真夏の高嶺と、閉ざされた教室
8月 6日
避暑地の高原に設けられた合宿所。気温は下界より数度低いはずだが、数百人の受験生が放つ熱気と焦燥が、空気の密度を異常に高めている。
知能年齢は二十一歳に達した。今の僕にとって、塾が提供する「受験テクニック」の類は、あまりに底が浅く、退屈なパズルの解法にしか見えない。僕は講義の合間、合宿所の図書室で見つけたカントの『純粋理性批判』を読み耽っている。
「ガイさん、そんなに難しい顔をして、何を読んでるんですか?」
声をかけてきたのは、先月のトラブルで口論したあの高校生の一人、佐藤君だった。彼は僕の隣に座り、真っ黒に書き込まれた単語帳を机に置いた。
「……哲学だよ。君たちの勉強には、直接役には立たないものだ」
僕は努めて冷静に答えた。二十一歳の僕は、先月のような子供じみた怒りの制御を学んでいる。
佐藤君は苦笑いして、「僕らには、目の前の公式を覚えるだけで精一杯ですから」と言った。その顔には、一ヶ月前のような傲慢さはなく、ただ明日への不安と、僅かな敬意が混じっていた。
夜、自習室の窓から見える星空を眺めながら、僕は奇妙な疎外感に襲われた。
彼らには「来年」があり、「十年後」があり、無限に続くかのような「未来」がある。だからこそ、今この一瞬を、公式の暗記という矮小な作業に捧げることができる。
だが、僕の砂時計は、彼らのそれとは異なる速度で落ちている。
僕の知能がピークを迎える「五年後」には、彼らは二十代半ばの社会人になっているだろう。そして僕が「霧の中」に帰っていく頃、彼らは人生の盛りを謳歌しているはずだ。
その時、突然、視界の端が白く弾けた。
強烈な頭痛。脳の奥を直接ナイフで削られるような、鋭利な痛みだ。
僕は思わず万年筆を落とした。
(……副作用か?)
ミラー先生の言葉が、氷のような冷たさで脳裏をかすめる。知能の向上が緩やかになった一方で、脳への負荷は限界に達しつつあるのかもしれない。
「ガイさん? 大丈夫ですか?」
佐藤君が心配そうに覗き込んでくる。
僕は震える手で日記を閉じ、精一杯の「二十一歳の微笑」を作った。
「……大丈夫だ。少し、知恵熱が出ただけだよ」
僕はあと何回、この「大丈夫」という嘘をつけるだろう。
合宿所の消灯時間は近い。
暗闇が訪れる前に、僕は今の僕にしか理解できないこの「星の配置」の意味を、ノートの隅に数式で刻みつけた。




