第8話
授業が終わると、僕は足早に廊下へ向かった。
部活に所属していない僕が、遅くまで学校に残る理由はない。
「だーれーだー」
足音も立てずに、背中へ飛びついてくる。
また始まった、と心の中でため息をついた。
毎回これに付き合わされる身にもなってほしい。
「朝比奈か?」
彼女は首に回した腕をぎゅっと締める。
「次、間違えたら、ほっぺにキスするぞ」
元恋人に、こんなことをするものなのだろうか。
「ごめん、ごめん、真琴」
彼女は僕の背中から、ひょいと飛び降りた。
トレードマークのポニーテールが大きく跳ねる。
「理久君は女心が分かっていないね。か・わ・い・い・真琴ちゃん、が正解だよ」
僕の目を真っすぐ見ていた彼女の笑顔が、一瞬だけ固まる。
「私にあんなことしておいて、次は颯希ちゃんを狙うのか」
あんなこととは何だろう。
少なくとも、僕には思い当たることがなかった。
彼女の冗談だろう。
廊下を行き交う生徒の波が増え始めている。
遠巻きに僕らを見ている視線が、やけに多かった。
「真琴がちょっかいを出しすぎるから、まだ変な目で見られるんだよ」
ねーさんの言動によって、学校内での僕の印象は悪くなっていると思う。
真琴まで加わると、たまったものではない。
「役得だね」
そう言って、彼女は軽く肘で僕の脇腹をつついた。
背中に残る体温を意識しても、何も感じることはなかった。
彼女と並んで下駄箱へ向かう。
胸元では、青いリボンが揺れていた。
彼女はゆっくりと言葉を選びながら、僕に話し始めた。
「美咲ちゃん、私のこと苦手でしょ?」
彼女は僕の表情を読むように見つめている。
「だから、同じ部活には来ないと思ってた」
彼女は僕の沈黙を肯定と受け取ったようだった。
「一年生でベンチ入りした子がいるんだよね」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「期待の新人が入ったんだね」
思わず感嘆の声を漏らした。
「美咲ちゃんだよ」
「初耳だ」
僕は彼女に聞き返した。
「まだ美咲ちゃんには言ってないから」
彼女は楽しそうに笑った。
「大丈夫。今日、美咲ちゃんには話すから」
ねーさんの前で、初めて聞いたような顔ができるか、それだけが心配だった。
真琴は僕の袖をつかむ。
「ねえ、初レギュラーなんだ。褒めて」
褒めるために伸ばしかけた手を止める。
「何かご馳走するよ」
「嘘ついたら……」
彼女の言葉は、廊下の騒音にかき消された。
「あ、颯希ちゃーん!」
彼女は前方を歩く一人の少女に、大声で話しかける。
その相手は、朝比奈颯希だった。
真琴の親友で、二年生のテニス部エース。
僕は数回しか話したことがなく、人柄までは知らない。
ただ、女子からの人気は高いらしい。
「理久、私、部活行くね」
駆け出そうとする彼女を呼び止める。
「僕があげたハンカチ、まだ使っているの?」
彼女はポケットに手を差し込み、校庭の桜に目をやった。
春風に花びらが舞う。
「女の子ってさ、元カレのものなんて残さないんだよ。普通はね」
僕はその表情を確かめず、ただ桜の舞う校庭を見ていた。




