよね?」
「当然です」
「だったら、ちょんぎった甲斐もっむぐ」
イーリアに口をふさがれた。
「その愛らしい姿で下世話なことを言うんじゃない」
「むぅ」
ザコルと同じようなことを言う。やはりこの義理の母子は考え方が似ているな。
「ミカ様」
「むぃ?」
コホン、とシシが咳払いする。
「その言葉の刃で、カオリのことも両断してやればよろしい。本人もその方が諦めがつくでしょう」
「むぅ」
口が悪いぞと言われている。自覚はあります。
「というか、それくらいのことでもないとあの頑固者は山を降りんでしょうからな。しかし、私もあなた様に謝らないといけません。私が一刻も早く降りねば命が危ないぞと言ったせいで、そこの従姪とその息子が悪さをしてしまった」
「……っ」
カオルがキュッと手を胸の前で握る。
私はイーリアに手を離してくれるようジェスチャーで頼んだ。
「ぷは。えっと、先生の従姉妹のカオリさんはもしかして、慢性的な高山病、的な感じなんですか?」
詳しくないので曖昧な訊き方になってしまった。
高山病には急性と慢性があり、確か慢性の方は、二千メートル以上の高山で長期間暮らすことで発症すると、これまた何かの小説で読んだ気がする。何故発症してしまうのかなどは記憶にない。
私自身がインドアなせいで、山登り系の小説は何作も読んでいなかったうえ、読み直しなどもしておらず印象が薄いのだ。たとえ興味が薄いジャンルであろうとも、何事も学べる時に真剣に学ぶべきだったと今更ながらに悔やまれる。
「さすがはミカ様、山にまつわる病までご存知とは」
「いえ……」
詳しくないのに褒められた。気まずい。
「おっしゃる通り、あまり長い期間高すぎる場所にいると体を壊すことがある。また病を発症せずともこんな場所にいつづければ栄養は偏り、外に出て陽の光を浴びねば気力、体力ともに落ちる一方だ。カオリはあれでも保った方でしょう。ここは聖域であり、しがらみを捨てたいと願うものを匿う場所であり、そして、緩やかな死をもたらすための墓場でもあるのです」
『………………』
カオルはここを、出家した女を囲う檻、と表現した。
「やっぱり、罰を受けている気になっているんですね、その人は。私や、祖母のために」
カオルの方を見ると、彼女もまたこちらを見ていた。
あれから十六年、いや、カオリやカオルにとっては二十六年か、あるいはそれ以上か。ある意味で『記憶を失えた』私と違い、『香織』はその長い年月をどんな想いで過ごしてきたのだろう。娘として愛情をかけて育てた『香織』の帰りを願い、待ち続けていた祖母の姿も脳裏をよぎった。
「……しかし『旅』に出ると決めたのは、彼女自身だ」
えっ、と私とカオルは同時にシシの方を振り返る。
「この先は、頑固者本人に訊きなされ。説得の鍵はミカ様、あなた様に託されましたから」
「へっ」
どっ、と汗が湧く。
「……まっ、待って、私は、ミカ様に説得してもらおうだなんて思っておりません! ただ、逝くなら、その前に『姉』の顔を見せたかっただけなの!」
カオルが首を横に振っている。
「えっ、顔を? 私はてっきり、魔力を」
膨大な魔力ホルダーである私が垂れ流している魔力は、近くにいる人間に疲労回復、滋養強壮の効果をもたらす、とはシシの見解である。
「……魔力? 」
カオルは私の言葉の意味が分からなかったのか首をかしげた。そんなカオルを見かねてか、シシはフン、と小さく息を吐いた。
「確かに、ミカ様の魔力には人を救ける力がある。しかし、今回は魔力の垂れ流しくらいで治る段階は越えておりますよ」
サァ、とカオルが顔色を変える。
「……っ、ちがうわ! ちがう、ちがうの、私、ミカ様の魔力を当てになんてしてないっ! ただ、後悔してほしくなくて、間に合わなかったら、あの優しいミカ様も、悲しむと思って……っ」
「ああっ泣かないで、泣かないでカオルさん! 勘違いしてごめん、ごめんなさい!」
カオルは顔を覆ったままふるふると首を横に振る。
「いいえ、勘違いさせて当然よ。シリル……息子や神官には、あなたの威光を借りようという思惑があるわ。長老も、他の女衆だって分からない。私達を山に縛りつけてきた枷を、どうしてあなたにまで背負わせなければいけないの。息子と夫の命を救けるために危険な河岸まで走ってきてくれた、リラをずっと気にかけてくれた、優しい優しいあなたに……っ」
川に濁流が走ったあの日。カオルは若手のひとりとして、シリル達を救けるために河岸付近にいたらしい。私は河岸に走る直前、シリル達の祖母で、カオルの義母から状況を聞いていた。
「私、あなたとつながりがあるかもしれないと知れて嬉しかったの。でも、実際に会ってみれば、あなたが他人行儀でいるのが悲しくて、今更家族と思うなと言われているようで、なのに、私達のために思いつめているのは分かって、私には心配もさせてくれないのかって………ごめんなさい、めちゃくちゃよ、こんなのは、子供の駄々だわ……っ」
……もったいない、と思ってしまった。
私は、この愛情深いカオルにここまで想ってもらえる人間だろうか、と。しかし、そうして人の愛と自分の価値を疑うのは、私の悪い癖でもあるのだろう。
とまどいと、こそばゆさと、哀しさと。
私はこのカオルにどんな言葉をかけるべきなのか。ぐるぐると色んな気持ちがかけめぐる。
不意に、目の前がくらりと傾いた。
つづく




