二十歳の正論と、夏の歪み
7月 6日
夏が、僕の思考をじりじりと焼き焦がす。
知能年齢は二十歳に達した。法的には成人、精神的には「無敵」の季節だ。
だが、今の僕が抱えているのは、世界に対する言いようのない苛立ちだ。知れば知るほど、周囲の人間の思考がいかに恣意的で、論理的な一貫性に欠けているかが目につき、耐え難くなる。
今日、塾の自習室でトラブルがあった。
些細なことだ。隣の席にいた現役の高校生たちが、模試の結果を肴に、労働や格差について空疎な議論を戦わせていた。
「結局、頭の悪い奴が底辺でパンでも焼いてりゃいいんだよ」
その一言が、僕の脳内の導火線に火をつけた。
僕は立ち上がり、彼らの論理の欠陥を一つずつ、冷徹に指摘し始めた。
市場経済における労働価値説、教育の機会均等という建前、そして彼ら自身の特権的な無知。僕の口から溢れ出したのは、教科書から得た知識を弾丸に変えた、暴力的なまでの正論だった。
「君たちが『底辺』と切り捨てたその場所がなければ、君たちの食卓に並ぶパン一つ、明日には消えてなくなる。想像力の欠如を、知性の証明だと勘違いするのはやめたまえ」
教室内は静まり返った。講師が駆けつけ、僕をなだめようとしたが、僕は止まらなかった。
三十五歳の男が、二十歳の熱量で、十代の子供を論破する。
その光景は、客観的に見てひどく滑稽で、なおかつ醜悪だっただろう。
結局、僕は「他の生徒の迷惑になる」という理由で、その日の授業への出席を拒否された。
帰り道、夕立に打たれながら、僕は自分の拳が震えていることに気づいた。
僕は彼らに勝った。論理において、僕は一点の曇りもなく正しかった。
それなのに、なぜこれほどまでに虚しいのだ。
パン屋に戻ると、ギルバートさんが黙ってタオルを差し出してきた。
「ガイ、何があったかは聞かねえ。だがな、正しいことを言うときほど、言葉の温度には気をつけろ。熱すぎるパンは、人を火傷させるだけだ」
その言葉さえ、今の僕には「無学な者の逃げ口上」に聞こえてしまう。
二十歳の僕は、あまりに高慢で、あまりに孤独だ。
砂時計の砂は、僕の焦燥をあざ笑うかのように、さらさらと、冷ややかに落ち続けている。




